正澄が、都のはずれにある阿部晴明の屋敷を訪れたのは、その数日後のことだった。
晴明は、湧弥の友人である。陰陽師でもあった湧弥は、暇を見つけては晴明の屋敷を訪れていた。そして湧弥は
『出陣』する前、息子の助けになってやってくれ、と晴明に頼んだそうなのだ。
正澄は既に、舞手だけでなく湧弥と同じ陰陽師としての道を歩むことも決めていた。だから湧弥は、自分亡き後の
師は晴明に、と前から考えていたらしい。
湧弥が帰らぬ人になった後程なくして、正澄は美苑とともに晴明のもとへ挨拶に赴いたが、今日は一人だった。晴
明に手ほどきをしてもらうのは、月の終わりと決まっている。月の大半を討伐先で過ごすことを考え、予め湧弥が話
をつけていたようだった。この日美苑は、少し心配そうな顔をしながら送り出してくれた。
晴明は屋敷に独り住まいで、身の回りのことは使役する式神たちが行っている。必要な時以外には出てこないため、
さほど大きくもない屋敷は不自然なほどに片付いていて、常にしん、としていた。
晴明の屋敷にも、桜の木が植わっている。花の盛りはもう過ぎて、散る数が多くなった花びらがひらひらと音もな
く、地面を桜の色に染めていた。
「晴明先生は…父と懇意になさっていたと伺いました」
それを眺めながら、正澄はおもむろに口を開いた。傍らで巻物を広げていた晴明は、正澄の問いに他人事のような
返事をした。
「そうだな」
阿部晴明は、年の頃がよく分からない男である。顔の部分部分は恐ろしく整っているが、その形や並びがあまりに
整いすぎているからか、逆に個性が消滅して全く印象に残らない顔をしていた。愛想を振りまくことはないし、人に
合わせるということもしないので、都では術者としての能力はともかくすっかり変人扱いされている。
正澄は一瞬ためらうように口をつぐんだが、今まで考えていたことを口にした。
「晴明先生は…父が『鬼』になりに行く時、手助けをして下さったのではありませんか」
これは正澄だけでなく、一族全員が考えていたことである。ただ、湧弥以外に晴明と親しくしていた者がいなかっ
たので、確認のしようがなかったというだけであった。
正澄の問いに対し、晴明は色のない唇にわずかな笑みを浮かべた。
「あれは、君のお父上が並みならぬ心の強さを持っていたがゆえのこと。俺は確かにあの場にいたが…手助けとい
うほどのことはできなかった」
「父は…ここにお邪魔する折には、どのように過ごしていたのですか」
晴明の屋敷は閑散としていたが、どこかに父の気配が残っているように思えて、正澄は視線をめぐらせた。
「色々だ。術式のことだとか、大陸の方の書物のことだとか、野草から作った薬のことだとか…俺はこのとおりの
変人だが、その俺の話について来られるような相手は今までにいなかったから、楽しく過ごさせてもらった」
「そう…ですか」
ぽつりと呟いた正澄の横顔を眺めながら、晴明は正澄が言外に望んでいるであろうことを口にした。
「君のお父上が『鬼』になった夜…最後に少しだけ、言葉を交わした。君の事を話していた」
弾かれるようにこちらを見た正澄の、歳相応の少年の顔を見つめ返し、晴明は小さく笑った。
「君の事は、自分の『後継者』として育てたそうな。御鏡家の舞手の力を継ぐ者、将来的には当主たる者として――
だが、そうではなかったと言っていた」
「そうでは…なかった?」
あの夜。緋色の舞装束に身を包んだ湧弥は、晴明にこう言ったのだという。
――息子は、俺の『後継者』と…そのように育てた。だが、俺はそれだけではなかったことを見落としていたよう
だ。
――後継者である前に、俺の血を分けた子だ。気づくのが遅すぎた。
湧弥は舞装束の面を被り、晴明に背を向けた。
――来訪した頃から聞き分けのいい子で、はい父上、と…俺の言うことをよく聞いた。
――だが聞き分けがよくても、戦に出られるようになっても…まだ子供だ。親と別れるには辛い歳だ。何故今まで
…そう見てやらなかったのだろうな。
晴明は、その緋色の背中に声をかけたのだという。
――気づいたのなら、きっとそれは息子にも届いたろう。
晴明の言葉に、湧弥は小さく「そうか」と呟いて、そのまま夜の帳へ消えて行った。
