*二*
 あたしは今日も戦いに行く。  綺麗な着物の代わりに拳闘装束、お化粧の代わりに赤い血を浴びて。  でも。  こんなあたしでも、並みの女の子として生きることができたなら。  恋を、するようになるのかな。できるようになるのかな。  ――姉さんみたいに。  あれから二ヶ月。人の世ではたった二ヶ月、されど日下部家ではかけがえのない二ヶ月。あどけない子供だった鈴 葉は初陣を迎え、目覚ましい成長ぶりを見せて討伐隊の面々を驚かせた。  母の後を継ぎ、選んだのは女ながらに拳を振るう拳法家。  恋だの結婚だのといった類の話は、あれ以来結局することはなかった。背伸びしたい年頃の娘であるから、もうそ れがどういうことかわかっていたし、勿論興味もある。しかし、己が生まれながらに背負う呪いのことを知ってしま った。  この呪いがある限り、恋や結婚には到底縁がなく、そして命の長さは二年あるかないか。まったく、並みの人とか け離れた生である。  二ヶ月前の姉の振る舞いは、今考えると想い人がいるゆえのことだったのだろうと思う。姉の静流は、妹である自 分の目から見ても聡明で、とても美しい人だ。気立てもいいし、二ヶ月年下の自分の面倒も良くみてくれる、いわば 二人目の母的存在である。優れた薙刀士でもあり、鈴葉自慢の姉なのだった。  だから姉が嬉しければ自分も嬉しいし、姉がふさぎこんでいれば自分も悲しくなる。幸せになって欲しいと心から 思っているのだ。しかし、姉の恋は呪いがある限り叶うことはないのである。  それに、母のことも鈴葉には心配だった。  あれから二ヶ月経ってもまだ母は健勝であるが、イツ花から聞き出した話によれば「一族の中ではかなり高齢」な のだという。今までの例から考えれば、あとせいぜい二ヶ月か三ヶ月――そのくらいで、母の命は尽きるのだろう。 一族の死というものに未だ立ち会ったことのない鈴葉だったが、大好きな母とたったそれだけの刻しか共にいられな いということ、死んでしまえばもうそれきり永遠に会えないのだということはわかる。一日一日が経つごとに、その 日は着実に近づいてきているのだということも。  この呪いがある限り、それは厳然たる事実として鈴葉の前に立ちはだかっているのである。いつしか、鈴葉の中に 一つの決意が芽生えつつあった。  それを決定的にしたのは、討伐先での出来事である。    この月、鳥居千万宮への討伐に参加した鈴葉は、鳥居のほとりに奇妙な人影が立っていることに気がついた。  初め、陽炎ではないかと思った。それほどに現実味のない人影であったのだ。  髪は赤金を紡いだかのような色。やや吊り上がり気味の大きな瞳は、光の加減によっては黄金にも輝く琥珀。白磁 のような滑らかな頬と、南天の実を思わせる鮮やかな紅の唇と。すんなりと均整の取れた身体は、下半身が朧げに霞 んで向こうの景色が透けて見えた。その足元には、影が落ちていない。  信じられないほどに綺麗な顔だちをしていたが、声色でそれが男――少年であることがわかった。  《やあ》  少年は快活に笑ってみせた。  「あれは誰?」  隣にいた雷矢に、鈴葉は何気なく聞いてみた。  「ああ、あいつは黄川人。天界からの道案内人さ。討伐になると出てきて、色々鬼に関しての話したり、何か世間 話したりさ。俺たちと同じ呪いを受けた身だから、ああして体が透けて見えるんだ」  そう言う雷矢は鈴葉より五ヶ月年長で、癖のある金色の髪を無造作に結い上げた、不敵な面構えの青年である。気 性はといえば粗野で一本気、周りに女人がいようがどうであろうが、その大雑把でややお行儀が悪いとも言える態度 は一向に改めようとしない。日下部家に女が多かったこの当時、雷矢は一族唯一の男であったから、男といえば雷矢 ぐらいしかまともに見たことがなかった鈴葉は、あまりにも対照的なこの少年に珍獣でも見るような顔をした。  《あれ、新しい顔ぶれがいるね。誰の子だい》  黄川人はそう言って鈴葉を見、ふふ、と言って笑った。動作の何もかもが舞のように流麗で、嫣然としたものさえ 漂わせる笑みは見る者を魅了する。鈴葉は自分のことを言われたのだと最初気づかずに、ほんとうにこれは雷矢と同 じ生き物なのかと呆気に取られている。  「鈴葉よ。静流の妹なの。