*五*
 今のあたしにできることは、朱点への道のりを生きている間に少しでも縮めることだけ。  強くなれ。自分の運命を嘆くな。  泣こうが笑おうが、命の長さは変わるわけじゃない。  だったら、あいつの呪いなんか全部笑い飛ばしてやれ。  あいつは、あたしたちが絶望して泣くのを望んでいるんだから。  だけど。  あたしは今、自分の負う運命ってやつを――心底呪ってやりたいと思っている。  あちこちで、真紅の焔が燃えていた。術で守られているとはいえ、灼熱に輝く岩の熱さを完全に遮ることはできな い。武具が熱を持ち、汗が吹き出る。時折地面から花火のごとく溶岩が沸き立つ様は、さながら巨大な生き物の脈動 する胎内のよう。  ここは紅蓮の祠、大地が最も熱くたぎる場所――  「…当主様!」  後ろから、自分を呼び止める声がする。将臣だ。  鈴葉が半身を向けると、剣士の装束をした青年が小走りに近寄ってきた。  「また残月だね、将臣」  将臣は、はい、と小さく頷くと、気遣わしげに後方を見やった。将臣の背後には、一見少女と見紛うような美貌の 少年が薙刀を抱えたままへたり込んでいる。  うだるようなこの暑さである。将臣の額にも、母親ゆずりの癖のない青い髪が汗で張り付いていた。彼自身も相当 に体力を奪われているようだったが、自分の身よりも後ろにいる残月が心配でたまらないのだろう。  この青年は、こんなところまで咲良に似ているのだな、などと思いながら、鈴葉は踵を返して残月の前に立った。 鈴葉自身も、残月はそろそろ限界だろうと見当をつけていたところである。  「残月」  己の名を呼ばれて、残月はのろのろと顔を上げた。肌は浅黒いが、都の姫君たちが騒ぎだしそうなほどの眉目秀麗 な顔立ちである。残月が生まれた時、似ても似つかない彼の父親は、いっそ女にしといたほうがよかったなと不敵な 顔に苦笑を浮かべたものだったが。しかし、その顔には今、慣れぬ暑さによる疲労で隈が貼りついていた。  「もう音をあげたのかい」  心頭滅却すれば、と言うが、鈴葉は汗こそかいているものの全くけろりとした顔でそう言った。残月は、腰まであ る金色の長い髪を揺らしてよろよろと立ち上がり、大丈夫です、とかろうじて答えた。  残月の様子を一瞥すると、鈴葉は腰に括りつけた水入れを残月に放った。  「水を飲んで少しお休み。あたしが周りを見ていてやるから。将臣、残月に癒しの術をかけてやりな。今月は予定 より早めに切り上げて帰還する」  鈴葉はさっさと踵を返すと、壊れ始めていた結界を修復するべく印を結び、念を凝らす。快適というには程遠いが、 それでいくらか周囲の熱さが和らいだ。残月は、渡された水入れを手に持ったままうなだれる。  「申し訳ありません、当主様…足を引っ張ってばかりで」  傍らで術を施していた将臣が、気遣うように残月と当主の後姿とを見比べる。だが、鈴葉は振り向こうとしなかっ た。  「…なら、強くおなり。いつまでもあたしや将臣が守ってやれるわけじゃないんだ。足手まといが厭だと思うのな ら、そうならないように――あたしよりも、将臣よりも…強くなってご覧」  鈴葉は、足手まといという言葉も遠慮なく使う。実際、紅蓮の祠に足を踏み入れるのは初めての残月が討伐隊の足 手まといになっているのは事実だ。気休めは言わない。  ――強くなれ。自分の運命を嘆くな。  それが、当主になってからの鈴葉の口癖だった。大江山での出来事が、彼女を必然的にそうさせたのであろう。一 度戦さ場に出るようになったら、初陣であろうとなんであろうとけして子ども扱いはしなかったから、そう言う点で は容赦なく厳しい当主であった。  しかし、討伐隊が限界だと思う時は休みを取らせたり、さっさと討伐を切り上げて帰還することもあった。また、 彼らが戦いの中で危なくなった時は真っ先に、そして確実に助けてやった。