*四*
泣き声がする。泣いているのは誰。
泣いているのは、姉さんだ。細い肩を震わせて、血塗れた薙刀を抱えたままで。
姉さんが泣いているのに、あたしはどう言葉をかけてあげていいのかわからない。
どうしてこんなことになったんだろう。何が正しかったんだろう。
姉さんの隣に、人影が浮かび上がる。
お人形のように端正な顔。錦の豪奢な着物。陶器の作り物みたいな綺麗な瞳に、嘲りの色を浮かべて。
あたしたちを欺いたあいつは、姉さんに歩み寄る。
やめろ!その汚らわしい手で姉さんに触るな!!
「やめろぉっ!!!!」
全身全霊を込めた拳が、ぽすりと柔らかい感触に包まれた。我に返った鈴葉の目の前に、母の菩薩のように穏やか
な顔がある。その掌に自分の繰り出した拳が収められていること、自分が夢を見ていたことを認識するまでには、し
ばし時間がかかった。
「お…お母さんっ?!」
「鈴葉、大丈夫?」
鈴葉は慌てて拳をを引っ込めたが、母はそれを気にする風でもなく、愛娘の白い額に汗で張り付いた前髪を衣の裾
で優しく拭ってやる。
いつの間にやら、脇息に寄りかかってうたた寝をしていたようだ。冷たい汗で濡れた着物が背中に纏わりつき、気
持ちが悪かった。
大江山での一件以来まともに眠れたためしがなかったから、こんなところでうたた寝をしてしまうのだろうと、鈴
葉は苦笑した。
「お母さん、ごめんなさい…ちょっと、うたた寝してただけだから」
「部屋に来てみたら、日が落ちたのに明かりが灯っていなかったから。いないのかなって思って入ってみたら、寝
てたのよ」
起きている時の最後の記憶は夕暮れ時だったが、日はとうに落ちてしまっていた。母が灯してくれたらしい部屋の
明かりがゆらゆらとゆらめいて、部屋の中に落ちた二人の影に様々な表情を作り出している。
たったいま見ていた生々しい夢の内容を思い出し、鈴葉は唇を噛みしめた。
大江山の朱点童子を、自分たちは倒したはずだった。そう、確かに。だが――朱点童子の骸から現れたのは、一族
の呪いを解きはなってくれるものではなかった。
仮初めの姿を脱ぎ捨てた、真の朱点童子。黄川人、と名乗っていたあの少年。
――復讐を遂げる日まで、安らかに眠ることなかれ。
碑文は日下部一族のことではなかったのだ。その意味では、皆の懸念は当たっていた。
それは焼け落ちた大江山の断末魔を刻みつけた、朱点童子の呪詛そのもの。その呪詛を成就させるために――黄川
人、いや朱点童子は、日下部一族を利用した。『鏡』を割らせるために。
よくも騙したな、と激昂する鈴葉に、朱点童子は冷ややかに言ったものだ。
「別に騙してなどいないよ。君たちが勝手に勘違いしただけさ。同じ傷を舐めあえる相手がいる、ってね」
そう言って、腹立たしいほどに美しい顔を艶やかに歪めて笑い、いずこともなく消えていった。思い出すたびに、
臓が煮えくり返る気分になる。
結局何も、変わらなかった。
呪いは解けず、命の長さも戦いに明け暮れる日々ももとのままだ。いや、むしろ高い神格の神々が二十柱がかりで
封じていた朱点童子の力が解き放たれた今、『一族にかけられた呪いを絶つ』という悲願は更に遥か先のことになっ
てしまったと言っていい。現に、自分が怒りに任せて放った技は、全く朱点童子に通じなかった。
事情を聞いた魂子が皆を元気付けてくれなければ、最早誰もが虚脱したまま何をする気も起きなくなっていただろ
う。これも、あの不思議な和やかさを持つ魂子だからこそできたことでもある。
あの後の姉の悲しみようはといえば、見ていられないほどだった。無理もあるまい。呪いが解けると思っていた矢
先の出来事であったし、ましてや自分が心の底から助けようと思っていた想い人が、実は自分たちを欺きすべての根
源を創り出した者であったのだ。母が元気付けてくれるまでは、臥せったまま起きられなかった。
恋心など未だに覚えたこともない自分に、静流の心が受けた傷がどれほどのものかなど想像もつかないし、自分が
それを代わることもできない。そもそも、どうやって慰めてよいかすら分からない。悔しさとやるせなさと怒りとで、
眠れない日が続いていた。
顔を上げた鈴葉は、母が気遣わしげに自分を見つめているのに気がついて、努めて元気よく笑ってみせた。
「ほんとに大丈夫――それよりお母さん、あたしに何か用事があったの?」
やや強引に話題を変えてみたつもりだったが、母は笑ったままの顔に少し哀しげな色を浮かべた。
「お母さん……?」
「――今のあなたに、こんな話は辛いかもしれない…でも、もう刻はそう残されていないから…」
訝しげに自分を見つめる娘に、魂子は当主の顔で向き直った。
「鈴葉。私はあなたを、日下部の八代目当主に任命するつもり…家のことを、頼みます」
「……!」
鈴葉は咄嗟には返事を返すことができなかった。
