翌月になると、将臣の交神の立会いのために家事を切り盛りするイツ花が不在になって、日下部家の中は更に騒々
しくなった。飛炎がやらかしたやんちゃの後始末をする者がいないからである。
「もぉっ!飛炎!!お洗濯物落っことしたのあんたでしょ!折角洗ったのにー!!」
「わざとじゃねえよ。蹴りの練習してたら近くの竿が引っかかったんだって。怒んなよーっ」
「わざとじゃなかったら何してもいいわけないでしょ!!待ちなさーい!」
狭穂が飛炎を叱り飛ばす声がする。飛炎を捕まえた残月が何事か諌めているようだが、当の本人は全く聞く気はな
さそうだ。鈴葉は小さく笑うと、次第に体に纏わりつき始めている倦怠感を振り払うように立ち上がった。
「やれやれ。元気がいいのは感心なことだけどね」
その後落っこちた当主の雷と拳固は、狭穂や残月では到底出せそうにない迫力なのであった。
「…さて」
はたかれた頭をさすりながら不貞腐れている息子を庭に引っ張り出すと、鈴葉は軽い調子で言った。
「今月は先月お前に教えたことを一通り繰り返す。あたしは見ていてやるから、お前が自分でやるんだ。戦う術に
関しては、もうあたしが教えることはないからね。手合わせの相手は、残月にやってもらう」
「…え?」
頭から手を離すと、飛炎は拍子抜けしたような顔をした。先月まではあれだけ厳しい指導をしたのに。
今月は見ているだけ?手合わせの相手すら、しないというのか。
まじまじと母を見返したが、その母は何でもないことのように笑っているだけだった。
飛炎は、どことないすわりの悪さを感じて逡巡するように視線を落とすと、足で地面を均した。
――あんたねえ、いい加減にしなさいよ!いつまでもいたずらばっかりして、当主様の気持ちも知らないで…
先ほど。逃げている途中に残月にとっ捕まえられて、追いついた狭穂が今にも泣き出しそうな顔でそんなことを言
った。
彼女がその先何を言おうとしたのか、飛炎には分からない。自分を捕まえていた残月が小さく狭穂、と呟いたら、
狭穂は唇を噛みしめて黙り込むと、そのまま走っていってしまった。
一体何を言おうとしたんだろう。今まで狭穂のあんな顔は見たことがない。いつもだったら、金切り声をあげて自
分を叱り飛ばすはずなのに。
――当主様の気持ちも知らないで。
母の気持ち、とは何なのだろう。飛炎は黙ったまま足裏で地面を均し続けている。
何かがひっかかっている。着物の合わせの向きを間違えたかのような。そんな、違和感があった。
だが、母にその気持ちとやらを直接聞くことは、何となく躊躇われた。
「飛炎。何やってんだい、さっさと始める」
母親の変わることのない威勢のいい声に、飛炎は我に返ると心の中の暗雲を振り払うように稽古を始めた。
今月は、先月のおさらいに加え、術の指南の合間に戦術についての講釈も入った。戦場ではどう振舞わねばならな
いのか。もし仲間が傷ついたらどうするのか。当主として判断すべきことも、それとは知らせずに鈴葉は息子に教え
た。本来じっとしていることが性分ではなく、手習いやその他の学問にはさっぱり興味を示さない飛炎も、術の理や
このような講釈は面白いようで、やはり尋常でない早さで吸収した。
「当主様…くれぐれも、ご無理はなさらないで下さい」
庭で体術の稽古に励む飛炎を眺めている当主に、飛炎との手合わせを終えた残月がそっと声をかける。息子の前で
は努めて何でもない風にしているが、夜になると突如襲われる激痛に耐えていることを残月も狭穂も知っているのだ。
日下部の血に穿たれた呪いが、徐々にこの剛勇で知られた当主をも蝕んできている。自分を心配そうに見つめてい
る切れ長の緑の瞳を見返して、鈴葉は薄く笑った。
「…ああ。分かってるよ」
そう言って再び息子の姿に目を戻す。残月はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、狭穂が飯の支度をしているは
ずだから、少し手伝ってきますと言ってその場を離れた。
今月に入ってからも、飛炎はめきめきと成長していた。残月が鍛錬用の薙刀を手に相手をしているが、その残月も
飛炎の体術の冴えを持て余し始めている節がある。
飛炎が稽古に精を出す様を、鈴葉は金色の瞳でじっと見つめていた。成長著しい息子の一挙手一投足を、目に焼き
付けるように。
飛炎には、日下部一族に呪いがかかっている、ということは伝えてあった。自分たちが朱点童子という鬼に呪いを
かけられていること。呪いのために人との間では子供が生まれないから、飛炎は神である金翔天竜馬との間に生まれ
たこと、髪の色も目の色も都の人とは違うこと。だから、都にはあまり下りてはいけないこと。それは教えた。
だが。飛炎は短命の呪いをまだ知らない。無論、鈴葉に死の影が迫っていることも。幼い息子に、残酷な現実をつ
きつけることにはまだ躊躇いがある。
