(一体…何が起きたのーーーーーー?!)  湧弥の姿が完全に見えないと思われる位置まで戻ってきた美晴は、両の頬に手を当てたまま簀子の上でしゃがみこ んでしまった。心の臓が、鼓膜を突き破ってしまうのではないかと思えるほどに高鳴っている。  何だか分からないが、当主様が井戸端で水浴びをしていた。  こともあろうに――裸を見てしまった。  しかも、本来の目的である『お帰りなさい』すら言えなかった。  (ああもう、私の莫迦!一体何のために待ってたっていうの!)    しゃがんだまま頭をぶんぶんと乱暴に振ると、長く艶やかな赤い髪が水の中に翻る鯉の尾のように揺れた。  瞼の奥に、先ほど目に入ってしまった裸身が焼きついて消えてくれないことが、いっそう美晴を狼狽させた。恥ず かしいやら自分が情けないやらで視界がぼんやりと滲んだ時、簀子を照らしていた月明かりがふっ、と遮られた。    「こんな時刻まで起きていると、明日に障るぞ」  いつの間に身支度をしたのか、小袖と指貫姿の湧弥がしゃがみこんでいる美晴に覆いかぶさるような形で見下ろし ていた。  「――!!!!!」  先ほどの光景を見てしまった後だったので、美晴は真っ赤になったまま、弾かれたように後退る。湧弥はその様子 を半ば楽しげに眺めると、こら、と小さく呟いた。  「そんなに大きな音を立てたら、皆が起きる」    「あ――」  もっともな指摘に、美晴は慌てて居ずまいを正したが、湧弥に目線を合わせられなかった。    この状況で『お帰りなさい』はおかしいと思う。  (ほんとにもう…何のために起きてたんだろう)  恥ずかしさで死んでしまいたいような気持ちになった。  「音を立てたら、か。俺が立てた水音で――起こしてしまったかな」  湧弥の言葉に、美晴は大慌てでぶんぶんと顔の前で手を振った。  「そ、そうじゃありません」  「じゃあ今まで起きていた?」  「う…はい」  湧弥の口調は咎める風でもなく、美晴の反応を楽しんでいるようなそぶりがある。が、勿論美晴の方は気づいてい ない。  「子供は寝る時刻だぞ」  「――子供なんかじゃありません」  当主の言葉に対して思った以上に棘のある返事をしてしまい、美晴は口に出した後あっ、と小さく呟いた。湧弥の 方は、それはすまなかった、と笑いながら答えてくれたので、美晴は内心安堵しながらも自らした返事に戸惑ってい た。  (だって…子供扱いしてほしくないから)  当主様が、子供が夜更かししているような言い方をするから――美晴は自分を頭の上から見下ろしているであろう 湧弥に目をあわせられないまま、もじもじと羽織った衣の裾を握り締めた。まだ頬が熱く、心の臓は首のすぐ下にで もいるかのような勢いで美晴の胸を震わせている。  そのうち、この心の臓は胸を突き破って外に出てしまうんじゃないだろうか、と美晴は思った。外に飛び出てしま ったとしても、持ち主の気持ちなんかお構いなしに、好き勝手に跳ね回っているに違いない。  「まあ、理由を言いたくないならいいさ。だが夜更かしは次の日に障る。月が変わればまた討伐だ、家にいる間く らいはゆっくり休まないといけない。もう床に戻りなさい」  その言葉とともに、月光を遮っていた影がふっと頭の上からいなくなる。  「――あ、あのっ!」  立ち去ろうとしていた湧弥は美晴の呼びかけに首だけで振り向いたが、人差し指を立てて唇の前に軽く当てる仕草 をした。  「……あっ」  思わず上げてしまった声の大きさに、美晴は慌てて両の手で口を押さえる。口を押さえたままちらりと当主の方に 目をやると、半身をこちらに向けたまま美晴の言葉を待っているようだった。  (――もうなるようになれ、だわ)  美晴は口から手を離し、心を決めたように立ち上がった。しかし言葉に出すにはさらなる踏ん切りが必要だった。 美晴はしきりに瞬きをしながら胸の前で組んだ手を組み替えたりほどいたりを繰り返し――やがて。  「当主様…無理、しないでくださいね」  ぽつりと告げられた言葉に、湧弥は何だ急に、と優しげに笑った。その笑顔にさらに頬が熱くなるのを感じながら、 美晴は忙しく思考をめぐらせた。伝えたいことはたくさんある気がするのに、心の臓の音がやかましくてちっとも纏 まってくれない。目を合わせるとさらに心の臓が邪魔をするような気がして、結局湧弥と目線を合わせることができ ないでいる。  