*三*
 朱点童子。全ての始まり。そして、全ての終わり。  あたしは朱点なんかに絶対負けない。だって、みんながいるのだから。  大江山の雪よ、もっと吹くがいい。朱点の僕たちよ、もっと襲ってくるがいい。  そんなことをしても、あたしたちを止められる者なんて、誰もいやしないから。  あたしたちはこの月――呪いという枷から自由になってみせる。  翌々月。日下部家の討伐隊四名は、門の解き放たれた大江山に入山した。麓ではまだ、木々の葉が色づいて散るか という頃である。しかし、大江山だけは凍てついた銀の衣を纏い、来る者全てを拒むかのように、身を切り裂くよう な冷たい風を吹き下ろしてくるのであった。  大江山に分け入れば分け入ったで、行軍は厳しいものとなった。険しい山道にくわえて、酷い大雪に見舞われた。 気を抜けば鬼が襲ってくる。だが、鈴葉の体術はいつにも増して冴えていた。  今月で、全てを終わらせてみせる。  それは気負いではなく、彼女自身の純粋な願いである。母のため、姉のため、皆のため――そして、自分のために。  そこいらの下っ端の鬼どもなど、今の鈴葉の敵ではない。前から襲ってくるものは容赦なく殴り倒し、後ろから襲 ってくるものは蹴り上げて、鈴葉は前だけを――いずれ見えてくるであろう、朱点の根城だけを真っ直ぐに見据えて いた。  そんな一族最年少の娘に触発されたか、前線で戦うにはやや高齢になっていた咲良も、雷矢、勿論姉の静流も、持 てる力に更に磨きがかかったかのように向かい来る鬼たちを屠り、進軍した。  一行は吹雪のたびに洞などでやりすごし、術で傷を癒し互いに励ましあって、いつしか大江山の終合目へと達しよ うとしていた。  「何だ…?」  ふと、雷矢がつぶやいた。吹雪で霞む目の前に、巨大な門がある。  「このような山の中に、門?」  それは寺の山門のようにも見えた。一同は顔を見合わせる。  「私も、ここまで深い場所に入ったのは初めてだわ――油断しないで。朱点童子の館かもしれない」   咲良が鋭く門を見据え、残りの三人が頷く。注意深く門を押すと、閂がかかっていないのか、それは軋んだ音を立 てながら重々しく開いた。  「――え…?」  一行は、思わず声を上げてしまった。たった今まで、猛烈な吹雪に晒されていたというのに。門の中に入ったとた ん、それは嘘のように止んでしまった。雪は地面に降り積もっているものの、先ほどのように深いものではない。踏 みしめて、さくさくと音がする程度である。今まで鉛のような雲に覆われていた空は、薄雲がかかっている程度で、 柔らかな光を振りまいていた。そして。  「都、なのか…?このような場所に?」  雷矢が呆然とつぶやく。民家が建ち並び、人の息吹が聞こえてきそうな町並み。だがしかし、たまに鬼が徘徊して いくのを除けば、全くの無人の都だ。  「これは――一体…」  静流が、薙刀を構えた腕をだらりと下げ、動揺を隠し切れないと言った風に辺りを見回した。  敵の総大将の住まう場所なのだ。誰もがもっと禍々しい――さながら地獄の底のような場所だと思っていたから、 拍子抜けを通り越してどこか不気味に思えた。  と、鈴葉の瞳が何かを捉えた。  「みんな、あれ見て!」  鈴葉が指差した先には、巨大な黒い石碑が、高々と聳え立っていた。  町の中心に位置するそれに、四人は注意を払いながら近づく。  「明らかに、人の手で作られたものだけれど…何のために?」  咲良が首をひねる。  「――見ろ、何か書いてあるぞ…?」  雷矢が石碑の中央を見据える。皆、雷矢の見ている方に視線を走らせた。  ―― 復 讐 を 遂 げ る 日 ま で 、 安 ら か に 眠 る こ と な か れ ――  「復讐…?」  咲良が整った眉根を寄せる。