天空から、柔らかな光が振り注いでいる。淡い桃色の花を満開にした木々が立ち並び、淡雪に似た光を放つ花びら
がひらひらと無限に舞い散る様は、さながら桃色の霞のようだった。甘く芳しい花の香がどこからか香ってくる。日
々変わることがなく、穏やかで美しくあり続ける場所。
そこは、神々がおわす天の宮があるところ――
満開の花が咲き誇る林の中を、一柱の男神が歩いている。何かを捜しているのか、きょろきょろと見回す浅黒い肌
の横顔は、少年のように初々しい。しかし身に纏うのはその外見にそぐわぬ無骨な甲冑である。背にたなびく金色の
焔の翼はまばゆく輝き、彼が顔を巡らせるたびに蛍火のような小さな燐光が翼の周りで明滅する。それが、その神の
力が並みならぬものであることを悠然と物語っていた。
「――探しものかい、金翔天」
威勢のいい声に、金翔天竜馬が落としていた視線を上げると、戦装束に身を包んだ女神の姿がある。その手が無造
作に掴んでいるものを認めて、少年神は眉尻を下げた。
「ああ、やっぱりそんなところに…また御迷惑をかけたのではありませんか、吉焼天殿」
「なぁに。いつものことじゃないか。あたしは結構楽しんでんだよ」
吉焼天摩利はそう言って快活に笑い、首根っこを掴まれてじたばたと暴れていたそれをぽんと金翔天竜馬に向かっ
て放り投げた。竜馬の方も心得たもので、別段慌てる風でもなくそれを軽々と両腕で抱きとめる。
「…こら。また吉焼天殿にちょっかいを出したんだな。無闇に他の神々の元へ行ってはならないと言っただろう」
「だって、父さん。いつでもかかって来いって言ったの、摩利ねえちゃんの方だぜ」
甲高い声で父親の腕の中から言い返すのは、焔のように赤い髪に深淵の色をした瞳、いかにもきかん気の強そうな
やんちゃ坊主、といった印象の男の子である。父親と言うには若すぎる風貌の少年神は、元気が有り余っている息子
にやれやれと大きく息をついた。
「お堅いこと言いなさんな。男の子は元気が一番だ。それにいい目をしてる。この子はきっと――すごい子になる
んじゃないかね」
そう笑う吉焼天摩利の表情は、いつも見せる凛々しい武神のそれではなく、むしろ母親のような慈愛に満ちていた。
長身を屈めて、父親の手の中からちょこまかとすり抜けた男の子の頭をぐりぐりと撫でてやると、男の子はくすぐっ
たそうな顔をした。
「ねえ、お前。交神する年頃になったら、あたしを選んでみないかい。お前の血が、どのくらい強くなっていくの
か。見届けてみたいからね」
「おう、じゃあ俺の嫁にしてやるよ」
冗談のつもりで言ったのだが、男の子が甲高い声でそんな返事をしたので、そのつきたての餅のようなほっぺたを
つつきながら吉焼天摩利はからからと笑った。
「ったく、ませた口をきく。そんな言葉、誰から教わったんだ」
「エビスのじいちゃん」
「あぁ…だから、他の神々のところには行くなと言っただろう。一体誰のところまで出かけてるんだ、全く」
余談だが、この男の子が長じた時に最初の交神相手として選んだのが吉焼天摩利である。本人はと言えば「強そう
だったから」という極めて安直な理由で選んだのであって、天界でのやり取りを全く覚えていなかったため、交神の
間で大目玉を食らったというのはまた別の話だ。
「父さん、どこ行くんだ?」
降り注ぐ花びらが作り出す夢幻の霞の中を、金翔天竜馬は息子の手を引いて歩いていた。普段来たことがない場所
なので、男の子はしきりに周囲を見回している。何も知らずに見上げる息子に、金翔天竜馬は少し哀しげに微笑みか
けた。
「君は、これから下界に行くんだよ」
「げかい?」
きょとんとしている息子から目をそらすようにして、少年神は彼方を見るような顔をした。
「下界は人の住まうところ。ここは天界、神の住まうところだ。君は神である僕と人の子として生まれたけれど、
人として生きなければならない。だから、これから下界に降りるんだ」
男の子は眉間に皺を寄せてそれを聞いていたが、心許なさそうに父の衣の裾を引張った。
「父さんとはいつ会える?」
金翔天竜馬は息子に視線を戻すと、襟足がひどい逆毛のために真横を向いている息子の髪の毛を優しく撫でた。
「もう…君とはお別れだ。一度下界に降りたら、天界には戻れないんだよ」
桃色の回廊の終点では、その桃色を透かしとったような色の小袖に身を包んだ小柄な娘が待っていた。その姿を認
めると、男の子は立ち竦んだ。あれは、お迎えの人だ。言われずとも分かった。
父に促されて、男の子は不安さを隠しきれずに娘の前に歩み寄る。いつものやんちゃな表情とはうって変わって心
許ない表情をする息子に、金翔天竜馬は努めて明るく笑いかける。
「ほら。そんな顔をしてはいけないよ。これから君は、下界のお母上に会いに行く。君のお母上は、優しく、とて
も強い人だ。君と同じ一族の人もいる。僕とはもう会えないけれど…御母上や、一族の人たちが君の傍にいてくれる。
――どうか、元気で」