先月、初陣を迎えたの」  討伐隊長の咲良が紹介をすると、黄川人はああ、そういえば髪の感じが静流に似てるね、と言ってまた笑った。ち なみに、静流や鈴葉の金色の髪はゆるゆると癖がついているが、首の後ろで束ねた咲良のそれは、二人とは違ってま っすぐで蒼穹のごとき色をしている。  《僕は黄川人。よろしくね、鈴葉》  「あ…うん」  鈴葉はにっこりと、微笑まれるままに頷いた。どんな鬼にも全く物怖じしない自分が、その美貌に気圧されてしま った。  《静流》  「は、はい」  自分の次に呼ばれた姉は、薙刀を構えたまま姿勢を正した。黄川人はふわりと宙に舞うと、そのまま羽のようにふ わりと音も無く静流の傍らに舞い降りる。静流の頬はといえば、まだ冷え込む時期でもないのに桃の実を思わせる鮮 やかな色になっていた。  《妹ができたんだね。おめでとう。かわいい妹じゃないか》  「はい…」  《兄弟って、どんなもの?僕には姉さんがいたらしいんだけど、小さい頃に離れ離れになってしまったから、よく わからないんだ》  鈴葉は、姉の様子に目を瞬かせる。優しく話し掛ける黄川人に、静流は薙刀を立てるようにして握り締めたまま、 頬を染めて伏し目がちに微笑んでいる。その様は、とても可憐で美しいと思った。  鈴葉は、ああ、なるほどそうかと静流を眩しそうに見つめる。いつも近くにいてくれた姉が、少しだけ遠くに見え た。  姉さんの想い人は、あの人だ。  胸にぽっかりと穴が開いたような、嬉しいような、羨ましいような。そんな気持ちが満ちてくる。  ――とても綺麗な顔の男の子。姉さんとお似合いだ。  仲睦まじそうにしている美貌の少年と少女は、まるで一枚の絵巻のようだった。    その後討伐を行って、一行は帰還した。  母に帰還の挨拶をした鈴葉が姉の部屋を訪れてみると、静流は達者な筆跡で何か書き物をしているところであった。 鈴葉がちょこんとその傍らに座ると、姉はあら、なあにと僅かに微笑んで、ちらりとこちらに視線を向けた後、再び 書き物の方に目を戻した。  鈴葉は、それ自体が意思を持つ生き物のように滑らかな動きを見せる筆先を暫く黙って見つめていたが、やおら口 を開いた。  「黄川人」  その名を口にした途端、静流の身体が右に大きくがくんと傾いてしまった。ついでに筆もぐいと右へ大きく流れて しまったので、達筆の合間に珍妙な線が一本出来上がった。  「な、な何?急に」  耳たぶまで真っ赤になった姉の様が、鈴葉にはおかしい。笑いを堪えながら、鈴葉は続けた。  「…ってさ、綺麗な顔の男の子だね」  肩を使って、ふう、と吐息をついた静流は、努めて平静を装うようにしてそうね、と言って書き物を再開したが、 妹の攻撃はここまでに留まらなかった。  「姉さんの好きな人なんだよね」  「……!」  今度は前におかしな力がかかってしまったので、紙の真ん中にぼさぼさの毛の塊のような跡ができあがった。鈴葉 はにこにことしてそんな姉を見ている。  「やっぱりそうなんだ。えへへ」  「や、やだ鈴葉ったら。何言ってるのよ」  怒っているのか嬉しいのか恥ずかしいのか、どれともとれるしどれでもないような顔をして、静流は失敗してしま った紙を折りたたもうとし、力余って破いてしまった。ああもう、と破けた紙を見て静流は嘆息し、餌をねだる仔犬 のような顔をしている妹を見、もう一度嘆息した。  「…わかる?」  「姉さん見てればわかるよ。お似合いだね」  もう、と静流は頬を赤くし、不意に顔を曇らせた。  「…そんなこと、ないわ」  「どうして?黄川人も姉さんのこと、多分好きだよ」  机に頬杖をついて、鈴葉が小首を傾げる。そんな妹から、静流は目をそらした。  「そんなことない。私たち呪いを受けた身体なのよ」  「呪い云々なら、黄川人だってそうじゃないか」  「だって恋なんて…呪いがある限り、叶わないもの」  鈴葉は、大きな瞳で姉の美しい横顔を見つめる。凛とした、確固たる意思に満ちた視線だった。  「うん。呪いがある限り、できない。でも解けたら、みんなやりたいこといっぱいできるようになるんだ。そうで しょ」  呪いが解けたら。  鈴葉が思いがけないことを言い出したので、静流は驚いたように目を見開き、妹のあどけなさの残る顔を見つめた。  「うん、やっぱりそうだよ。