初めてこの家にきたのは、初夏の日差しが眩しい頃だった。
イツ花に手を引かれてやって来たのは、都から少し離れた高台にある家。
家の中はイツ花以外誰もいなくて、がらんどうな様子がとても怖かった。
イツ花が一生懸命気を紛らわそうとしてくれたけれど、怖いのと心細いのとでずっと簀子で泣いていたっけ――
「当主様、皆様お帰りなさいませ!お怪我はございませんか?」
イツ花の元気な声に迎えられて当主らが帰還したのは、期間予定日から二日ほど経った頃であった。
「イツ花、将臣兄さんの子はもう来てるのか?」
そうイツ花に声をかけたのは残月、長い黄金の髪に女人のようにたおやかな顔立ちの青年である。討伐隊の手荷物
を受け取ったり運んだりとくるくる動き回っていたイツ花は、ええお連れしました、とにっこり微笑んだ。
「とっても可愛らしい女のお子様ですよ。まっすぐな青いお髪が、父君によく似ていらっしゃいます」
「あら、ほんと?嬉しいな、先代が亡くなってから女は私だけだったもの。可愛がってあげなくちゃ、どこにいる
の?」
そう言って心底嬉しそうに笑ったのは、緩やかに波打つ青い髪を持つ狭穂だ。狭穂の言葉に、イツ花はええそれが、
と困ったように肩をすくめた。
「少し内気な方でいらっしゃるみたいで。だだっ広いこの家でずっと寂しがってらしたんですよう。大そうお泣き
になって、イツ花がどんなにお慰めしても駄目なんです。お疲れだとは思いますが、早くお会いになってあげて下さ
い――」
玄関先から賑やかなやり取りが聞こえてきたので、簀子の階で蹲っていた彼女はぼんやりと顔を上げた。蒼穹の色
をした癖のない長い髪、大きな紺碧の瞳、白磁のような肌。幼いながらも整った顔立ちは、雛人形のように愛らしい。
しかし、その目元は赤く腫れあがっていた。
――もうすぐ当主様と討伐隊の皆様がお戻りになります、お家の中も賑やかになって寂しいことはなくなりますよ。
まず当主様と父君にご挨拶しましょうね、皆様きっと姫君のご来訪を大喜びされます。そうしたらお名前も父君から
つけて頂きましょう。
イツ花からは、『当主』とは一族を率いる人だと教えられていた。一族を率いる、ということがよく分からなかっ
た彼女は、『当主』とはきっと凄く大きくて怖い人なのだろう、と彼女なりの解釈をしていた。がらんとした見慣れ
ない家、『当主』という怖そうな人に会わなければならないこと。そのどちらも幼く内気な気性の彼女にとっては恐
ろしく、天に帰りたい、母様に逢いたいと言ってイツ花の懸命な気晴らしにも応じず、日下部家に来訪してからもず
っと泣いてばかりいたのだった。
複数の足音が自分の方へ近づいてくるのを感じ、当主という人が来た、と彼女は小さな身体を更に小さくして震え
あがった。
「わあ。お人形みたい、きっと将来凄い美人になるわね。可愛い娘ができて嬉しいでしょ、将臣兄さん」
彼女を最初に見つけた狭穂が、目を輝かせて歓声を上げた。どんな怖い顔の人物がやってくるのか、と震えていた
ところに現れたのが小柄で優しげな風貌の女人、しかもこんにちは、よろしくね、とにっこり笑いかけてくれたので、
彼女はきょとんとその女人を見返した。
このひとが、『当主』というひとなんだろうか。随分優しそうだけれど。
肩透かしを食らわされて目をしばたかせている彼女の前に、真っ直ぐな髪を首の後ろで束ねた青年が進み出た。甲
冑に身を包んだその姿は凛々しい若武者といった様子で、髪も瞳も彼女と寸分違わぬ色をしている。彼は幼い娘に目
線を合わせるようにかがみこむと、優しく微笑みかけた。彼女の父、将臣である。
「済まなかったな。討伐が少し長引いてしまって、お前に心細い思いをさせてしまった。おいで、父様だよ。名前
を考えてやらないとな――」
しかし、父、と言っても将臣とは勿論これが初対面である。どう振舞ってよいか分からなくて、彼女は差し伸べら
れた手から僅かに後退ると、頬に涙の粒をたくさんぶら下げたままもじもじと身を捩った。
と、次の瞬間。
「痛っ!」
何者かの手がするすると階の下の方から伸びてきて、彼女の長い髪をひっぱった。
「あぁこら、紫苑!姿が見えないと思ったらもう――」
狭穂が腰に手を当てて声を張り上げる。ぅわぁん、と泣き出した彼女に、まだ声変わりしていない甲高い声が投げ
つけられた。
「何だお前、泣き虫ぃ」
彼女が泣きながら周囲を見回すと、まだやんちゃ盛りといった風貌の少年が階の下にしゃがみ込んで彼女を見上げ
ていた。いかにもきかん気の強そうな瞳は深淵の色。小柄で未成熟な上半身を露わにした拳闘装束。襟足がひどい逆
毛のせいで毛先が真横を向いている短髪は、その色も手伝ってさながら燃えさかる焔のよう。
何が起きたのかよくわからず、頭を抑えたまま困惑する彼女に、狭穂がふう、と苦笑しながら紹介した。
「…そこにいるのが紫苑。日下部家の、九代目当主よ」
こうして、『当主とは凄く大きくて怖い人』という、彼女の解釈はものの見事に打ち砕かれたのであった。
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