正澄は、晴明が話すことを声もなく聞いていた。
父はいつも、自分の前では『当主』だった。言われたとおりにできた時もそうでない時も、父は穏やかな笑みを湛
えていたが、それ以上のことはしなかった。頭を撫でてもらったことも、手を繋いでもらったことすらもない。しか
し自分にとっては、それが当たり前だった。
この方は『父』である前に『当主』なのだから。自分が独り占めしていい方ではないのだから――そう考えて、自
分の感情は常に抑えた。
しかし、父が自ら死を選びに行く時、それは当たり前のことではなくなった。
あの時本当に言いたかったのは、行かないで下さい、死なないで下さいというようなことだった。
それでもなお、父を止めることはできない、止めるべきではないという自制心が働いたが、感情を抑えることはで
きなかった。自分が泣いたのは、恐らく生まれて初めてのことだったのではなかったか。
――知らないうちに、大きくなったな。
(ああ)
正澄の萌黄色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が白磁のような頬を転がり落ちていった。
父にとって自分が『後継者』の前に『息子』だと思ったのがあの時なら、自分にとっても父が『当主』である前に
『父』なのだと。心から思ったのがあの時だったのだろう。
あの時の父は、今まで見たことがないような柔らかな笑みを浮かべていた。頬に触れた手は、優しく温かかった。
それまで父に触れられたのは、舞の手ほどきをしてもらった時だけだ。
もっと、ああして欲しいこうして欲しい、と子供らしく振舞ってもよかったのだろうか。
塞いだ気持ちになっていたのは、『後継者』たる自分が力になれなかっただけでなく、『父』がこの世からいなく
なってしまったからなのだと。
それが悲しくて寂しいからなのだと――今、初めて気がついた。
「…その様子だと、俺がお父上に言ったことは間違いではなかったようだ」
晴明は、言葉もなく涙を落とす正澄に優しげな笑みを浮かべた。その笑みがどこか父に似ている、と正澄は思った。
ふと、ひらりと庭の桜の方から舞い込んできたものがある。
「…黒揚羽?」
黒揚羽はひらりと正澄の周りを一周すると、その髪にとまった。
(まただ)
何故か、ここのところ自分の周りに黒揚羽を見かける。御鏡家の桜の木の下で見かけただけではなく、その後も何
度か自分の周りをひらりと舞っているところを目にした。
「晴明先生…この黒揚羽は」
正澄は、戸惑ったように黒揚羽と晴明とを見比べた。
「ここのところ、何度も見かけるのです…同じものであるかは分かりません。でも、同じものであるように思える
のです。一番初めに見たのは…あの夜に。父が帰ってこなかった夜でした」
「では、それは君のお父上の化身なのだろう。だから君の傍を離れないのではないかな」
「でも、そんなはずはありません。なぜなら――」
父の魂は、氏神となって天に在るのです。
正澄はそう言いかけたが、晴明がどこまで御鏡家のことを知っているかが分からなかったので、口をつぐんだ。
晴明は、正澄の様子を気に留める風でもなく、穏やかに笑ったままこう言った。
「お父上でなくとも、君を気にかける理由がきっとあるのだろう。今ではなくとも、どこかで何らかの縁があった
のかもしれん。だから君の傍にいたいのだろう。だったら、いさせてやればいい」
髪に黒揚羽を留まらせたまま、正澄は晴明の言葉の真意をはかりかねてきょとんとした。その表情は、歳相応にあ
どけない。
「お父上と同じ道を――陰陽師としての道を歩むと決めたのだろう。ならば、それを君の最初の式神にすればいい」
「同じ…道を」
正澄の言葉に誘われるように、黒揚羽は再びひらりと舞い上がり、正澄の周囲をひらひらと舞い始めた。正澄が指
を伸ばすと、その白い指の先に黒揚羽は止まり、羽根を開いたり閉じたりした。
「そう…ですね」
正澄は、黒揚羽を指に止まらせたまま笑みを浮かべた。
「晴明先生…父のことを教えて下さり、有難うございました。そのことだけでも、ここに伺って本当によかった」
「そうかな。お父上は、余計なことを言いおって、と今頃苦笑いしているかもしれんよ」
「いいえ…きっと父は、私と同じ気持ちだと思います」