そうしなきゃ」  「え、ちょっと鈴葉、何を」  「じゃね」  そう言って鈴葉は元気よく立ち上がると、疾風のごとく部屋から出て行ってしまった。  まさか妹は、この呪いを討ち果たそうと考えているのだろうか。  静流は半ば呆然と、その小柄な後姿を見送った。  大江山に巣食う鬼、朱点童子。日下部一族を呪いという枷で縛った張本人。呪いの元を断てば、一族七代に渡る呪 いは解ける――初代からの悲願である。が、大江山にある朱点童子の本拠地に乗り込んで、帰ってきた者は一人もい ない。あれだけの手練れである母ですら、なしえなかったことであった。  妹鈴葉の秘める力は周知のとおりである。熟達した剣士である咲良、薙刀士の雷矢の力量も素晴らしいと思う。だ けれど。  きっと私は怖いのだわ、と静流は思う。  本当に朱点に勝てるのか、ということも勿論あった。だがそれよりも、もし仮に呪いが解けたとき、自分と黄川人 はどうなってしまうのか。それを知るのが恐ろしいのだ。『道案内人と案内される者』という黄川人との関係が崩れ、 もう会えなくなってしまうのではないかと。  今月の討伐で、一行の前から去る時、黄川人は言った。  ――もし、呪いが解けたら。  遥か遠くに浮かび上がる大江山を見ながら、彼はそっとつぶやいた。  ――君たちを、僕の庭に招待するよ。すごく、素敵なところだから…  静流は、妹が跳ね上げて行った簾が未だ揺れるのを、ぼんやりと見つめていた。  姉の部屋から出た鈴葉は、魂子のもとへと急いだ。  「お母さん、お母さん!」  母は、はとこにあたる咲良と一緒に双六に興じているところだった。娘らしさなど微塵もなく、嵐のように騒々し くやってきた愛娘をにこにこと見るその顔は、じきに一歳八ヶ月になろうというのに、つやつやとふくよかで衰えを 全く感じさせない。  「あら、どうしたの鈴葉。あなたもやりたい?」  鈴葉は、ああ、ええと、とせわしなく足踏みをすると、意を決したように唇を引き結び、かわいらしい拳を握って 当主と討伐隊長の前にちょこんと正座した。  「――当主様、それに咲良姉さん。おはなしが、あります。みんなを呼んで話したいの」    当主に呼ばれて、寝起きだったらしく大きな欠伸をしながら雷矢が、次いで洗い物でもしていたのか、前掛けで手 を拭き拭きイツ花が現れて、最後に不安げな顔の静流が部屋に集まった。  「何だよ話って」    当主の前であろうが女人の前であろうがお構いなしに、胡座をかいた雷矢はもう一度大きく欠伸をし、ついでに懐 に手を突っ込んで軽くぽりぽりと掻いた。  「雷矢、お行儀が悪いわよ」  案の定、生真面目な気性の咲良が繊細な眉を寄せて注意した。この辺りが、彼が黄川人とは正反対だと思われる所 以なのであるが、改める気は一向にないらしい。魂子はといえば、それを咎める風でもなく相変わらずにこにこして いる。  「いかがなさったんですか?当主様」  どことなくただならぬ雰囲気に、イツ花が眼鏡の奥の瞳をぱちくりさせる。  「鈴葉がね、みんなにお話があるんだって。聞いてあげてね」  当主のその言葉に、傍らにちんまりと座っていた鈴葉へ皆の視線が一斉に集まった。雷矢が何だよ改まって、と言 うのを、咲良がしぃっ、とたしなめる。  「当主様、それにみんなに、お願いがあります」  鈴葉は、何かを朗読するようにゆっくりと言葉を発した。  「――あたしは、この呪いを討ち果たしたい。再来月、大江山が開いたら朱点童子討伐に行きたいんです」  さすがに予想しなかったのだろう。イツ花と咲良が、ほぼ同時にえっ、とつぶやいて息を飲み、雷矢は欠伸をしよ うとして開いた口が塞がらなくなった。静流はといえば、ああやっぱり、と両の頬に手を当てておろおろする。魂子 は、細い瞳を穏やかに娘に向けたまま無言だった。  そう、たったそれだけのことだ、と鈴葉はそれ以上何も言わず、唇を引き結んだまま大きな金色の瞳で母を見つめ る。  そうしたら、みんな人並みの身体になる。こんなに早くお母さんが死んでしまうことはなくなるし、姉さんの恋だ って、呪いに負い目を感じることもない。  それに、と鈴葉は心の中で付け加えた。  自分は戦い一辺倒、拳一つを武器とする拳法家だ。お洒落をするなんて柄じゃない。ほんとはやってみたい、綺麗 になってみたいけれど、考えるだけで照れくさくなってしまってきっとできないだろう。  