この後彼女は『環』と命名され、日下部一族に迎え入れられた。将臣の後を継いで剣の道を歩むことになり、初陣 までの二ヶ月の間父から手ほどきを受けることになった。  一族は、現在イツ花を除くと五名。拳法家で環より三ヶ月年上の当主、紫苑。紫苑の従姉で、薙刀士の狭穂。同じ く薙刀士の残月。剣士の将臣とその娘、環である。  紫苑、残月、狭穂は月の大半を家の外、鬼の討伐をして過ごしているから、彼ら討伐隊が出陣した後は家の中が将 臣・環父子とイツ花だけになる。将臣は、優しく穏やかな気性の人で環をとても可愛がってくれたし、イツ花も幼く 内気な環が新しい生活で不自由しないようにと、いつも以上に元気に振舞って環の世話に心を砕いていた。残月と狭 穂も、家にいる間はなるべく機会を見つけては環と一緒に遊んだりまめに話し掛けてくれたりしたお陰で、環も当初 のような心細さは全く感じなくなっていた。  将臣から環への指南は、将臣が穏やかながら優れた師であったこと、受ける環も父に褒められたい一心で頑張った こと、さらに環自身が持つ生来の素質も手伝って、順調に進んでいった。指南、と言っても日がな一日指南漬けとい うわけではないから、時には将臣の膝の上で書物を読んでもらったり添い寝をしてもらったりと、三人だけの家の中 で環は思う存分優しい父に甘えることができた。  しかし、紫苑率いる討伐隊が帰還すると、そのような穏やかな時はたちまち吹き飛んでしまうのである。紫苑は、 環がこの家に来訪してから何かにつけ環の玩具を取り上げたり隠したり、髪の毛を引っ張ったり、からかったりして ちょっかいを出してくるからだ。そうして被害に会った環が将臣に泣きついて、残月か狭穂から紫苑が叱られるのが 日常茶飯事となった。当然環は紫苑を避けようとするし、紫苑は紫苑で懲りもせずにちょっかいを出す。そんなわけ で、この小さな台風のようなやんちゃ盛りの御当主様と、人一倍内気で泣き虫な環のいさかいは、討伐隊が家にいる 間続くのであった。  そして月日は流れ、長い雨の季節が明けて風が夏の匂いを運んでくるようになっても、相変わらず日下部家には紫 苑と環の言い争う声が響いていた。  「もうっ!何にも分からないくせにっ!紫苑の莫迦!」  既に環は涙声だ。対する紫苑は、からかうような口調で環の感情を更に煽る。  「ふん、弱虫、泣き虫、毛虫ぃ―。そんなもん、つまんで犬にでもやっちまえ」  「紫苑なんて、紫苑なんて大嫌い!」  うわぁん、と泣きながらその場を離れた背後で、狭穂が紫苑を叱り飛ばす声、紫苑がそれに口答えしている声がす る。環はしゃくりあげながら一つの部屋の前に立ち止まり、下げられていた簾をくぐった。  部屋の中では、簾から薄く差し込んでくる日の光を受けて、将臣が書物を読んでいるところだった。彼は書物から 顔を上げると、顔中涙だらけにして嗚咽を漏らしている環に驚く風もなく、穏やかに声をかけた。  「どうした、環」  背後にある几帳の向こうに、先ほどまで彼が使っていたであろう床が見えていた。優しく微笑むその顔は、蒼白く 少し痩せていて、その様子がまた環の胸を締めつける。微笑み、おいで、と手を差し伸べる父を前にして、再びぽろ ぽろと涙が溢れ出てきてしまった。  実は、紫苑との喧嘩の原因は将臣のことだった。将臣は、環への指南を終えた頃からよく臥せるようになっていて、 父の変調に環は得体の知れない不安を感じ始めていたのである。  環はまだ一族の死に立ち会ったことがない。しかし、目に見えない何か恐ろしくて不気味なものが、父にひたひた と忍び寄っている――そんな風に感じていた。  天から日下部家へ来訪した子供は、家で約二ヶ月間戦いの手ほどきを受けてから初陣に臨む。環もそれにならい、 月が変われば正式に討伐隊に加わって鬼の巣へ赴くことになっていた。一度出陣すれば、一月近く家には戻って来ら れない。そんなに長い間将臣と離れ離れになることは勿論初めてであったし、自分が討伐に出かけている間にその 『目に見えない何か』によって父がどこかへ連れ去られてしまうのでは、そうして二度と戻ってこないのでは、と不 安でたまらなくなっていた。環は死についてはまだ漠然とした認識しか持っていないが、それでも環の感じている不 安は概ね真実に近いものであったから、初陣の日が近づくにつれて憂鬱な気持ちは増すばかりだった。  