「そうか」
正澄は知らない。
その黒揚羽が――本当に『お父上の化身』であることを。
湧弥が『出陣』した夜。湧弥は自らの体を焼き払い、その命を終えた。
炎が消え去った後には、湧弥であった灰が遺されていたが、『鬼』を恐れた人々は固く扉を閉ざし、誰も近寄ろう
とはしなかった。
徐々に風に吹かれて散っていくそれを集めたのが、晴明であった。
そして、黒揚羽の姿に変えて御鏡家に届けたのだ。正澄から離れようとしないのは、湧弥が間際に見せた息子への
情ゆえだろう――晴明はそう考えている。
だが、晴明はそれを伝えるつもりはない。
(それでよかろう…湧弥)
指に止まった黒揚羽を見つめる正澄の表情は、晴明の屋敷を訪れた時とは――いや、湧弥が死ぬ前と比べても――
比べ物にならないほど柔らかかった。
庭では、桜がただ音もなくひらひらと花びらを落としていた。
了
【あとがき】
湧弥を喪った後の正澄については、前々から大筋はできていたのですが。桜の花に囲まれて、という描写は、昨年
のゴールデンウィークあたりにふと思いつきました。その頃には管理人が住む関東地方での桜はとっくに散っていて、
手をつけるにしても時期がはずれたなあ…ということで先送りになっていたものです。2013年の桜は、季節はずれの
温かさが続いてあっという間に開花してしまい、予定が大幅に縮まって少々焦りました(笑)。ただ、書いていた時
期が実際に満開になった桜を見た時期と重なったため、よりイメージが掴みやすくなったような気がします。
ちなみに、作中の桜の描写はソメイヨシノのイメージ…というか、私が描く御鏡家の桜はすべてソメイヨシノにな
ってます。江戸時代に品種改良されたソメイヨシノがあるわきゃないんですが、そこはイメージ先行でお願いします(え)
晴明が正澄に黒揚羽の真相を伝えなかったのは、既に正澄が一人で前に歩こうとしていると判断したからかなとい
うことで。逆にそれが弱さになるかもしれない、と。
正澄は、この後随分と喜怒哀楽が豊かになりました。随分と、と言っても元々が物静かで大きく怒ったり笑ったり、
ということをしない気性でしたし、見た目が見た目なので女所帯で神聖視されているのは変わりませんでした(笑)。
ただ、年下の女子が増えたこともあって、前のような近寄りがたい存在というよりは、とても綺麗な高嶺の花という
ような印象を持たれるようになります。一族と言葉を交わす機会も、格段に増えました。
終始自分に気さくに接してくれた美苑には、正澄はそのうち淡い想いを抱くようになりますが、それはまた別のお
話。
湧弥の後継者として育ち、自身も舞手の力を残すことに強い使命感があった正澄は、御鏡家の桜が再び満開になっ
た翌年四月に交神へ赴きました。そうして生まれた息子が、後に三十四代目当主であり御鏡家最強の舞手と呼ばれる
ようになる暁良です。
ただ、晴明から湧弥の最後の言葉を聞かされた正澄は、優れた力を持つ舞手であっても息子は一族から特別視され
てほしくない、と考えるようになりました。幼い頃の正澄であれば、「当たり前」と受け取っていたことでしたが、
息子には伸び伸び育って欲しいと思いました。
だから暁良と二つ違いの月刃丸に「友達になってやってほしい」と頼み、暁良が自分の好きなことをできるように
配慮しました(暁良は生来感受性が豊かな子だったので、そのことが初陣で少々難儀な状況を引き起こしてしまいま
したが;)。暁良と月刃丸の間柄については、二人の100質をご覧いただければと思います。
湧弥や舞手のバックグラウンドは、『緋色の舞手』を踏まえてのものなので、そっちをご覧になっていない方には
少々分かりづらかったかな…とも思います(^^;
陰陽師については一時期本腰入れて調べようと思ったのですが、難しすぎて挫折したので(え)相当にナンチャッ
テな感じになってます。適当に流してやって下さい(……)晴明の邸宅は、どうしても『陰陽師』のイメージが強す
ぎるので、一人住まいで式神に家事をやらせてる、というような感じになりました。家人がいるイメージがないです。
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