二人が出て行くと、鈴葉はゆっくりと身を起こした。  「母さん、寝てろよ。話なんか寝てたってできるだろ」  「いや。寝たままじゃあどうも落ち着かないからね」  その動きにあわせて、普段は首の後ろでまとめてある髪が肩からこぼれ落ちる。艶やかな蜜色のそれは、ゆるやか に癖がついていて臍の少し上あたりまで長さがあった。  こんな時なのに、母さんって随分髪の毛長かったんだ、と飛炎は思った。  自分は母のことを何も知らない。  ――これから何の話があるっていうんだ。  飛炎は、知らず知らずのうちに拳を握り締めていた。  「…こないだ、お前には呪いのことについて言ったね。この家には朱点童子って鬼がかけた呪いが根を下ろしてる。 だから神様の力がないと、あたしたちは血を繋いでいけない。お前の父様が人じゃなくて神様なのも、そのためだ」  そこまで言うと、鈴葉は目を伏せて、呼吸を整えるように深く息をついた。  「だが。この呪いには、続きがある。今言った種の根絶ともう一つ…それは、短命の呪いだ。あたしたちは、並の 人よりもずっと早く大きくなって、ずっと早くに死ぬ」  「死ぬ…って?」  まだ死に立ち会ったことがない飛炎は、躊躇いがちに訪ねる。それは、口にしただけで忌まわしい響きがあるよう に思えた。  「お前は今飯を食ったり寝たり、笑ったりしているだろう。死んだらそれが一切できなくなる。体を動かしている 魂が抜けちまうんだ。だから、抜け殻になった体はもう動かない」  鈴葉はゆっくりと瞬きをし、その大きな金色の瞳で息子を真っ直ぐに見つめる。  「一月を十二回重ねると一年。並の人はその一年を何十回と重ねて生きていく…だけどあたしたちは、お前がここ に来て過ごした一月を二十回…いいや、下手をするとそれよりも短い刻しか過ごせない。…そして」  鈴葉は片手を伸ばして、蒼白になっている息子の頬を慈しむように撫でた。――その手は、ひんやりと冷たかった。  「あたしもじきに、呪いで段々体が動かなくなって…死ぬことになる。呪いの根源を断つ…朱点童子を討たない限 り、うちの者は誰もこの呪いからは逃げることはできない。…これが、短命の呪いだ」  飛炎は呆然と、母の言葉に耳を傾けていた。  ――当主様の気持ちも知らないで。  この間狭穂がそう言ったのは。母の体が悪くなっていることを知っていたからではないのか。今にも泣き出しそう な顔をして、自分を怒鳴りつけていた。  そんなことも知らずに――自分は母に叱られて、口答えをしていた。  母が今月見ているだけと言ったのは。体が動かなくて、激しい稽古ができなかったからか。  母は全くそんな素振りは見せなかった。気づきもしなかった。  ずっとこのままの状態が続くことが、当たり前だと思っていた。  「…どうして」  母の手から逃れるように身を捩ると、飛炎は顔を歪めた。  「どうして今まで…教えてくれなかったんだよ」  「家に来たばかりの子供のお前に、いきなり教えてどうする。…本当は、倒れる前に言うつもりだった。驚いたろ う、済まなかったね」  目を伏せる母に、飛炎は口をへの字にして立ち上がった。  「どうしてだよ!知ってたら俺だって――」  そこから先が続かずに、飛炎はくしゃみを我慢したような顔をすると、身を翻して出て行ってしまった。息子が跳 ね上げていった簾が揺れるのを、鈴葉は何も言わずに哀しげに眺めた。  飛炎が足音も騒々しく当主の部屋から出てきたので、席を外していた残月と狭穂は、驚いたように顔を見合わせた。  「飛炎!どうし――」  残月が声をかけようとしたが、飛炎はそのまま猛然とした勢いで部屋に引っ込んでしまった。その後姿を見送って、 狭穂がぽつりと呟く。  「…聞いたのね、当主様から。お母様がああなったのを見た後だし…大丈夫かな」  「もう少ししたら様子を見に行こう。…今は一人にしておいてやった方がいい」  狭穂の小柄な肩に手を置いた残月の端正な顔にも、やるせなさの色があった。  部屋の中で膝を抱えながら、飛炎はやり場のない苛立ちを覚えていた。  ――知ってたら、俺だって。  