飛炎はほどなくして家に馴染んだ。父からどこともつかぬところに行け、と言われて当初酷く不安だったのだが、
何のことはない。髪の色や瞳の色こそ違うが、額には皆自分と同じ印がある。違うことといえば、父のような輝く翼
も角もないことだが、自分にもないのだからそんなものなのだろう、と思った。
そして飛炎は、大変にやんちゃな子供であった。一族の男子である将臣と残月は、いずれも元服を済ませており、
飛炎とは年が離れすぎている。そして、二人とも幼少時からあまり腕白な類の遊びをするような気性ではなかった。
当然、元気が有り余っている飛炎の相手などしきれるものではないので、自然とその元気の矛先は庭木やら椀やら
書物やらに向けられる。そのたびにイツ花や狭穂からこっぴどく叱られるわけであるが、何よりもおっかないのが母
親の鈴葉の拳固であった。
元々体一つで鬼たちと渡り合う拳法家であった当主の拳固は、目から火花が出るようなものなのだが、それでも飛
炎は懲りもせずにいたずらに精を出す。日下部家は女三人が飛炎を叱る声でいきなり賑やかになった。
飛炎が鬼狩りの一族として選んだ生業は、母と同じ拳法家である。鈴葉は当初飛炎の好きにさせるつもりで、別段
自分の後を継がせようとは思っていなかったのだが、息子が自分で選んだのだから容赦はない。討伐隊が出払った後
は、日下部家には主に指南役の鈴葉が飛炎を叱る声と、それに口答えする飛炎の声とでやっぱり賑やかなのであった。
「こら。いつまでも地べたに寝っ転がってんじゃない。まだ終わっちゃいないよ」
「やだ!もう疲れた」
「ほんとに疲れたときはね、そんな口叩く気力もないもんだよ。自分で選んだものを途中でほったらかすのは弱虫
のすることだ。お前は弱虫かい」
「弱虫じゃねえよ!」
「言ったね」
鈴葉はそう言ってしゃがみこむと、突っ伏している息子の顔を覗き込んだ。
「じゃあ立ちな。口先だけのやつも弱虫だよ」
「分かったよ!」
飛炎は単純剛直な気性なので、こういう時実に扱いやすい。しかし、そう思えるのは鈴葉が飛炎の母親だからであ
って、イツ花を始めとする他の面々は、この小さな台風のような少年に振り回されてへとへとなのである。
母の言葉に上手く乗せられた飛炎は、大きく頬を膨らませると飛蝗のように跳ね起きた。それを見た鈴葉は、立ち
上がって腰に手を当てると楽しげに笑った。
「…ほら。やっぱりまだそんな元気があるんじゃないか」
鈴葉はそう言って笑うと、飛炎の髪をくしゃりと撫でた。
「もう一汗流したらしまいだ。今日もよく頑張ったね」
こういう時、鈴葉は普段からは想像もつかないほど優しい顔をする。そんな母の掌の下で、褒められた飛炎は歯を
むいてくすぐったそうに笑った。
「飯まだかな、腹減った」
「終わった気になってんじゃないよ、もう一汗って言ったろ。イツ花には美味しいものいっぱい作ってもらおうね」
「うんっ」
「――ふう」
濡れ縁に座って、汗をぬぐいながら一息つく当主のもとへ、イツ花が水を持ってやってきた。
「お疲れ様です、当主様。飛炎様の後にお湯を持ってきますから。体流して下さいね」
「飛炎は一人で流してるのかい?」
ええそれが、とイツ花も笑って肩を竦めた。
「餓鬼じゃねえんだから一人でできるよ!なんて。追い出されちゃいました。イツ花に洗われるのが恥ずかしい、
って思っていらっしゃるんでしょうね。この時期の御子様は一番成長がお早いですから。ちょっと前までは、お芋み
たいにごしごし洗われてましたのに」
「…ったく。そんなちっちゃいものぶら下げてたって、誰も何とも思やしないってのに。いっぱしの大人ぶった言
い方して」
水の入った椀を手にしたまま、鈴葉はそう言って笑ったが、最後に口元に手を当てて小さく咳をした。
「当主様、どうかなさいましたか?」
「…いいや。ちょっと、水が喉に入っただけ。しかし親のあたしが言うのも何だけど、あの子は大そうな拳法家に
なるかもしれないよ」
その言葉に、イツ花は眼鏡の奥の丸い瞳をぱちくりとさせた。
「ご指南が順調だなとは思っておりましたけれど、そんなに凄いんですか」