でも、もし戦う必要のない人並みの女の子になれたら。やってみようかなっていう一歩が踏み出せるかもしれない。 姉さんのように、恋だってほんとはしてみたいんだもの――  長いような短いような沈黙が流れた後。鈴葉に集中していた視線は、当主である魂子にうつった。魂子は、笑った ままの顔である。こういう場合、彼女の顔は真意を測りにくい。  「――おいおい!お前わかって言ってんのか?相手は朱点なんだぞ?」  まず沈黙を破ったのは、雷矢だった。鈴葉は座ったまま、雷矢に顔だけを向ける。  「そんなのわかってるよ。雷矢兄さん、怖いの?」  こましゃくれた物言いに、雷矢がむっと口をへの字に曲げた。  「生意気な口叩くんじゃねえよ、たかが一回二回討伐に行っただけのくせに。朱点なんか怖かねえが、楽に勝たせ てもらえるとは思ってねえ。まだ経験の浅いハナタレのお前を、いきなりそんな戦に連れて行くわけにはいかねえか ら――」  「だって、今年行かないと来年になっちゃうんだよ。来年になったらあたしだってもう大人だ。…お母さんや咲良 姉さん、もしかしたら雷矢兄さんだって…その頃にはいないんだよ。そんなの厭だ。…厭だよ」  鈴葉のその言葉で、一気に部屋の中が静まり返った。  「あたしはもっとみんなと一緒にいたいし、もっと色んなことがしたいんだ。だからここで、いまいましい呪いな んか終わらせてしまいたい。当主様、みんなお願いします。あたし、頑張りますから」  鈴葉は、それきり口をつぐむと背筋を真っ直ぐに伸ばし、凛と部屋の中の面々を見渡した。  「鈴葉。大江山の門は、再来月で閉じてしまうわけではないのよ。その次の月まで開いている。あなたはまだ若い。 だから、もう少し戦いの経験を積んでその次の月に――」  優しげな目元に困惑の色をたたえて、討伐隊長の咲良が指示を仰ぐように当主を眺めやる。だが、その言葉に鈴葉 はきっぱりと首を振った。  「それでは――駄目です。年の終わりじゃ…遅いかもしれないんだから」  鈴葉の意図を察して、咲良は押し黙った。鈴葉は、母が生きている間に朱点と決着をつける気でいる。大江山の開 く再来月には、魂子は一歳九ヶ月。年の終わりには、一歳十ヶ月。再来月でもぎりぎりかもしれないのだ。再び、重 苦しい沈黙が部屋に落ちた。  「当主様――」  イツ花がおずおずと、魂子の意思を尋ねようとしたとき。今まで無言だった当主が、この時初めて口を開いた。  「……わかりました。行っていらっしゃい。討伐隊長は、また咲良に頼みます」  「当主様……!」  表情を押し殺し、彫像のように座していた鈴葉が弾かれたように傍らの母を見、咲良が驚いたように声を上げる。 魂子は、慈母のように穏やかな笑みをたたえた顔をしていた。  「私は、私の大事な子供たちを、家族を…信じます。あなたたちなら、きっとやれるわ」  そう言って、母はぽっちゃりとふくよかな手で、鈴葉のまだ小さな手を包み込むように優しく握った。  「けれど、これだけは約束して頂戴。もしも――もしも危ないことになったら、絶対に迷わず逃げること。私は呪 い云々より何よりも、みんなが無事で帰ってくることを一番望んでいる、それだけは忘れないでね。大江山はその次 の月も開いているんだから、無理はしちゃ駄目。いいわね?」  鈴葉は、まだ夢心地といった風に目をしきりに瞬かせていたが、やがて満面の笑みを浮かべると、はい、当主様と 言って大きく頷いた。  「当主たる貴女の意思がそうであるならば、私に異論はありません…討伐隊長の役目、しっかりと務めさせていた だきます」  「…まったく。どいつもこいつも、しょうがねえなあ」  咲良が生真面目に当主に向って平伏し、雷矢は頭を掻きながら息をついた後、いつもどおりの不敵な笑みを浮かべ る。  静流は、母の傍らで朗らかに笑う妹を見ているばかりだった。  鈴葉は強い。拳法家としての力量だけではない。常に真っ直ぐで臆することなく、前を見据えている。臆病な自分 が持っていないものを、この子は持っている。妹ならば、本当に朱点打倒をやってしまうかもしれない。  ――私も、戦おう。  この子や、皆と。呪いから解き放たれるために。  静流は、華奢な拳を握り締め、幼さの残る妹の横顔を見つめた。
 


その一へ その三へ 『俺屍部屋』へ