残る三人も、顔を見合わせた。  「誰が、誰に復讐を…?」  これはまるで――  自分の声が、別人のもののように耳に響く。鈴葉は、喉の渇きを覚えてこくりと細い喉を鳴らした。  日下部一族のことを書いているようではないか。  何故この地にこんなことが書いてあるのか。誰がこんなことを書いたのか。ここは鬼の巣窟、朱点が住まう地のは ずであるのに。  朱点童子を倒せば、日下部一族の呪いは解ける。初代から、一族皆が織り上げてきた悲願という名の織物。だが何 かが――どこかで、その縦糸か横糸がずれてしまっているのではないか。それとも、初めから食い違っているのだろ うか。  確信はない。このようなことを、敵との決戦の前に思うこと自体おかしいのかもしれない。ならば、この黒雲のよ うに湧き上がってくる不安は何なのだろう。たった一行の碑文を前に、一行はただ立ち尽くしていた。  ――しっかりしろ。敵の大将は目の前なんだぞ。  それを打ち払うかのように、自身に気合を入れるように、鈴葉は両の頬を掌でぴしゃりと勢いよく打った。その音 で、一行がはっと我に返る。  「きっと、ここは朱点童子に攻め滅ぼされた都なんだよ。それで生き残った人が石碑にその恨みを書き残した。き っとそうだよ」  鈴葉が、努めて元気よく踵を返す。それでも皆思案するように沈黙してしまったので、歩みを止めて苛立たしげに ぴょんぴょんと雪の上で跳ねてみせた。元気に振舞っておかないと、不安で押しつぶされそうになるからだ。  ――もしも危ないことになったら、迷わず逃げること。  母の穏やかな笑みが交錯した。  この月になって、徐々に母の命の炎に翳りが見え始めている。もって来月末。だから、来月では下手をすれば間に 合わない。こんなところで、挫けている場合ではないのだ。  鈴葉は飛び跳ねながら、いつもの調子で声を張り上げる。  「ほらぁ、考えてたってわかりっこないじゃない!どっちにしろ、敵は朱点なんだろ。行こうよ!」  「うるせえぞ鈴葉。そんなに騒いだら鬼が来るじゃねえかよ」  五歩ほど歩いた先で手をばたばたさせながらわめく鈴葉に、苦笑しながら雷矢と咲良が、次いで静流が石碑から離 れた。  石碑は黒く、冷たい輝きを放ちながら天に向かって不気味に聳え立っている。鈴葉は、それから逃れるように大股 で歩み去った。    都をしばらく歩いていくと、橋が、その向こうに巨大な扉が見えてきた。都の入り口のように、粗末な山門ではな い。豪奢な装飾が施された、巨大な屋敷の扉である。四人の顔に緊張が走った。  「これ、は…ひょっとして」  雷矢が、乾いた唇を舌で湿しながらひとりごちた。  「……」  静流は唇を引き結び、薙刀を構えなおす。  「ここが終点、かな」  鈴葉が両の拳を胸の前で軽く打ちつけた。  「恐らく――この奥に朱点童子が。準備はいい?」  咲良が厳しい表情で振り返る。三人が、大きく頷いた。  「行きます…!」  咲良が扉に手をかける。  ついに来た、と鈴葉は再び真っ直ぐに前を見据えた。  あたしは絶対に負けない。ここで呪いを打ち破ってみせる。  扉が、重々しく開いた。  天井の高いその屋敷は、部屋のようなものが無く、全体が広間のようになっていた。そして、その奥には。  大陸のもののような、天蓋つきの寝台。その上に、赤く巨大なものが寝転んでいた。  赤銅色の肌は、幾重にもたるんで張りが無く、襞のようになっている。それをびっしりと覆う、黒い針金のような 剛毛。猿と牛と人とをかけ合わせたような顔は頭頂部が禿げあがっていて、三本の角が生えている。それは吐き気を 催したくなるほどに醜い化け物だった。  ――これが朱点童子…すべての元凶…!  四人は武器を構え、寝台に向かって駆ける。