都中が『緋色の鬼が出た』という話題で持ちきりになったのは、御鏡家の三十代目当主が出て行った翌朝のことで
ある。
三十代目当主であった湧弥は、そのまま帰って来なかった。
『緋色の鬼』は、手も触れずに近寄るものすべてをばらばらに切り刻み、疾風のごとく走り去った後炎に包まれ、
いなくなったという。人々の口の端に上る話から、一族は湧弥が目的を完遂したことを――御鏡家に災いをなすもの
を屠り去り、自ら命を絶ったことを知った。一族が災いに遭う恐れはなくなったが、皆それを喜ぶ気には到底なれな
かった。
沈み込んでいた雰囲気を一気に吹き飛ばしたのは、天へ出かけていたイツ花が携えてきたひとつの知らせである。
湧弥に氏神の資格あり、と。
人を幾人も殺めた者に、天が氏神になる資格を与えてくれると思えない、と誰もが思い込んでいたから、この知ら
せに一族は喜びに湧いた。
皆が崇拝に近い感情を抱いていた、絶対的当主の氏神昇天。天に湧弥がいてくれる、という安心感からの喜びは勿
論のこと、彼の想い人との交神が実現することも皆喜んだ。
湧弥は、同じ一族の娘への想いを抱いたまま出かけていき、帰ってこなかったのだ。彼の『出陣』に際してそのこ
とが明らかになり、二人の交神は湧弥の命と引き換えに得た平穏の第一歩、授かるであろう子は幸せの象徴のように
思えた。
「正澄、庭の桜が咲き始めたよ。今年は季節はずれに温かい日が多かったから、普段よりも随分早いんだって」
室内で術の巻物を紐解いていた正澄に、三十一代目当主を引き継いだ美苑が声をかけたのはそれからさらに数日後、
三月も下旬にさしかかろうかという頃であった。
御鏡家の庭には、一本の桜の木がある。
初代当主が生まれた折、両親がその誕生を祝って植えたものだという。三月の終わりから四月の初めの頃に咲く、
えもいわれぬ美しさの花であると正澄は聞いていた。
あとで見てご覧、満開になったらきっと綺麗だろうね、と美苑は言い、正澄に笑いかけると出て行った。
多分美苑は自分を気遣ってくれたんだろう、と正澄は理解していた。一族が皆湧弥の氏神昇天を喜ぶ中、湧弥の息
子である正澄だけはその気にはなれなかった。
父が氏神になったことは喜ばしいことであり、その父が天にいてくれるということについては嬉しいと感じていた。
しかし、父が自ら凄惨な死を選んだことにかわりはないのだ。
父が今月天寿であることは覚悟していたが、まさかあのような別れ方になるとは思っていなかった。
父の後継であったのに、何もできず見送ることしかできなかった。まだ二ヶ月の無力な子供である自分がただただ
悔しく、自分がもっと大きかったら、あと数ヶ月早くこの家に来ていたら。そう思わずにはいられなかった。
正澄は踊り屋――舞手である。父である湧弥も舞手で、父から舞手の後継者に相応しくあれ、と言われて育った。
御鏡家の舞手は稀有な存在である。舞えばその手はたちどころに目に見えぬ刃を生み出し、鬼の強靭な手足も硬い
鱗もやすやすと引き裂くことができた。術者の、印や詠唱によって風を呼んだり炎を起こしたりということに似てい
るが、舞手のそれはすべて舞踏によって行われる。
舞手の力はあの朱点童子も恐れたため、呪いによって初代当主の中に封じられた。呪いを穿たれる前は、御鏡家の
者の大半が舞手であったという。初代当主から何代も重ねて神気を取り込み続けた結果、一族には舞手の力を持つも
のがちらほらと生まれるようになったが、その失われた力を完全に引き出したのが湧弥だと言われている。
舞手は御鏡家そのものであり、初代当主が本来持っていた力である。それゆえ、舞手は一族の間で特別視されるの
だ。
一族にとって、絶対的な存在であった湧弥の子であり舞手。しかも、正澄は精悍な風貌だった父に似ず、この世な
らぬもののように美しい顔立ちをしていた。正澄が元々子供らしい大きな感情をほとんど出さなかったこともあって、
一族は自然と彼を普通の子供としては見なくなった。
正澄に感情がないわけではけしてないのだが、感情を表に出さないこと、自分を抑えることに慣れているのである。