だから年若い残月や将臣は、生真面目に、 懸命にこの当主についてくる。一見ぶっきらぼうな彼女が、本当は自分たちが危なくならないよう、常に気を配って くれているのだということを知っているからだ。  今回の討伐も、いつもどおりの振る舞い、いつもどおりのそっけない口調。だが、表にこそ出さないが、心の内は 風に吹かれる水面のように細かくさざめき立っていたのだった。  刻は無情に流れていた。大江山朱点討伐隊であった咲良、雷矢は、それぞれ将臣、残月という子を残し既にこの世 の人ではなくなっている。姉の静流はまだ健勝だが、今回の討伐には加わっていなかった。  今月、娘が来訪したために、その指南役として家に残ったのである。  静流は、あれ以来黄川人のことは一言も言わない。普段は何事もなく振舞っているが、その奥底に秘めた悲しみが ふとした時に見えることがある。それが、鈴葉には辛かった。  静流が交神の適齢に近づいてきた時、鈴葉は迷った。  姉を交神させるか否か。  彼女が優れた力量を持つ薙刀士であることは、一族の誰もが認めるところである。その力を絶やすのは、『当主』 としてはすべきでない。そんなことは分かっている。  だが、想い人に利用され裏切られた静流に、別の男――この場合、神であるけれど――との間に子を為せと言うの か。恋をしていた頃の姉を知っている鈴葉に、そんな残酷な真似ができるわけがない。  交神の儀は、子を為すという力が根こそぎ奪われている日下部一族にとって、唯一子孫を残す手段である。勿論そ んな身の上であるから交神は本当に儀式そのものであり、幸か不幸か、並みの人のように閨をともにするわけではな かった。交神の間に描かれた方陣の上に神と向かい合って座る。イツ花の『交神の舞』によってお互いの命の源が方 陣に映し出され交じり合い、ひとつになる。ただそれだけのことである。  だからといって、己の血を分けた子を為すものであることには何ら変わりない。  そんな風に思案していると、他ならぬ姉の方から交神を申し出てきた。鈴葉は少なからず動揺したが、静流自身の 希望であるならば拒否する理由はなかった。  交神相手の選択権はというと完全に日下部一族の方にある。どのような神でどれほどの力を持っているか、という ことをイツ花から聞きながら、一番相性がいいであろう相手を選ぶことになっている。  選ぶのは交神する者自身でもいいし、当主が決めてもいい。鈴葉は姉の選択に任せ、今月になって生まれた娘がや って来た。だが、鈴葉はやるせなさを感じずにはいられなかった。  姉は気丈で聡い人である。自分が一族のために何をすべきか、それを思って意に添わぬ交神を願い出てきてくれた のでは、と思うのだ。だからこそ、大江山でのことが否応なしに思い出されてしまう。もしもあの時本当に呪いが解 けていたら、などと考えても詮ないことを考えてしまう。  沸き立つ岩に気を配りながら、鈴葉が我知らず唇を噛みしめた時。また、響いた。  負けないで、と。  大江山以来時折聞こえてくるこの呼びかけに対し、あなたは誰、と幾度となく問いかけた。だが、問いに対する答 えはいつもない。  「――さあ、そろそろ行くよ」  その言葉を大事に胸にしまいこんで、鈴葉は二人の方へ向き直った。    その後、紅蓮の祠での討伐を終えて、一行は帰還した。  「当主様、お帰りなさいませー!」  イツ花の元気な出迎えもそこそこに、鈴葉は姉親子の様子を尋ねた。  「姉さんと狭穂はどうだい」  「お二人ともお庭の方でまだ稽古をなさってると思います。成果は上々のようですね。もうすぐ終わって戻ってい らっしゃると思いますよ」  そうイツ花が言うのを、鈴葉はそれとなく遮った。  「そうか。じゃ、先に着替えるよ。戦装束のままだから」  「あ、お召し替えならお手伝いを」  「あたしは平気。