ほの暗い部屋の中。
もつれ合う二つの影がある。ただ獣めいた息遣いだけが響き、灯りが大きく揺らめくたびに几帳に映し出された影
が歪む。その様はさながら、二匹の蛇が互いの頭を喰おうと絡み合っているようにも見えた。外では庭木の陰で秋の
虫たちが声音を競い合い、清涼な大気を震わせていたが、格子の降りた室内、几帳の影の一角だけは熱がこもり陽炎
が立ちこめているかのようだ。
息遣いはさらに激しく、熱くなり、片方の影が高い声で啼き――沈黙がその場に落ちた。
「…鬼狩を生業とするものは、鬼だけでなく女も上手に食らうこと」
沈黙を破ったのは女の方だった。覆いかぶさっていた男の頬に手をやり、喉の奥でくつくつと押し殺したような笑
い声を漏らす。
「鬼は別に食らうものではありませんよ。ただ狩るだけです」
男は半身を起こすと、女の言葉を受けてさらりとそんな風に返した。息は既に整っている。
「女人も内に鬼を飼っていらっしゃる――その点では、似通うているのかもしれませんが」
「御鏡は鬼憑きの家…そう言う声も少なからず聞くぞ。鬼を食らうからこのような色をしているのであろうと」
女は白い手を伸ばし、半身を起こした男の頬からさらに髪へと触れる。ほの暗い部屋の中でも尚――明らかに異質
な色がそこにあった。
灯りを受けた髪は、夜の水面のような輝きを帯びている。瞳は芽吹いて夏へと向かう途中の若葉の色。額に輝くの
は翡翠のような印。女の言葉に、男の方は薄く微笑んだ。
「その鬼憑きを相手になさる貴女様は、豪胆なお人だ」
その言葉に、女は再び喉の奥で笑いを漏らし、男の髪に触れていた指を首、さらに胸へと這わせた。細身だが強靭
さも備えているであろう男の胸は、灯りを受けてはっきりとした陰影を刻んでいる。
「そなたは下手な男どもよりもよほど面白い。次は、いつ来る」
そういう女は、薄明かりの中でも明らかに若くないことが見て取れた。顔や胸、腹などに年月を重ねた証が幾重に
も現れている。男は己の胸に触れる女の指を繊細な動きで取ると、さて、と言いながらその指を己の唇に軽く押し当
てた。
「私が館におります時であればいつでも。しかし、鬼狩は予定のとおりにいかぬことが多い、お呼び出しにすぐに
応じられぬこともあるでしょう。そこのところは御容赦願います。予定通りにならなかった分のお詫びは存分にさせ
て頂きますゆえ」
「楽しみにしているぞ…御鏡の当主殿」
男女の声は囁き交わすような忍び笑いへと変わり――再び荒い息遣いがその場に満ちた。
「美晴、そろそろ寝よ」
簀子に佇んでいた美晴は、姉の声に振り向いた。その顔が随分と所在なげだったようで、双子の姉――美苑はなん
だよ、と言って笑った。
「そんな顔して。どうしたの?」
「当主様…また、遅い」
妹の言葉に、美苑もああ、と呟いて顔を曇らせた。
御鏡家の現在の当主は初代から数えて三十代目、幼い頃は湧弥と呼ばれていた。
御鏡家は舞の血筋である。舞踏によって結ばれる鬼狩の力を操る一族であり、その力を持つ者は『舞手』と呼ばれ
た。初代当主の香流が朱点童子の呪いを受けた時、その力は血の中に封じられたが、代を重ね神の力をその血に取り
込み――徐々に本来の力を取り戻してきた。そうして、これまでにも舞手の力を所持する者が何人も生まれてきたが、
その力を完全に引き出したと言われているのがこの三十代目当主である。舞手の能力の高さは勿論、幼い頃から恐ろ
しく聡明で、次期当主は湧弥だろう、と早々に言われていたそうだ。
湧弥は一族を率いて月の大半を鬼狩に費やしているが、帰還して皆がひとときの安らぎを得ている間も家を開けて
いることが多い。美晴も美苑も、初陣を終えて既に二ヶ月が経っているが、いずれも一族を率いていたのは当主の湧
弥だった。
美晴も実際に鬼との戦を経験し、それがいかに大変なものであるかが徐々に分かり始めていた。相手は人と全く異
質のもの、いつ物陰から襲ってくるか分からないので常に気が抜けない。そして、そういったものたちが息づく場所