「乾いた砂が水を吸い込むように、とはよく言ったもんだ。あの子の持つ才は正にそんな感じだよ。奥義の継承は
早々に済んじまったし、このまま行くと一月で二月ぶんのものを身につけちまいそうだ。天性のものだろうね、教え
てるあたしも楽しいよ」
「そうですか、飛炎様のこの先が楽しみですネ。お戻りになった皆様もびっくりされるんじゃないでしょうか」
イツ花はそう言ってにっこり笑うと、じゃあちょっと飛炎様の様子を見てきますと行って出て行った。程なくして、
遠くの方からまだ入って来んじゃねえよ!という飛炎の甲高い声と水の跳ねる音、イツ花の素っ頓狂な声が聞こえて
きたので、鈴葉は口元に笑みを浮かべた。
先ほど口にあてた掌を見る。まだ、何もついてはいなかった。が――
「…やれやれ。あの子の飲み込みが早いのがいいのか悪いのか。来月はどうも、相手しきれなさそうだ――」
誰ともつかぬ呟きが、その唇から漏れた。
「皆様お帰りなさいませー!」
イツ花の元気な声に迎えられて討伐隊が帰還したその夜。将臣は、鈴葉に呼ばれて部屋に赴いた。灯に照らされて
いるはずの当主の顔は、出立前よりも少し青白く見えた。
「当主様、お話とは?」
「ああ、戻ってきて間もないのに呼び出して済まないね。座ってくれ」
促されるままに将臣が座ると、鈴葉は単刀直入に言った。
「お前には、来月交神の儀に望んでもらいたい」
将臣も来月には一歳三ヶ月になる。交神するには丁度いい時期だ。本人もそれは承知していたらしく、分かりまし
た、と答える。
「それで、だ。お前が戻ってくる後だと慌しいから今のうちに言っておくけど――」
灯火が、隙間風に揺れて当主の顔に影を落とした。
「あたしの命は来月までだろう」
まるで他人事のような物言いに、明らかな驚きの色が将臣の端正な顔に現れた。確かに当主はいつ倒れてもおかし
くはない年齢だが、自分たちが出立する前はやんちゃな息子を威勢よく叱り飛ばしていたのだ。まだあと一月は健勝
ではないか、と思っていた。
「当主様――」
「それでね」
努めてなんでもないことのように、微笑みながら鈴葉は続ける。
「次の当主には、お前になってもらいたいんだ」
「私が、ですか…?ですが――」
「お前も当主を継ぐにはやや遅いのは承知の上だよ。…飛炎のことを、頼みたいんだ」
そう言った鈴葉は、当主ではなく母親の顔をしていた。
「あの子の才は大したものだよ。あの子ならば将来、日下部家の当主として一族を引っ張っていけるんじゃないか、
って思うんだ。…でもね」
鈴葉は哀しげに目を伏せ、何となしに右手の中指にはめられた指輪を触る。当主の指輪――日下部家当主の証だ。
「残念ながら、あたしはあの子がどう成長していくか、最後まで見届けることはできない…だから、お前に頼みた
いんだよ」
言葉を失ってただ当主の言葉に耳を傾ける将臣に、鈴葉は再び笑いかけた。
翌日。将臣は、庭先で稽古に精を出す鈴葉と飛炎を見ていた。
確かに、自分から見ても飛炎の才には目を見張るものがある。鈴葉は既に全盛期の身ごなしではないが、それでも
息子の相手をするのには力半分、というわけにはいかないようだ。
それだけのものを、ここにきてわずか一月足らずで身に付けたというのか。将臣は舌を巻いた。
昨夜、鈴葉から言われた言葉が脳裏に蘇った。
「あたしの命があるうちは、あの子に全てを叩き込んでやるつもり…もしお前の天寿が近づいた時、あの子が当主
として相応しいと思う男になっていたら。その時は…あの子に当主を継がせてやってくれないかな」
――確かにこの子は、当主になれるかもしれない。しかも、今までにない強い当主に。
そう考えた時、将臣の姿を見つけた飛炎が元気良く駆け寄ってきた。
「将兄、次の討伐までまだうちにいんだろ?ちょっと相手してくれよー」
「こら。将臣は来月交神だからうちにはいないんだよ。まだ休みだって言ってないだろ」
「たまには母さん以外とやってみた…ぁ痛たたたたた」
一方的にそんなやり取りをした後、母親に襟首をつかまれてずるずると引き戻されていく元気な少年を、将臣は笑
顔で見送った。
「俺が戻ってきた時、どのくらい成長しているのやら。…楽しみな子だな」
|