その下界では、水がぬるみ猫柳が芽吹く頃を迎えていた。都から少し離れた高台に居を構える日下部家では、朝か
ら慌しい。表面上は別段どこも慌しくないのだが、その実当主がそわそわしている。本人は普段どおりに振舞ってい
るつもりなのだが、よくよく観察してみると柱に肩をぶつけたり、上の空になってみたり、衣の裾を踏んで均衡を崩
しかけたりしている。
「…ああ。畜生」
ここまで浮き足立っているなんて全くどうかしている。そんな自分を戒めるかのように、当主はぴしゃりと自分の
頬を軽く打った。大きな丸い金色の瞳と、ゆるやかに癖のついた長い金色の髪を首の後ろでまとめた女人である。そ
の容貌は、ともすれば少女のようにあどけなく見える時があるが、この人こそ都で剛勇無双の拳法家と謳われた八代
目日下部紫苑であり、幼名は鈴葉と言った。
朝方出かけていったイツ花がまだ戻ってこない。もうすぐ戻ってきてよさそうなものだが、と思うとついついそわ
そわしてしまう。今しがたは、角のところで危うく将臣と衝突してしまうところだった。
「ったく。らしくもないったら」
鈴葉はそう呟いて大きく息をついた。
「…将臣兄さん、イツ花はまだ戻ってこないんでしょうか」
倉から出してきた巻物をいくつも抱えた長身の青年が、庭で剣の修練をしている青年に声をかける。
そろそろ突き刺すような冷気が緩み、日差しが柔らかくなってくる頃である。汗で額に張り付いた癖のない青い髪
を払いながら、将臣はそうだな、と玄関の方を見やった。
「当主様は相変わらず落ち着かないのか、残月」
半ば笑みを含んだその問いに、残月と呼ばれた青年も肩をすくめるようにして笑った。長い金色の髪に、切れ長の
目元が涼しげなその青年は、一族で一番の長身と、やや痩せぎすな体格でなければ、女人のようにさえ見える顔立ち
である。
「ええ。当主様から、指南書が倉の高い位置にしまってあるので取って来てくれないか、と頼まれまして。持って
行こうとしたのですが、どうも心ここにあらずというご様子でしたから、後にしようかと」
残月の返事に、将臣は紺碧の瞳を細めて小さく笑った。たおやかな印象のある残月とは対照的に、真っ直ぐな青い
髪を首の後ろで束ねたその風貌には、凛とした精悍さがある。
「ああ、これからの指南に必要だからな。先ほども、角のところで俺とぶつかりそうになった。あの当主様にこん
な一面があったとはな」
鈴葉は、今でこそ高齢のために討伐隊から退いているものの、戦場では全く容赦というものをしない当主だった。
子供の甘えは戦では死に繋がるだけ、と言って初陣であっても大人と同じ扱いをした。それだけを聞くと厳しい人物、
と受け取られそうだが、本当に無理だということは絶対にさせず、誰かが危ない目に会ったときは真っ先に助けに来
た。だから、少女のあどけなさを残す外見からは想像もつかぬほどの厳しさは、彼女の優しさの裏返しなのだという
ことは二人とも承知している。
それにしても今日の当主の落ち着きのなさは、普段の彼女の立ち居振る舞いからは想像もできない。彼女がそうな
ってしまう理由が何であるかがよく分かっているだけに、それがおかしいやら微笑ましいやらで、二人はどちらから
ともなく笑った。
「なあに、二人で笑ったりなんかして」
現れた小柄な影が、男二人の姿を認めて小首を傾げる。その動作にあわせて、豊かに波打つ青い髪がせせらぎのよ
うに肩からこぼれた。
「何だ、狭穂か」
「何だとは何よ、将臣兄さん」
狭穂はそう言うと、ふっくらとした可愛らしい頬を軽く膨らませた。
「いや。イツ花かと思ったんだ。当主様が今か今かと待ち焦がれておいでのようだからな」
笑みを含んだ将臣の返事に、狭穂もくすりと笑った。
「イツ花だったらもっとバァーン!なんて言いながら元気よく来るでしょ。でも楽しみ。今まで私が一番下だった
もの、男の子かな、女の子かな」
そういう狭穂は鈴葉の姉の娘だ。自分とは三月違いになる従兄弟がどんな子なのか、気になるのだろう。その時で
ある。
「当主様―」
イツ花の元気な声が響いてきた時の当主の反応はといえば、文字通り弾かれたような立ち上がりっぷりであった。
残りの三人も、いよいよかと後を追う。
玄関に到着した彼女を待っていたもの。それは。
「――金翔天竜馬様のもとより、御子を預かってまいりました。男の御子様ですよ」
襟足が焔のごとく逆立った、真紅の髪。自分譲りの、きかん気の強そうな深淵の色をした瞳。
鈴葉と金翔天竜馬の、命を受け継いだ子。
鈴葉は大きな瞳を見開いて、自分をきょとんと見上げている息子を凝視する。雪が春の日差しを浴びて溶けるよう
に、見る見るうちに相好が崩れた。
「よく、来たね」
跪き、息子の小さな体を抱き寄せて、その存在を確かめるように強く抱きしめた。
「強くおなり。あたしよりも――お前の父神様よりも、もっと強く」
一〇二六年三月初頭。日下部家八代目当主の子、来訪。飛炎、と名づけられた。
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