は、瘴気が立ち込めているので気力体力ともに酷く消耗する。そんな所で、一族の様子に気を配りながら重要な判断
を下さなければならない討伐隊長――当主の疲労はさらに濃いはずだ。
御鏡家は元々呪いつきということもあって、あまり積極的に都の人々と関わることをしてこなかったが、ここ数代
ではそうもいかなくなってきた、という事情がある。護衛などにあたる見返りとして、御鏡家の後ろ盾になっていた
貴族があったのだが、その貴族と対立していた貴族との溝が決定的になったのである。必然、双方の閥で潰し合いが
起こった。その中でも『異質』であることが否応なしに目立つ御鏡家は格好の標的になり、ここ数代は一族が面倒ご
とに巻き込まれないよう、当主があれこれと忙しく立ち回らなければならなくなったのだった。呪いつき、などとい
う素性は、難癖をつけようと思えばいくらでもつけられる。あらぬ嫌疑をかけられ無実の罪にかけられる、などとい
うのは別に珍しくもないことで、ある意味鬼を相手にするよりもたちが悪かった。
湧弥がそういった事情で、『外』の者相手に立ち回るため頻繁に家を開けていることは、皆よく承知している。恐
らく貴族相手に根回しなり何なりをしているのだろう、ということぐらいは誰もが漠然とは想像できたが、肝心の湧
弥本人が大事無い、安心しろと言うだけで語ろうとしない。
「穂積兄さんが言ってたよ、美晴。あたし達はなるべくいつもどおりに、普通に振舞うのがいいんだ、って」
穂積は湧弥の一ヶ月違いの親友である。湧弥の行動について唯一把握しているのではないかと思われるのがこの穂
積だが、彼もまた詳細を語ろうとはしなかった。
――あいつが望んでいるのは、俺達が普段どおり変わらずに過ごしていることなんだ。自分が全て引き受けるから
皆は手を出すな、と。そう言っていた。
――俺だって勿論それに納得がいってるわけじゃない。だが、だからといってあいつにしてやれることが何もない
のも事実だ。それならせめて、あいつが嬉しいと思えることをしてやりたい。
――あいつが『外』から戻ってきた時、皆が何事も変わらずに穏やかでいること。それが…あいつにとって一番嬉
しいことなんだよ。
「…だから、あたしたちは家にいる間は普通に振舞って、その分『人』が相手じゃない時…鬼と戦う時にたくさん
たくさん頑張って、当主様の負担を減らしてあげればいい――そう言ってたよ。あたしだってみんなだって当主様の
こと心配だけど、その分家でゆっくり休んで…当主様が討伐先では楽できるように、頑張ろうよ。ね?」
努めて朗らかに笑う姉に、美晴は口の中で小さくうん、と答えて頷いた。美苑と美晴は、双子なだけあって顔立ち
はどちらも整って愛らしかったが、気性は全く対照的な二人だった。姉は闊達、妹は引っ込み思案なところがある。
美晴の元気のない返事に、美苑はほら、そんな顔しないのと笑ってみせた。美苑は、妹が当主のことを酷く気にか
ける理由が、ただ『心配だから』だけではないことをよく知っているからだ。
「今日早く寝て、その分明日早起きしよう。それで明日の朝、当主様におはようございます、って言いに行きな。
そんなしみったれた顔じゃあ、当主様がっかりしちゃうよ」
姉の言葉に、美晴も漸く笑顔を見せた。
「うん…じゃあ、寝よう」
「うん」
並んで床に入ると、程なくして隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。姉は幼い頃から自分と違って活発で、よく
食べてよく寝る人だ。討伐先だろうが何であろうが、寝ると決めたらどこでもすうすうと寝る。
美晴の方は未だに寝付けずに、床の中で何度も寝返りをうっていた。
当主様は今どこで何をしてるんだろう。
随分遅くなってしまったけど、きちんと食事をしているんだろうか。疲れてないだろうか。
美晴の瞼の裏には、初陣の時に見た湧弥の背中が鮮明に残っている。二人の初陣は先々月、夏の選考会だった。丁
度時期が重なったし、最初は鬼相手よりも人相手の方がよかろうと湧弥が判断したからだ。二人とも来訪間もない頃