まだ下界に下りる前の頃。父神に手を引かれながら、母という人が『当主』であると聞かされた。当主とは一族を
率いる者の事であること、そして自分も一族に呪いをかけた悪い鬼を退治するために、下界に下りて戦うのだと言う
ことを父は話してくれた。
その時、自分は当主になる、ともう顔すら覚えていない父に言った記憶がある。強い当主になって、そんな悪い奴
らはやっつけてやると。だからイツ花にともなわれて、日下部家にやって来て初めに言った言葉は、「大きくなった
ら当主になりたい」だったと思う。
だが、当主の交代は先代の命が尽きる時に行われる。すなわち、現当主である母が死ぬ時だ。それを知ってからは、
「当主になりたい」という言葉は一切口にしなくなった。そんな瞬間は、永遠に来て欲しくなかったから。
だが。母の、一族の呪いは解けなかった。最も残酷な形で、幼い日に語った『将来の夢』が実現しようとしていた。
受けねばならない、と鈴葉は自身に言い聞かせた。当主である母が自分を後継者に望んでいる以上、自分にできる
ことは本当に呪いの解ける日を信じて日下部の当主を継ぎ、戦い続けることだけだ。
膝の上で強く握り締めた拳の輪郭が滲む。俯いた瞼が熱く、重い。大きく瞬きをすれば、きっとそれは瞼から手の
甲に滴り落ちてしまうだろう。極力瞬きをしないよう、俯いたまま歯の間から声を押し出すようにして、か細く返答
するのが精一杯だった。
「……はい、お受け…致します」
「ごめんね…本当は、こんな時に言いたくなかった。でも…私の命はもって来月末。鈴葉たちが来月の討伐から戻
ってくるまでに、もしかしたら間に合わないかもしれないの。だから、伝えておかねばならなかった」
俯いていると、母が掌で慈しむように髪を撫でてくれる。鈴葉が指南されていた折、教えられたとおりに上手くで
きた時によくしてくれた仕草だった。瞼の熱さ、重さが更に増す。
「私はあの時大江山には行けなかった。だから、あなたたちが辛い思いをしていた時に傍にいてあげられなかった
こと、それに今も――あなたたちが辛い思いをしながらも、戦う決意を再び固めているのを置いていってしまうこと
が…何よりも悲しいの」
いつも穏やかで、聞く者の心を和ませる母の声。それが、ほんの少しだけ暗い響きを帯びる。だが、次の瞬間、再
びいつもの調子に戻っていた。
「あのね、鈴葉」
母は俯いている娘の両の頬を、そっとその掌で包むようにした。真綿のような、柔らかく暖かい掌だった。
「あなたは強い子だけれど、とても優しい子でもある…みんなが悲しんでいる時は、自分が悲しんでいる素振りは
けして表に見せないもの。母様にはわかるわ」
そう言って、優しく娘の顔を上に向かせる。魂子の顔は、あくまでも穏やかで暖かい笑みを浮かべていた。
「私がもう、あなたたちにしてあげられることはほとんどないけれど――あなたの、みんなの、心にある悲しみや
怒り…やるせなさ…全部私があの世に持っていってあげるから。だから今だけは…何も我慢しないで。私にぶつけて
頂戴ね。母様の、最期のお願いよ」
鈴葉が思わず目を見開いたので、ころりと涙が一つ、頬に転がり出た。
「お母さん、あたし――」
一度堰を切ってしまったものは止められない。後から後から溢れ出る。母の胸にすがり付いて、鈴葉は声を上げて
泣いた。
「あたし…あたし、お母さんにもっと生きてて欲しかった…姉さんの恋が叶って欲しくて…みんなとずっと一緒に
いたくて……っ…」
しゃくりあげながらわあわあ泣き続ける鈴葉を、魂子は優しく、しっかりと抱きしめる。
「うん。あなたも…みんなも。よく頑張ったね…有難う。ほんとに、有難うね」
赤子をあやすような口調で、母は愛娘の嗚咽に震える背を撫でてやった。
魂子の胸は、柔らかく暖かかった。来月になれば、その温もりは永遠に失われてしまう。自分にはもうどうするこ
ともできないと思うと、更に涙が溢れた。その時だった。
――負けないで。
大江山で響いたあの言葉が再び、琴の弦を弾くかのように鈴葉の心を震わせた。
誰が呼びかけてくれているのかはわからないけれど、不思議と勇気の沸いてくるその言葉。
言葉に導かれるままに、鈴葉は最後にひとつだけ、心の一番奥のほうに仕舞い込んでいたことをぽつりと口にした。
「それにね…戦うことのない、普通の女の子に…なってみたかったの……」
綺麗な着物を着て、紅をひいて。
ほんとは誰か素敵なひとと、恋なんかもしてみたかったんだよ――
その翌月。日下部家七代目当主魂子、永眠。享年一歳十ヶ月。
「みんな、自分の好きな方へ向かって歩いていけばいいのよ。どの道も間違ってないわ」
最期の言葉は、新たに生まれ変わった朱点打倒に対する、一族への手向けだったのかもしれない。
そうして、鈴葉は日下部家八代目の当主になった。
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