鈴葉が言わないから、その意図を汲んで残月も言おうとしない。だが狭穂は、何も知らない従弟がやんちゃをして
は、具合の悪い当主の手を煩わせていることに苛立ちを感じているようだ。
そんな狭穂の気持ちが伝わったのか。飛炎のやんちゃもここのところなりを潜め、随分と素直になってきている。
何だか分からないが、母を困らせるようなことをしてはいけない――そんな空気を、子供なりに敏感に感じ取ってい
るのかもしれない。これ以上息子を宙ぶらりんにしておくのは、却って酷だ。
空を見上げると、朝方まで降っていた雨が止んで、青い空に見事な虹がかかっている。
「…そろそろ、頃合なんだろうな…」
ぽつりとそう呟くと、鈴葉は立ち上がった。
「さて。一息つこうか。もうすぐ飯みたいだからね。続きは飯の後」
その声に、飛炎がうん、と心底嬉しそうに歯をむいて笑うと駆け寄ってくる。
「腹減ったー。飯何かな。でも狭穂姉よりイツ花の作る飯の方がずっと美味いんだけどなぁ。早く帰ってこねえか
な、イツ花」
「そんな罰当たりなこと言ったら狭穂に張り倒されるよ。…ああ、ちょっと待ちな」
騒々しく家の中に戻ろうとしていた飛炎が何事かと振り返る。その頬に、鈴葉の指が触れた。
「ほっぺた。汚れてるよ」
雨上がりで、まだ少し庭がぬかるんでいたためだろう。母親の顔で、息子の頬についた土を優しく払ってやる。そ
のまま両手で、飛炎の頬をそっと包み込むようにした。思いがけない仕草に、飛炎は母の掌の中で面食らった顔をす
る。
「な、何だよ」
「…いいや」
小さく笑うと、鈴葉は飛炎から手を離した。
「大きくなったなあ、って思ってね」
「何だよ、今更ー」
照れくさいのか、顔を背けてぶつぶつ言いながら飛炎が足についた泥跳ねを拭き始めた時だった。
――それは、唐突にやってきた。
鈴葉の視界が急激に歪んだ。地面が急に真横に来た、と思ったらどうやら自分が倒れたらしい。肩の方から急激に
熱が喪われていくのが分かった。それでいて、喉から熱いものが這い登ってきて口をこじ開ける。
「…母さん?!母さん、どうしたんだよっ…?!」
遠くで息子の悲鳴に近い声が聞こえた。どうやら揺さぶられているようだが、それも次第に遠のいていく。
意識が、闇に落ちた。
目の前に、床の上に横たわっている母がいる。
金色の豊かな睫毛が影を落とすその頬は、色が抜けたように青白かった。この家に来訪してからずっと、おっかな
くて大きく暖かい存在だった母。こんなに細くて小さかっただろうか、と飛炎はぼんやりとその姿を見つめている。
母が真っ赤な血を吐いて倒れた後。飛炎の悲鳴を聞きつけた残月と狭穂が駆け寄ってきて、ぐったりしている母を
部屋に運んだ。どうしていいか分からなくて、飛炎は目の前で残月と狭穂が床の用意をしたり、水を汲んできたりす
るのを半ば茫然自失で眺めていたのだ。
そうして、鈴葉はまだ目を覚まさない。自分の隣には残月と狭穂がいるが、たまに狭穂が鈴葉の額に乗せた手ぬぐ
いを水に浸して絞りなおす音がする以外、誰も声を発さない。部屋の中はただ、鈴葉の少し不規則な息遣いが聞こえ
るのみだ。
飛炎はまだ一族の死に立ち会ったことがない。だが先ほどの母の様子が尋常ではないことくらいは容易に理解でき
た。
飛炎は関節が白くなるほどきつく、きつく拳を握り締め、唇を噛んだ。このまま母は目を覚まさないのではないだ
ろうか。そんな昏い不安が腹の中からじわりじわりと這い登ってきて、息が苦しかった。
「…残月兄」
重苦しい沈黙を破ったのは飛炎だった。無言で自分を見返してくる残月に、母から視線を戻すことなく飛炎はぽつ
りと呟いた。
「母さん…どうしたんだ」
返事はない。残月は口を開きかけたが、何かを躊躇うかのように瞬きをして、結局黙りこくってしまった。
「俺…何がどうなったのか、全然わかんねえよ。残月兄も狭穂姉も、知ってるんだろ。母さん、どうなっちまうん
だよ?」
飛炎は、今度は顔を残月に向けて重ねてそう言った。今まで見せたことのない、縋るような顔をしていた。隣にい
た狭穂も、残月の衣の裾を引張る。言おうよ、と促しているようだった。
「…当主様は」
残月が重い口を再び開きかけた時、気配が動いた。
「……っ」
「――母さん?!母さん、大丈夫か?」
「当主様!」
真っ先にそれに反応したのは飛炎だった。一斉に覗き込まれて、当主はぼんやりと皆を見返す。
「…あれ?ええ…と」
とりあえず容態は落ち着いているようだ。座りなおした残月が、先ほど庭先で倒れられたんですよ、ご気分はいか
がですかと問うと、鈴葉は舌打ちせんばかりの顔でああ、と呟いて額に手を当てる。
「…やっちまった…」
残月と狭穂が、心配そうに自分を見ている。鈴葉は、努めて軽い調子を装って笑いかけた。
「ごめん、手間かけたね。悪いけど、ちょっと話があるから…飛炎と二人にしてもらえるかな」
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