笑うこともめったにない。これは正澄生来のものではあるが、湧弥が正澄を己の『息子』としてではなく、『後継者』
として育てたことによるところも大きい。しかし、正澄にとってそれは当たり前のことであったし、敬愛する父に
『後継者』として認めてもらいたいと思いこそすれ、自分の境遇を疎んじたことは一度たりともなかった。
見た目やそういった雰囲気に加え、この時期は一族のほとんどが女だったこともあり、神秘的で近寄りがたい、気
安く話しかけてはいけない――正澄は女達からそのような印象をもたれていた。これについては敬遠されているので
はなく、神聖視に近いものであった。同じ目線で正澄に気さくに話しかけてくるのは、現当主の美苑だけである。
周囲が自分のことを気安く話しかけられない、というように見ていることも、歳が近い同性がいなかったこともあ
って、正澄は特に寂しい、悲しいと感じたことはなかった。一族に対しての情がないからではなく、一族にとって自
分とはそういう存在、と特に疑問もなく思っているからである。とにかく、正澄は自分というものを外側から割り切
った目で見ていた。
しかし、正澄は皆が喜んでいることに水を差すようなことはしたくなかったし、自分だけが悲しい気持ちでいたら
天の父はきっと落胆するだろう、とも思っている。だが、感情をほとんど表に出さない彼が、心のうちに静かな悲し
みを抱いていることを皆察していて、大っぴらに喜ぶということは誰もしない。
湧弥との交神を控えているのは美苑の妹である。それを誰よりも喜んだのは美苑だったが、正澄を気遣ってさりげ
なく世話を焼いてくれている。正澄は、申し訳なく感じていた。
(おめでたいことだというのに)
御鏡家の交神は、神々にただ『協力』を求める場合――男女の情がない場合――も少なくない。湧弥の生前の交神、
つまり正澄が生まれることになった交神も、ただ舞手の力を残すためのものであった。正澄は母神から優しくしても
らったが、父にそういうひとがいたということはあるがままに受け止めていた。父が想うひとのことは正澄も好意的
に思っていたから、そのひとが父の相手であること、自分に母違いの弟か妹ができることについては、顔には出さな
いものの喜ばしく感じている。
引っかかっているのは、自分は後継でありながら父をみすみすあのような死なせ方をした。それだけのはずだ。
(そう…『後継』なのに。だからこんなに、塞ぎこんでいるんだ)
幼い頃から、何にしても『そういうもの』と割り切る正澄だったが、今回については自分でも戸惑うほどに気持ち
が塞いでいた。悲しいことはもう一通り終わって、これからは喜ばしいことばかりが待っているはずであるのに。
正澄は小さく息をつき、立ち上がった。
正澄が庭に下りてみると、黒々とした桜の枝にいくつかの花が開いていた。まだ数えるほどしか咲いていない。空
が生憎の曇天だったこともあって、それは花というよりは木に残った雪のようにも見えた。
何だか、自分に似ている気がするな。
空間の方が目立つ枝の間で、ぽつりぽつりと咲いているその様子は、正澄には随分と寂しげに見えた。
(いけない、また塞ぎこんで)
正澄は、小さくかぶりを振って桜の木から離れた。
それからは、美苑や年長の一族達が日ごとに桜がどのくらい咲いたと話題にしていたが、正澄は桜を見ないように
していた。
咲き始めのときには随分寂しそうだと思ったが、暖かな日がずっと続いているから、花が綻ぶのもいつもより早い
らしい。花開いていくうち、木はきっと賑やかになったことだろう。正澄が最初に見た花は、もうどこにあったかが
分からないぐらいになっているだろう。
桜を見たら、自分だけが取り残されてしまったように考えてしまいそうだった。だから、室内で静かに学問に励む
日々を送っていたのである。
次の討伐は、月が明けてからのことになる。早く討伐に行きたい、とすら思った。戦っていればきっと、余計なこ
とを考えないだろう。
(…情けない)
自分は父上の後を継いで立派な舞手となります、だからご心配なきよう――父と別れる時はそう振舞ったつもりだ