そうして環が沈み込んでいる様子にいち早く気づいた紫苑が、父様に甘えてばかりの弱虫、泣き虫だと言ってちょ っかいを出してきた、というのが事の顛末であった。  将臣は、膝の上で泣いている愛娘の髪をそっと撫でてやりながら、静かに語りかけた。  「また、紫苑と喧嘩したのか」  「……」  「環は、紫苑が嫌いか?」  「…嫌いです」  「それは、何故?」  「私のこと、いつも苛めるんです…さっきだって…!」  ひとの気持ちも知らないで。  喉まで出かかった言葉を、環は何とか押し戻した。自分達の喧嘩の原因が父であることが知れたら、きっと悲しい 思いをさせてしまう。  言うに言えず唇を噛みしめて俯いていると、将臣もそれ以上のことは問わずに、大きな手で頬の涙をぬぐってくれ た。指南してくれていた頃のその手には、環の心まで一緒に温かくなるような優しいぬくもりがあったのに。今頬に 触れている父の手は、ずっと水に入っていたかのようにひやりとしている。そのことも悲しくて、折角ぬぐってもら った涙がまた目の端からじわりと溢れてきた。  討伐になんて行きたくない。行かずに、ずっとこの手の傍にいたい――その思いは強くなる一方だった。  「紫苑は、初陣の直前――今のお前と同じ歳の頃に、日下部の当主になったのだよ」  次に将臣の口から出てきた言葉は、唐突なものだった。口調はあくまでも優しく穏やかなままであったが、父の意 図を測りかねて環は紺碧の瞳を瞬かせた。その拍子に、両の目から涙がころりと白い頬を転がり落ちていった。  「丁度その頃に先代――紫苑の母上が亡くなって。『紫苑』の名で初陣に臨んだ。二ヶ月という若さで当主を引き 継ぐのは前例のないことだったが、紫苑自身が当主になること…敬愛する母上から直に当主を引き継ぐことを、強く 望んだから。先代も、紫苑の持つ資質には早いうちから気づいておられたようで…息子が望むのなら、と当主を譲る ことを決断された」  一族の当主となる者は、初代当主の志を忘れぬようにと初代の名『紫苑』を継ぎ、元の名を捨てる。実際、紫苑は 環がこの家に来た時から既に『紫苑』と呼ばれていた。彼の本当の名を、環は知らない。  「当主になるということは、一族全員の命を預かるということだ。鬼との戦ではその流れをつかみ、自らも戦いな がら味方を指揮しなければならないし…討伐先での判断の誤りは、自分だけでなく討伐隊全員の命を危うくすること にもなりかねない。本来なら、戦を知らない二ヶ月の子供が背負えるようなものではない。しかし、我々が補佐して のことではあったが、紫苑は今まで当主としての役目を見事に果たしてきた――」  そこで将臣は言葉を切り、笑みを含んだ穏やかなまなざしで愛娘を見つめた。  「だが…紫苑はお前にちょっかいを出している時だけ、歳相応の男子に戻る」  「えっ…?」  「あまり、紫苑を嫌わないでやってくれないか。同じ家で暮らす一族同士、それにこれからは紫苑の指揮のもとで 戦うことになるのだから。紫苑には、悪気があるわけではないのだよ。むしろお前を気にかけているから、ついつい ちょっかいを出したくなる。あのくらいの歳の男子とは、そういうものだ。お前には、まだ分からないかもしれない けれど」  父にそう笑いかけられて、また、狭穂にこっぴどく叱られたらしい紫苑がばつの悪そうな顔で迎えにきたので、環 もそれ以上は何も言えなくなってしまった。  紫苑はやはり気まずいのだろう、環に目を合わせることなくぼそぼそと悪かったよ、と呟いたきり、そっぽを向い たままそれ以上何も言わなかった。環の方も、連れ立って父の部屋から出たものの、答えてやる気にはなれなかった ので、黙ったまま自分より少しだけ背が高い紫苑の横顔を見上げた。紫苑はふてくされたような顔をしたまま、こち らの方を見る気配はない。  ――お前を気にかけているから、ついついちょっかいを出したくなる。  ――あのくらいの歳の男子とは、そういうものだ。  (本当なのかしら)  環は釈然としない心持で、紫苑の横顔から視線を離した。  気にかけている相手に意地悪したくなるなんて。  だとしたら、男の子ってわけが分からない。  先程の紫苑の小憎らしい物言いが再び思い出されて、環はふっくらとした頬を少し膨らませた。
 
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