「みんなも、私も…当主様のこと心配してます。穂積兄様は、私達が変わらず穏やかに家で過ごしてるのが一番な んだ、その分討伐先で頑張ればいいんだ、って…そのとおりだと思うし、何もできないのは分かってるけど――疲れ てないのかな、とか…危ない目にあってないかなとか、当主様だけに大変なことを…させちゃってるようで…だから」  「…それを伝えたくて、起きてたのか?」  ふと目を上げると、湧弥がいつの間にか自分の目の前に立っていた。その距離感にさらに心の臓が跳ね上がり、美 晴は息が詰まりそうになりながらそ、そうです、と呟いて俯いた。  「あのっ…えと…お帰りなさい、って。言いたかった…んです…」  最後の方は消え入るような声になってしまい、自分が情けなくて涙まで滲んできた。  結局何が言いたいのかもよく分からないような内容になってしまった。逆に当主様に気を遣わせてしまったんじゃ ないか――そんな気持ちが頭もたげてきた時。  「…有難う。そう思ってくれるだけで十分だ」  髪にふっと手が触れる気配がして、美晴は硬直したまま息を呑んだ。  しかし、その触れた手が思いのほか冷たかったことで、美晴は少しだけ冷静さを取り戻した。髪越しとはいえ、湧 弥の手のぬくもりが全く感じられないのだ。  (…冷、たい…?)  湧弥が素裸だったという事実が大きすぎて思考からすっかり吹き飛んでいたが、今更のように思い出した。  今は――水浴びをするような季節ではない。  夜風は随分と涼しくなってきていた。水で濡れた体のまま、屋外にいたら冷えもするだろう。  (どうして…当主様は、今の季節にあんなところで…水浴びなんかしていたの?)  「…そうだな。じゃあ――美晴に、ちょっと手伝ってもらおうか」  湧弥は美晴の髪から手を離すと、その手を前に差し出した。  「おいで」  「え――」  美晴は戸惑ったように目の前に差し出された当主の手と、その顔を見比べる。  どこかへ連れて行ってくれるんだろうか。  (一体…どこへ?)  当主の行動の真意が分からず、手を繋ぐという行為に対する気恥ずかしさよりも当惑にかられながら、美晴は差し 出された手におずおずと自分の手を重ねた。  ――冷たい。  先程よりもはっきりと、皮膚を通して湧弥の手の冷たさが伝わってくる。右手の薬指に嵌めた当主の指輪が、なお のこと手の冷たさを強調しているような気がした。しかしこのことで、心の臓がだいぶ落ち着きを取り戻してきた。  「当主様…どうして、その――さっきは」  井戸端での湧弥の姿を思い出し、頬だけは再び熱くなった。  「水浴び…なんて、してたんですか」  美晴の手を取って歩き出しながら、湧弥はなんでもないことのようにああ、と呟いて笑った。  「驚かせたな。何となく、だよ」  「でも…もう、水浴びをするには寒いです」  「だからこそしたくなったのさ。身体が引き締まるような気がしてね。…美晴の手は温かいな」  「えっ…」  不意にそんなことを言われて返す言葉が見つからず、しかも折角落ち着き始めた心の臓がまた元気を取り戻してし まった。  (やだ…また)  手を通じて自分の心の臓の鼓動が伝わってしまわないか、手が汗ばんだりしていないか――そんなことを心配し始 めた時、美晴は漸く自分がどこへ連れて行かれようとしているのかが分かった。  (当主様の部屋…?)  渡殿の先。当主が執務を行うための部屋は母屋の方にあるが、寝起きをする私的な部屋はこの先にある。美晴は勿 論、入ったことがない。  しかも夜分。  (……?!)  そこまで考えるに至った瞬間、美晴は袴の裾を踏んで転んでしまいそうになった。  (え…ちょ、…これから何を??)  視界が歪んでいるような気がするのは頬が火に炙られたように熱いせいか。心の臓は先程以上に胸の下で暴れ回っ ていて、とにかく袴の裾は踏まないようにということだけがぐるぐると思考の中を回り始めた。この状況で転んでし まったら、湧弥まで道連れになってしまうではないか。  ついて来る美晴が目に見えてぎくしゃくした動きになってしまったので、湧弥は笑いをかみ殺しながら歩調を落と した。    「そこに座って」  湧弥は部屋の簾を引き下ろすことはせず、簾の下、柱のところに座るよう美晴に指示した。