それを見ながら、朱点童子が悠々と身を起こした。動きに伴って、肉 の襞がそれ自体生き物のようにぶるんと震える。  《ようこそ…朱点閣へ。くくく…久方ぶりのお客人だ、丁重におもてなししてやらねえとなあ…》  金属を擦り合わせるような不快な声が広間にこだまする。鬼は茶色い乱杭歯を剥き出しにして笑ったが、やってき た者たちを一瞥すると死んだ魚のように濁った黄色の目をいぶかしげに細めた。  視線は、四人の額に注がれていた。  《ほお…?その額の光は…。…あの時の餓鬼、か?》  皆の額に埋め込まれた翠の石。それこそが、初代当主にかけられた呪いの根源だった。  短命と、種の根絶。日下部一族のすべてを狂わせた元凶。  事の次第を理解したのか、朱点童子は肩を、体全体の肉を震わせて笑った。  《くっくっく…なるほど、そういうことか! また連中は下にちょっかい出しやがったのかい?くははは…凝りねえ なあ…!》  醜い外見にまったく似つかわしい、下卑た笑い。こんなやつがかけた呪いのために、歪められた生を余儀なくされ、 そして死んでいった者が今まで何人いただろう。  ――ひょっとしたら、母までもが。  「何がおかしい」  鈴葉の金色の瞳に、憤怒の焔が燃え上がる。  「ようやくここまで来た…お母さんのぶんまでぶっとばしてやるから覚悟しな!」  思わず一歩前に出た鈴葉をそれとなく制し、片頬を歪めた表情の雷矢が、さながら黄金の虎のごとく悠然とした動 作で薙刀を肩の上に担ぎ上げた。  「ごちゃごちゃとうるせえんだよ、この野郎。まさか俺たちが、ここまでわざわざ遊びに来てやったなんて思っち ゃあいねえだろうな」  傍らの姉は無言のまま、凛とした表情で薙刀を握る手に力をこめる。彼らの姿が、鈴葉にはどんなに心強いことか。  ――勝てる。みんながいるんだ。きっと勝てる……!  鈴葉ははやる心を抑え、眼前の敵を見据えて強く拳を握り締めた。  腰の刀を抜き放った咲良の口上が、だだっ広い屋敷内に朗々と響き渡る。  「初代の御両親を殺め、我ら日下部一族の生を七代に渡って歪めたその罪。死をもって償うがいい!朱点童子、覚 悟!」  朱点童子は全く動じることなかった。醜悪な顔をさらに醜悪に歪め、にぃ、と哂う。  《可愛いお嬢ちゃんが随分と勇ましいこった。…その元気がいつまで続くかねえ?》  その声を皮切りに、四人は宿敵に向かって駆け出した。    広い屋敷内で、壮絶な戦いがいつ果てるとも無く繰り広げられていた。  咲良の刀が、銀色の軌跡を描く。  雷矢の、静流の薙刀が空気を切り裂く。  鈴葉の拳が、蹴りが唸りをあげる。  誰かが傷を負えば、別の誰かが癒す。  一体、どれだけの間戦っているのか。術で癒しているとはいえ、疲労は濃い。油断していると、頭の心が痺れてく る。四人は互いに叱咤し、励ましあってそれに耐えた。  朱点童子は明らかに狼狽している。既に右腕を失い、体中に無数の傷を負っていた。  《こんな馬鹿な…!まさか、これほどとは…!》  「行くわよ雷矢、鈴葉!」  「おう!」  「はい!」  三人が呼び出した激しい雷が、朱点童子の網膜を焼く。その隙を狙って、静流が薙刀を構えて跳躍した。  「やぁっ!」  次の瞬間、静流の薙刀は朱点童子を袈裟懸けに切り裂いていた。  《あっ…ぉ……》  喉に痰が絡まったような声で、朱点童子が呻いた。静流が油断なく相手を睨み据えながらゆっくりと退くと、朱点 童子はぐらりと大きく揺れ、地響きを立てて膝をつく。赤黒く粘りのある血が大量に流れ落ち、腐臭に似た耐えがた い臭いが辺りに満ちた。  が、朱点童子は胸を押さえ、床に赤黒い川を作りながらも壮絶な笑みを浮かべていた。  《くくく…あはははは!馬鹿な奴らだ…!とうとう、鏡を割っちまいやがった…!!》  