ったのに。ふさぎこんだ気持ち、父に逢いたいという気持ちが日増しに強くなっている。
幼い頃から、もっと父に相手をして欲しい、一緒にいて欲しいと思っても、「父上はお忙しいのだから」とそれを
抑えることができたはずだ。
(どうして抑えることができない。こんなざまでは、父上はがっかりなさる。しっかりしなくては)
外を見ると、今日は穏やかに晴れていた。
きっと、室内にこもっているから余計に気が塞ぐのだ。庭に出てみよう、と正澄は思った。美苑が、昨日「桜の花
がすべて咲いた」と教えてくれていた。
今日美苑は、当主としての勤めがあって内裏の方へ出向いている。イツ花は一族の誰かを伴って、市へ買い物に出
かけたようだ。先ほどまでは、女達が姦しく桜の木の前ではしゃいでいたが、家の中に戻ったらしい。何かの遊びに
興じている様子が聞こえてくる。庭には、今は誰もいなかった。
桜に向かっていた正澄の足がふと、止まった。
「――」
広がっている光景は、当初自分が考えていた「取り残されたように感じるのでは」というようなものではなかった。
春の白く柔らかな日差しが、木の真上から降り注いでいる。
花に日が当たっているというよりは、枝全体に広がった花そのものが、あえかな光を纏っているかに見えた。
一枚ずつひらひらと舞い降りる花びらが日差しを受けて、光の欠片が輝きながら落ちていくようだった。
一枚、また一枚と。木から零れ出た光の欠片は音もなく、ゆっくりと地へ舞い降りる。
正澄は、吸い寄せられるように木に近寄った。
桜の木は、眺めるものに手を差し伸べるように枝を伸ばし、正澄のすぐ目の前でたわわに咲いた花々が鞠のように
連なっていた。
陽光を透かした花がまばゆく輝きながら視界を埋め、桜に飲み込まれそうだ。かすかに漂ってくる桜の香が、木の
周りの大気をさらに柔らかなで軽やかなものにしているように思えた。
春の風が、花の中に立ち尽くす正澄の銀青色の髪を、薄絹で撫でるようにふわりと通り過ぎていく。手前から奥の
方まで無限に広がっているように見える花々が、囁き交わすように揺れていた。
この木の周りだけは、時の流れが違うのではないだろうか。
正澄はそう思いながら、魅入られるように桜を眺めていた。こんなにも綺麗な景色は、天でも見たことがない――
そう思った。
(…父上は、去年この景色をご覧になったんだろうか)
まだ月は替わっていない。父は今月が天寿だった。
あんなことがなければ、二度目の桜が見られたかもしれない。
取り残されたという思いではなく、父にもこの景色を見てもらいたかった、という思いが湧き上がってきた。
「…父上」
ぽつりと正澄が呟いた時、それに誘われるように桜の淡い色の陰からひらりと舞い出たものがある。
黒揚羽。
黒揚羽などどれがどれやら見分けもつかないが、正澄はふと「あの夜に飛んでいた黒揚羽だ」と思った。
思ったが、すぐにその考えを否定した。
(…莫迦な)
あの夜。黒揚羽が飛び去った後、美苑が「蝶は人の魂の化身なんだよ、だからあれはきっと当主様だね」と教えて
くれた。だったら尚更、あの夜に飛んでいた黒揚羽であるはずがない。
父の魂は今――氏神として天に在るのだから。
黒揚羽は、ひらりと正澄の傍らに舞い寄ると、その銀青色の髪に止まった。
「…もしかして、お前は慰めてくれているの?」
自分の髪で羽を閉じたり開いたりしているであろう黒揚羽に、正澄は問うた。父の魂であるということを否定はし
ても、何故か黒揚羽に親しみと温かさを覚えた。
もしかすると本当に、この黒揚羽は誰かの魂なのかもしれない、と正澄は考えた。あまりに自分が塞ぎこんでいる
から不憫に思って寄ってきたのか、自分の様子に遺してきた家族を重ねたのかもしれない、と。
正澄の言葉に、黒揚羽はひらりと飛び立って、桜の花の向こうへ消えていった。後には、風で桜の花々がさざめく
かすかな音と、家の中から聞こえる女達の声だけが残った。
庭に出るまでの塞ぎこんだ気持ちは、随分と軽くなっていた。
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