そして自身は部屋の中 から愛用の琵琶を携え、明かりを傍らに引き寄せると、美晴と向かい合うようにして座った。  頬を真っ赤にしたまま、ぱちくりと事情が飲み込めない顔をしている美晴に、湧弥は笑いながら撥を滑らせる。琵 琶の音が、庭から響く秋の虫の音に重なった。  「琵琶は聴く者は勿論、弾く者も楽しませてくれる。でも、一人で弾くより聴き手がいてくれた方が尚いい。…少 し、付き合ってくれないか。ここなら、音を抑えれば他の皆を起こすこともないだろう」  湧弥は琵琶を扱うことが巧みだ。一族は皆彼の琵琶の音を楽しみにしているし、内裏の方でも名手として知れてい るという。  つまり――琵琶を弾くから聴いていて欲しい、と。そういうことらしい。  安堵と落胆が入り混じったような、自分でも良く分からない気持ちの行き場が見当たらず、美晴は目をしきりに瞬 かせて当主が琵琶を弾く様を黙って見つめることにした。抑えた音色がその場に流れ出す。  普段は、湧弥が琵琶を弾いていても遠くから聴くだけで、間近でまじまじと見るのはこれが初めてだ。それだけに、 弦を押さえる指、撥の動きがあたかもそこだけ別の生き物であるかのように動く様子が物珍しく、琵琶の音色の美し さもあって、先程までのうろたえようが馬鹿馬鹿しく思えるほど気持ちが落ち着いてきた。  落ち着いてくると、先程までは見えなかったものが見えてくるようになる。  夏場であっても、家では文字通り一糸乱れぬ、というような様子で身支度を整えている湧弥だが、この時ばかりは 小袖に指貫というくだけた格好である。その着崩した襟元から見えたものに、美晴は背筋が寒くなる思いがした。  首のあたり、そして鎖骨から胸元にかけて――いくつか見えるもの。  (痣…?)  討伐先では痣どころか切り傷擦り傷、下手をすれば命にかかわりかねないような大怪我をすることもある。  しかし――湧弥は都の中に出かけたのであって、討伐に赴いたわけではないはずだ。  (どうして…そんなところに、痣ができるの?)  やっぱり、皆や自分の知らないところで危ない目に会っているのでは――先程まで元気よく暴れ回っていた心の臓 だったが、逆に今度はぎゅうと胸の下で締め上げられたような心持になった。  「当主様…それ」  「…ん?」  「首のところ…痣、ですよね?」  美晴の言葉に、湧弥は撥を止めることこそしなかったが、その表情にわずかな動きがあった。しかしそれはすぐに 彼の顔を通り抜け、代わりに穏やかな笑みが浮かんだ。  「いや。たちの悪い虫に噛まれただけだ。大事無い」  「でも――」  虫刺されでないことぐらいは、美晴にも分かる。ただ、同時に彼がそれ以上言及してほしくないと思っていること も分かった。  ――自分が全て引き受けるから皆は手を出すな、と。そう言っていた。  美晴はそれ以上言葉を続けることができず、黙ったまま湧弥の琵琶の音色に聞き入った。奏でる音は、身体の隅々 まで染みわたるように美晴の心に響く。それは、喉が渇いた時に冷たい水を飲んだ感覚に似ているような気がした。 庭の虫たちも、湧弥の琵琶の音に呼応して鳴いているようにすら思える。美しい音色だ――でも。  哀しい、と美晴は思った。  本当に自分は何もできないんだ――ただその思いだけがある。  琵琶の聴き手になってほしい、と言ってくれたことは嬉しかった。こんなことでも、役に立てているのなら、と。  美晴は柱にもたれかかったまま、琵琶を奏でる当主の姿を眺めている。  こんなに近いのに、凄く遠い気がする。まるで絵巻物の中の人を眺めているような。  自分なんかが、触れてはいけないような――    美晴の気配が変化したことに気づき、湧弥は琵琶から顔を上げた。  美晴は柱にもたれかかったまま、小さな寝息を立てていた。その様を見、小さく笑うと湧弥は琵琶の手を止めて寝 顔を見やった。  まだ頬がふっくらとして、あどけない様子の寝顔だった。元服前の娘の無垢な瑞々しさが、皮膚の下から薫り立つ ようなその頬に、豊かな睫毛が影を落としている。湧弥は指を伸ばして美晴の頬に触れようとし――触れる直前に指 を下ろした。指を下ろした姿勢のまま、湧弥は少しの間美晴の寝顔を眺めていた。  途中で寝てしまうだろうという予想は勿論していたのだが。元服前とはいえ、もう子供というほどの歳でもない娘 が、元服をとっくに終えている当主の部屋で一夜を明かした、などとあっては流石によろしくない。  