――今宵起こることは『鬼』がしたことで御鏡家と一切無関係。御鏡の三十代目は死んでいて、今の当主は三十一
代目…いいな。
緋色の舞装束に身を包んだ父は、皆の前で静かにそう告げた。
その指にはもう、何もなかった。
父が持っていた当主の指輪は、『三十一代目当主』が受け取ったからだ。今まで当たり前のように父の指に嵌って
いたそれがないことが、より一層悲しかった。
自分はまだこの家に来て漸く二ヶ月が経っただけだが、それでも父がどれほど偉大で、一族から頼りにされる当主
であるかはよく分かっていた。
御鏡家の血に穿たれた呪いの存在を知ってもなお、この先もずっと父が当主のままでいるのではないかと――そう
思ってさえいた。
まさか今宵、父が自ら死を選びに行くなど。
命と引き換えに、御鏡家にとって災いとなるものを殺めに行くのだ、と父は事も無げに言った。
御鏡家にとっての災い。
下界に降りたら父の手助けをして鬼と戦うのだ、と母神から聞いていた。自分が戦うべき相手は鬼なのだと。そう
思っていた。
しかし、実際はそうではなかった。
選考会に乗じて、一族を亡き者にしようと企てた輩がいたのだ。それを目の当たりにした時、一体何が起こったの
かが理解できなかった。
亡き者にしようと――鬼ではなく、人が。
鬼の巣だけではなく敵は都の中にもいることを、初めて父から聞かされた。
災いの芽は摘み取らねばならない、と父は言った。
――俺の命はあとわずかだ。惜しいとは思わない。
そう言った父に、誰も異を唱えることはできなかった。父が皆に背を向けて出て行こうとした時も、言葉を発する
ものはいなかった。
思わず、言葉が口をついて出ていた。
――父上。
――どうぞ、お気をつけて…ご武運を。
本当に言いたかったのは、こんなことではない。しかし、他に言いようもなかった。
父が憂いなく『出陣』できるよう。自分は後継者として立派に努めて参ります――そういう思いを込めての振る舞
いとは裏腹に、目の端に涙が滲むのを堪えることができなかった。
振り返った父は、やわらかく微笑んだ。父がこんな風に笑うのを見るのは、初めてのように思えた。
――知らないうちに、大きくなったな。
頬に触れた父の手のぬくもりが悲しくて、瞼がじん、と熱くなり、それ以上は何も言えなくなった。
父が出て行って暫くの後。
遠くの方から喧騒が聞こえて来た。夜風に混じって聞こえるそれは、悲鳴とも、怒声とも聞こえたが、皆ただ黙っ
てそれを聞いていた。
外が静かになっても、誰も身動きしようとしなかった。
家の中の時だけが止まったかのように思えた時、夜の闇の中からひらりと何かが舞い込んで来た。
黒揚羽。
闇から形作られたかのようなそれは、月の光を受けてひらりひらり、と皆の間を静かに飛んだ。
――当主様。
誰かが言ったのを皮切りに、誰もがあの黒揚羽は当主様だ、と口にした。
黒揚羽は、最後にひらりと自分の髪に止まると、外へと出て行った。
――父上。
確証はないが、あれは父だ――そう思った。
涙はもう、出なかった。
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