*一*
お父さん。ねえ、お父さん?
(何だい?)
あたしはこれからどこへ行くの?お父さんは一緒に来てくれないの?
(お前はこれから、下界のお前の家に行くんだよ)
下界のおうち?
(そう。お前のお母さんや、一族の皆が待っている家へ)
お母さん?お母さんってどんな人?
(一族の当主たる方だよ)
当主って?
(一族を率いる者のこと…お前は、これから鬼を討つために戦わなければならない。一族にかけられた呪いを解く
ために。お母さんの…当主様の言うことをきちんと聞いて、頑張っておくれ)
じゃああたし――大きくなったら当主様になるね。鬼なんかに負けない、強い当主様に。
蝉の鳴き声に、秋の虫たちの鳴き声が混じり始めてきた頃。
日下部家では、鬼討伐に赴いていた面々が帰還し、しばしの賑やかさを取り戻していた。普段は、年老いた者や指
南中の幼い者、それにイツ花以外はいない家である。討伐隊が戻ってくると、途端に活気が戻ってくるのであった。
蜩の声を乗せた風が、部屋の簾を揺らしている。簾は西に傾き始めた日を透かし、床に細い光の線を幾筋もつけて
いた。その部屋の中に、二人の少女がいる。
二人とも元服前のあどけない風貌で、金色の長い髪がよく似ていた。年かさのほうの娘は手本を片手に手習いの練
習をしている様子で、もう一人の娘は脇息に頬杖をついてそれを覗き込んでいる。日下部家七代目当主がもうけた姉
妹、静流と鈴葉である。
「ね、姉さん」
頬杖をついていた鈴葉が、静流に呼びかけた。姉は何気なくなあに、と答えたが、妹が言い出した台詞は突拍子な
いものだった。
「ケッコンするってどういうこと?」
「え?」
静流は、驚いたように切れ長の緑の瞳を見開いて妹を見つめ返した。聞き違いかと思ったが、妹の顔は大真面目で
ある。
「ど、どうしたの?急に」
「こないだね、お蔵で」
と言って、鈴葉は頬杖をつきながら上を見上げるような顔をした。
「何か面白いものないかなって探してたら、本が出てきたよ。月から来たお姫様の話。読んでみたけど、よくわか
らなかったんだ」
「ああ、かぐや姫のお話?」
静流もその話を読んだことがあったので、すぐに妹が何のことを言っているのかがわかった。
蔵にしゃがみこんだままその話を読んでいた鈴葉だったが、姫に五人の貴公子が求婚するくだりで意味がわからな
くなってしまった。姫は自分の望む宝を持ってくれば応じると言い、貴公子達は何とかその宝を手に入れようと、贋
物を作ってみたり無理が祟って病気になったりしているのである。彼らをそこまで躍起にさせる『ケッコンする』と
いうこととは何なのか、まだ家に来てようやく一月になろうかという鈴葉には理解できない。
「ケッコンって、宝物よりもすごいもの?」
「そう…ね。何て言ったらいいのかな」
静流は扇のように豊かな睫毛を心持ち伏せ、可憐な唇に人差し指を軽く当てる仕草をした。
「ある人とずっと一緒に暮らすこと、かしら。同じお家でずっと」
「それだけなの?」
「勿論、相手はずっと一緒にいたいな、って思える人がいいわよね。その人たちはかぐや姫とずっと一緒にいたか
ったから、姫の望みを叶えようとしたんじゃないかしら」
姉のその言葉に、鈴葉は髪と同じ色の大きな瞳をしばらくしぱしぱさせる。
「ふうん。じゃあ、あたしはみんなとケッコンしてるんだね」
「え?」
「だってあたし、みんなとずっと一緒にいたいなって思ってるもん。姉さんもお母さんも、咲良姉さんも雷矢兄さ
んも、イツ花もみんな大好きだから、一緒にいたいよ」
「まあ」
妹の無邪気な台詞に静流は笑みをこぼす。鈴葉はそんな姉ににこにこと笑い返したが、ふと可愛らしい眉間を僅か
に寄せた。
「でもさっきね、雷矢兄さんにも同じこと聞いたんだけど、お前はそんなこと知らなくていいんだって教えてくれ
なかったんだよ。けち」
鈴葉はそう言って、ぷっくりした下唇を突き出したが、雷矢の心情を察した静流は顔を曇らせるのだった。