「予想していた…か」  分かりきっていたことだったろうに。湧弥は美晴の頬に触れようとした指に目を落とし、薄く笑った。  「…さて、どうしようかな」  起こして床へ行くよう促すか、起きないようであれば抱えて連れて行こうか――  「…起こしたら、またさっきのような顔をさせてしまうのかな」  ――お帰りなさい、って言いたかったんです。  顔を真っ赤にしながら、今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。  この間も先月も、起こした時はそんな顔をして、逃げるように部屋へ戻って行った。  「もう少しだけ…このまま」  湧弥は再び撥を滑らせた。  起こすか連れて行くかは、その時考えるとしよう。  空を見上げると、東の空にかかっていた下弦の月が中天に向かって動き始めている。  「…夜明けには、もう少しかかりそうだな」  誰にともなく呟いた言葉は、琵琶の音色とともに夜風に乗って流れて行く。  
――了――
<あとがきっぽいもの>  御鏡家の湧弥とその周辺の世代は、語り『緋色の舞手』でふれていますが、とにかく人物ごとの事情が込み入って いる上に、外の人がらみになると書き手にその手の知識が恐ろしく不足している(滅)ため、まともな形にしてやれ ませんでした。お祭りの方で絵と湧弥の半生についてはお披露目させることはできましたが、それでも何か小説なり 何なりでもう少し語りたい(というかちゃんと湧弥と美晴をキャラとして動かしたい)…と思っていた時にふいっと 出てきたのがこのお話です。  『緋色の舞手』の方でも述べていますが、湧弥は御鏡家を取り巻く状況を打破するために綺麗ごとでは済まされな いようなことを行っていました。当時それを知っていたのは彼の親友の穂積(月刃丸の祖父です、風髪風目水肌の男 子8番/右3下6)だけで、他の一族は皆心配しながらも、穂積の言う「当主様が一番喜ぶこと」をできる限りしよう、 と考えて過ごしていました。穂積と湧弥の間柄についても、実は色々あったりするんですが、その辺はまた別の機会 に出せたらいいなと思います(とりあえず絵を描いてやれ)  美晴は初陣の後から湧弥に恋心を抱くようになり、湧弥の方は早々にそのことに気づいていました。しかし、美晴 の気持ちがあまりにも純粋なので、その気持ちからは目をそらしておこう、と考えた、ということは『緋色の舞手』 で述べたとおりです。  冒頭部分は、湧弥が「綺麗ごとでは済まされないようなこと」を顔色一つ変えずに行っているという場面、という ことで、構想段階では人を殺めるパターンと大人向け(笑)のパターン両方がありましたが、美晴の純粋な恋心と湧 弥が実際に身をおいている状況のギャップを強調したかったので、大人向けの方になりました。生前の彼の閨事は全 て一族を守るための手段にすぎず、快楽とは完全に切り離していたので、相手が大年増だろうがなんだろうが、必要 であれば涼しい顔でいくらでも(え)相手ができます。相手はたぶん地位ある貴族の夫人かなんかです(そんな適当 な)  湧弥本人は、自分の行っていることについては一族を守るために当然すべきことであって、嫌だとか恥じるような 気持ちは全くありませんでしたが、それでも家に戻ってきてさっぱりしたいという気分だった、というのが井戸端の シーンです(けして書き手の煩悩ではありません)(だまれ) 「美晴の手は温かい」という発言はわざとです(笑)。  『痣』についても、当時どの程度のことまでやってんのか(言葉を選べ)という詳細が分からなかったんですが、 これも美晴が純粋に湧弥のことを案じている気持ちと現実とのギャップ、ということで入れることにしました。この 時既に湧弥は美晴のことを特別な存在として認識し始めていますが、その気持ちには答えるべきではない、と考える ようになったのもこの辺りからです。ラストの「夜明けにはもう少し」という言葉には、二つの意味が込められてい ました。    この話の5ヵ月後、春の選考試合で大将を務めた美晴は暗殺未遂に会って昏倒し、湧弥は意識が戻らない美晴を残 して出陣、そのまま帰らぬ人になります。
 
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