から素質の高さを発揮していたため、湧弥の指示の的確さもあって決勝戦までは難なく駒を進めた。
しかし決勝戦の相手は、都一の陰陽師と謳われる阿部晴明だった。美苑が相手方の術の直撃を受けて昏倒し、姉が
倒れる様を見た美晴は動揺のあまり冷静な行動が取れなくなってしまった。美苑に術を施してくれたのは同行してい
た穂積だが、その間二人を守るために前に立ち、相手からの刃も術も全て防ぎきった上でさらに反撃までしてのけた
のが、この湧弥だったのだ。
あの時自分達の前に立ち続けて守ってくれた背中を、美晴は忘れられないでいる。湧弥のもつ能力は歴代の舞手の
中でも群を抜いている、ということぐらいはそれまでにも聞いていたが、戦慣れしていない目には彼の判断の早さ、
術や刃の受け流し方すべてがこの世ならぬもののように見えた。
美晴はそっと床を抜け出し、下げられた簾をすり抜けて簀子に出た。風は、随分と涼しさを増してきている。月は
まだ夜空には昇っておらず、秋の虫が幾重にも鳴り響く庭には星明りがあるだけだ。
美晴は思った以上の風の涼しさに小さく身震いすると、一旦部屋に戻って衣を肩に羽織り、簀子に座り込んで高欄
にもたれかかった。
(今日は…頑張って起きていよう)
当主様が戻って来るまで。
起きていたところで何ができるわけでもないし、美晴が起きていたら却って湧弥が気を遣ってしまうかもしれない。
それでも、彼が外から戻って来ないのに、先に寝てしまうことには抵抗があった。お帰りなさい、ぐらいのことは言
いたかったのだ。
しかし、実はこれが初めてではない。
先月に一度、今月にも既に一度――美晴は今日のように、湧弥が戻って来るまではと心に決めて簀子で待っていた
のである。しかし、結局途中でそのまま寝入ってしまって、他ならぬ湧弥に「こんなところで寝ていると身体によく
ない」と起こされることになってしまったのだった。まさかそんな状況で当主様を待っていました、などとは言えな
かったので、慌てて曖昧な返事でごまかしたのである。
(あんなみっともないこと、もう二度としちゃ…駄目)
当主様だって、何度も簀子で寝こけているところを見たら、変な子だって思うだろう。
美晴は衣を羽織りなおし、星が瞬く夜空を見上げた。
当主様はあとどのくらいで戻って来るだろう――そんなことを考えながら。
ぱしゃん、という水音がして、美晴は我に返った。はっと周りを見渡してみても人影はなく、東の空から顔を出し
た下弦の月が庭に淡い光を落としている。
(いけない、また…!)
目を覚ますように軽く両の頬を叩くと、美晴は衣を羽織ったまま立ち上がった。湧弥が帰って来たに違いない。見
つかる前に目が覚めてよかった、と安堵しながら、美晴は音がする方へと歩みを進めた。
(…でも、何で水音?)
自分が歩いている先には井戸があるはずだ。井戸には水があるのだから、そこから水音がすること自体には別に不
自然なところはない。
問題は、何故今の時刻に井戸から水音がするか、ということで――
角を曲がった先にある井戸の前に、人影が立っていた。美晴が声をかける前に、その姿に気づいた人影がこちらに
目を向ける。
「…何だ、起きてたのか」
仄かな月光に照らされた銀青色の髪から、星明りのように雫が落ちている。太さはないが均整の取れた身体の線が、
薄暗い中でもはっきりと見て取れた。
井戸端で振り返った湧弥は――一糸纏わぬ姿だった。
「――?!?!!!!」
危うく声を上げそうになって、美晴は慌てて両の手で己の口を塞いだが、その手を口から離すと今度は水から上が
った魚のようになってしまった。目を白黒させながら口をぱくぱくさせると、慌ててその場に背を向け、袴の裾を踏
みそうになりながら立ち去るしかできなかった。
残された湧弥は驚いた風でもなく、濡れた髪をかきあげると小さく笑った。
「…今日は、頑張ったんだな」
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