月の大半を討伐に費やし、元服の歳になれば交神して子を授けてもらうのが、日下部家における日常である。結婚
は愚か、恋すらも叶うことのない日々だった。それが家の中ではごく当たり前だが、物語に目を通した時や都に出た
時などには、日下部が並みの人とは『違う』一族なのだということを改めて思い知らされる。そんな思いをするくら
いなら、知らない方が幸せなのかもしれない。
だから、言葉を続けられずに黙りこくってしまった姉に対し、生まれついての天衣無縫さを持つ鈴葉は、再び唐突
なことを言い出した。
「じゃあ――」
「え?」
「姉さんはケッコンしたい人いる?」
鈴葉は何気なく聞いたつもりだったが、静流にとっては全くの不意打ちであった。
「そ、そそそそそんな人いないわ」
どもった声はどことなく浮ついており、肘に当たって手習いの手本がばさりと机から落ちた。普段物静かでたおや
かな姉が、何故このように慌てているのかわからない鈴葉は、丸い瞳をさらに大きく見開いた。
「どうしたの、姉さん」
「な、何でもないの」
顔を背けてはみたが、牡丹の花びらのようになっている耳たぶは隠せない。鈴葉は、それを見て不思議そうに首を
傾げるばかりだった。
「なあに、どうしたの。何で黙ってるの。姉さんってばー」
「何でもないんだからっ」
そんな風に姉妹が微笑ましいやりとりをしていると、のんびりと声をかける者がいる。
「あらあら、何のお話〜?」
ぽてぽてというのどかな足音とともに部屋に入ってきたのは、日下部家七代目当主である。今は当主名である『紫
苑』を継いでいるが、幼名は魂子と言った。常に笑っているような愛嬌のある目元と、直に一歳六ヶ月になるとは思
えない血色のいいぷっくらとした頬の持ち主で、この姉妹の母であった。魂子は、茹蛸のように赤くなったままの静
流と、その衣の裾を引っ張っている鈴葉とを見比べて、細い目を更に嬉しそうに細くする。
「やっぱり女の子なのねえ〜。うふふふ」
「ち、違います母さま。その、鈴葉が聞くから――」
朝顔の花のように赤くなったり蒼くなったりしながら、静流がおろおろと言い訳した。恋や結婚と言った類の話題
は、この一族にとっては血の存続に邪魔なだけのものでしかない。照れもあったろうが、そんなことを話していたと
いうことで慌てていたことも多分にあった。
「あたしのせいじゃないもん。姉さんが勝手に赤くなったんだよ」
鈴葉はというと、姉と喧嘩していると思われたと解釈したらしい。あたし知らないよ、と唇をとがらせ、満月を連
想させる円らな瞳を心持ち上目遣いにして、母を見上げる。
魂子はというと、愛娘二人の心情を知ってか知らずか、相変わらずにこにこしている。本当に幸せそうな笑みであ
ったから、咎められるのではないとわかったのか、姉妹の緊張は解けたようであった。
魂子には不思議な雰囲気が常に漂っている。ふくよかな見た目とおっとりとした物腰からは、彼女が都にその人あ
りと謳われた拳法家であったことなどまるで想像もつかない。
そして、今でこそ高齢と鈴葉の指南のため討伐から退いているが、討伐隊長を務めていた頃は皆の緊張を和らげて
士気を鼓舞することに長けていた。逆に、喧嘩をしている者がいても何故か彼女の前ではそれを続ける気が失せてし
まう。まこと、歴代でも類を見ない不可思議な当主なのである。
その魂子は、二人の娘にふっと優しげな視線を送るのだった。
「別に、誰も咎めたりしないわよ。あなたたちだって…あなたたち自身が望むのなら、そういう日がくるかもしれ
ないんだものね」
穏やかに言う魂子の言葉に何かを感じたのか、静流がはっと顔を上げる。だが、相変わらず笑ったままの顔の母は、
にこにこと娘を見つめ返すだけだった。
「あら、もう秋の虫が鳴き始めてる。暑い暑いと思っていても、虫はちゃんと知ってるのねえ」
鈴葉はというと、簾を上げる母の丸い後姿をきょとんとして眺めるばかりであった。
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