それより、将臣や残月の方を頼むよ。疲れてるからね」  努めていつもどおりに部屋に入り、戦装束を解きながら鈴葉は嘆息した。  ――情けない、な。  姉の交神に対して是か否かの判断を下したのは自分だ、という思いが、鈴葉を静流から自然遠ざけていた。こんな ざまでは、交神を願い出てきてくれた姉に対して申し訳が立たない。    身支度を整えながらもう一度嘆息した時、背後に気配を感じて鈴葉は振り向いた。  「お帰りなさい、鈴葉。怪我はない?」  穏やかな笑みを浮かべ、稽古を終えた姉が部屋に入ってくるところだった。  「…姉さん」  鈴葉は静流からそっと視線をそらした。どんなに周りに気づかれることがなくても、昔から母と姉にだけは心の奥 に押し込めた感情を見抜かれてしまうからだった。  静流は昔から変わることのない柔らかな物腰で床に座ると、鈴葉の戦装束を畳み始めた。  「いいよ、そんなことしてくれなくても。自分でするよ。姉さんだって稽古終わったばっかりなんだからさ」  「ううん。あなたは一月討伐に出て、疲れているでしょう?」  鈴葉は、隣で姉が自分の着物を畳んでくれている様をぼんやりと眺めていた。  「…こうして」  その声で我に返ると、静流は畳んだ着物を膝に乗せたまま、こちらを見つめている。  「二人でゆっくり話すのは…久しぶりね。ここのところ、討伐で忙しかったから。あんまり話す機会もなかったも の」  静流の言葉に、鈴葉は違う、と心の中で否定した。自分は、姉のことを避けていたのだ。  「鈴葉」  「え?」  気持ち俯き加減になっていた鈴葉は、姉の声に顔を上げた。  「私が交神したのは私自身がそう望んだからよ。あなたがそんなに気に病むことなんてないの。心配かけちゃって、 ごめんね」  やはり、姉はお見通しだった。驚いたように大きな金色の瞳を見開いて、見つめ返してくる妹に静流はそっと笑い かけた。  「私が今まで戦ってこられたのは…あなたたちがいてくれたから。みんなとのかけがえのない強い絆があったから …だから私は戦い続けることも、交神することも自分のすべきこととして受け入れることができた。私が交神するこ とで、一日でも早く呪いが解ける日が来ますように。私のような思いをする子が、この先一人でも減りますように… って」  「姉さん……」  「でも…私ね、最近思うのよ」  静流は、庭の方へ顔を向ける。簾が上がっているので、庭の様子がよく見えた。戦装束から着替えた将臣と残月が、 幼い女の子の遊び相手をしてやっているようだった。蒼く波打つ長い髪をしたその女の子は、切れ長の美しい目元が 母に生き写しだった。静流の娘、狭穂である。  「私たち、並みの人とは到底かけ離れた生をおくっているけれど、辛いことや悲しいことばかりじゃないんだな、 って。交神相手の神様は、とてもお優しい方だったわ。儀式でお会いしただけだったけれど、私のことをご自分のこ とのように案じてくださったし…何よりも、狭穂というすばらしい宝を私に授けてくださったもの」  鈴葉は、半ば呆けたような顔をして静流を見つめるばかりだった。静流は庭から視線を戻し、鈴葉に柔らかく微笑 みかける。そんな姉の笑みは、昔よりも――黄川人に恋をしていた頃よりもずっと――輝いていて、美しいと思った。  「――だからね、私今幸せよ。鈴葉…あなたはどうかしら?当主だって幸せを探したっていいと思うの。私は、あ なたに幸せになって欲しいわ」    狭穂への指南を終えた後。第七代目当主の娘にして大江山朱点討伐隊の一人、静流が永眠した。享年一歳七ヶ月。 死に顔は穏やかだった。  幸せ。  亡き姉の言葉を反芻しながら、鈴葉は己に問いかけた。  あたしは今――幸せなんだろうか、と。     
 


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