「――何ですって?!どういう意味なの!」  それを聞きとがめた咲良が強い調子で問う。刹那、朱点童子の体から激しい閃光が発せられた。  「ぅわっ…!」  「眩しいっ…!」  そうして、四人は見た。目も眩む閃光の中であるはずであったが、鬼の体から幾人もの人影が立ち昇ってゆくのを。  それは、光の中では朧げな人の輪郭でしかなかったが、鈴葉は直感した。日下部の家に下りてくる前の幼い頃、自 分は――いや一族の誰もが、彼らに似た人に会っているはずだ。  ――神々?!  人の輪郭は、光の中で花火のように明滅しては消え、明滅しては消えていく。いくつあったろうか、二十近い人影 が光の中に溶け込むようにして消えた時。  最後の人影が、消えるのをためらうようにしてこちらを見ていた。  見ていた――そう、光の中であるはずなのに、ましてや顔すらもわからない人影であるのに、それは間違いなく鈴 葉を見ていた。おぼつかなげに明滅を繰り返しながら。  ――負けないで。  それは言った。声ではない。鈴葉自身の心に、言葉だけが澄んだ鐘の音のように響いたのだった。  あなたは誰?  鈴葉はそう問おうとしたが、まばゆい光の中で唇を動かすことすらできない。人影は、最後に一つ大きく明滅する と、光の中にかき消えた。  光が収まった時、朱点童子は胸を押さえ、おぞましい笑みを顔に張り付かせたまま息絶えていた。皆、肺の中にた まっていた空気を押し出すようにして息をつき、その場にへたりこんでしまった。  「何が起こったの、一体…」  「あたしたち…呪いが解けたのかなあ…?」  「今たくさん出てきたの、ありゃあ神様だろ…?何で神様が、朱点の野郎ん中から…?一人や二人じゃなかったぜ」  「鏡を割る…一体どういう意味なのでしょうか…」  疑問は山のようにあったがわかるはずも無く、そのまま沈黙が漂った。    ぐちゃり。    不意に響いた音。さながら、何か――泥のようなものをかき回しているような。虚脱していた四人は、一斉に立ち 上がり周りを見渡す。    「何…?」  咲良が素早く周囲へ視線を走らせる。  「咲良姉、あれを!」  雷矢が信じられない、といった表情で前方を指差した。  鬼の死体が、脈動していた。腹の肉が、不自然に膨らんだり凹んだりしている。まるで、腹の中で何かが蠢いてい るかのようだ。それにともなって、ぐちゃりという音が響く。  一体、何が起こっているのか。四人は混乱し、その場から動けない。    不意に、朱点童子であったものの口が大きく開かれた。そこから何かがが突き出ている。  棒切れのようなそれは――人の腕。  空をつかもうとするように指を大きく開き、鬼の肉の奥からずるり、ずるりと白い蛇のように這い出ようとしてい る。    凍りついたように立ちすくむ四人の目の前で、腕がもう一本中から現れた。  白蝋の作り物のような華奢な腕が、しかし驚くべき力で鬼の顎を中から押し広げる。  めきり。  顎の骨が砕ける音が響いた。それとほぼ同時に、鬼の体はすべての支えを失ったかのように重々しく、濡れた音を 立てて床へと崩れてゆく。    鬼であった肉塊の中に、人の姿をしたものが立っていた。    傷一つ、ほくろ一つない肌は、雛人形のように生気の無い白。  均整の取れたしなやかな肢体は、鬼の臓物と血以外何も纏っていない。    それは緋色の雫を滴らせながらゆっくりと顔を上げ、四人の前に向き直る。  真紅の髪。  琥珀色の瞳。  陽炎のようだったあの少年――    「黄川人さん…?!」  静流のかすれた声が、広間にこだました。   
 


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