先月厳しい稽古をつけられた時は、何度となくもう家出してやる、などと思ったかしれない。だが、それはあくま でも飛炎の負けず嫌いから来た感情にすぎなかった。  きちんとやるべきことができた時には、母はよくできたね、と言ってたくさん褒めてくれたし、飛炎もそういう時 の母が好きだった。  それに、母が優れた拳法家であることは飛炎にもよく分かっていて、照れくさくて口には出せなかったが、母のよ うに強くなりたいとも思っていた。  ――知っていたら。  もっと母が喜んでくれること、褒めてくれることをしたのに。  こんなの、あまりにも急じゃないか。  瞼がじわりと熱くなって目の前が霞む。抱えた膝の間に顔を突っ込んで、それを堪えた。  どうしたらいい。  飛炎は考えをめぐらせた。どうしたら母の命を少しでも永らえさせることができるのだろう。  「…イツ花がいたら、何とかしてくれたかもしれねえのに…」  そう呟いてふと思い出した。先月、台所に入り込んでつまみ食いを試みた挙句、茶碗を一つ二つ割ってしまって、 イツ花にこっぴどく怒られた時のことを。    ――いいですか飛炎様。この箱の中に入っているのはお薬ですから、食べ物みたいに見えても食べちゃ駄目ですか らね。  ――お体が優れない時に飲むものです、もしもの時のものなんですから。  その時は、つまみ食いをしようとしたくせに、俺はそんなに食い意地張ってねえよ、などと口答えしたものだが。  それは正に今のことではないのか。飛炎は弾かれたように立ち上がると、台所に向かった。  「ええ…と」  台所を探しまわると、それは大して苦労もせずに見つかった。しかし、期待に反して箱の中は空っぽで、飛炎を大 いに落胆させることとなった。  「何だよっ、食べちゃ駄目ですからね、なんて言って…何も入ってねえ」  イツ花のことだから、大方なくなっていることを忘れているか、必要になったら買いに行こう、などと思っていた のだろう。  だが今は、そんなことを言っている場合ではない。  「――よし。都、に行けばあるんだよな。たぶん」  イツ花がしばしば、安売りだ何だと言いながら出かけて行くのは都だったはずだ。都には店というものがあって、 そこで色々手に入るのだと。  思いついたら突き進む気性のこの少年が、誰かに同行を求めるわけがなかった。  「当主様…お加減はいかがですか」  入ってきた残月を見て、鈴葉は床の上に横たわったまま、うん、とかすかに頷いた。  「飛炎に…話したんですね」  「…ああ。驚いたろうね…あの子。可哀想なこと…しちまった。そろそろ教えてやらないと、と思ってた矢先だっ た。…莫迦だね…先延ばしにしたって、何が変わるわけでもないのにさ」    ためらいがちに尋ねる残月に、かつて剛勇で名を馳せた当主は天井を見上げたまま、色を失った唇に自嘲的な笑み を浮かべる。その表情が痛々しくて、残月は鈴葉の顔から目をそらした。  「大丈夫ですよ、飛炎も驚いただけでしょうから――」  気休めにすぎないと思いながらも、残月が口を開きかけた時。部屋の簾を遠慮がちに上げて、狭穂が顔を見せた。  「…残月兄さん。ちょっと、いい?」  狭穂の切れ長の瞳がおぼつかなげにきょときょとしている。飯の支度をしていた時の格好のままなので、白い小袖 に濃色の袴という出でたちだが、色白の鼻の頭や小袖のあちこちが汚れている。  何かあったのか。残月は、当主に小さく一礼すると、部屋の外に出た。それを待ちきれなかったかのように、狭穂 が息を殺して囁く。  「大変、飛炎が…いないの。家のどこにも」  「な――」  流石に残月も言葉を失った。声音が大きくなりかけるのを何とか押し留めると、長身を屈めて囁き返す。  「…間違いないか?蔵の中や縁の下に隠れていたりは」  「蔵は見たわ。縁の下も。見えるところは全部見たけれど…どこにもいないの」  「何てことだ…」  残月は顔を歪めると塀の外に目を走らせた。家のどこにもいないということは、答えは一つしかない。  外に出たのだ。  今まで家から出たことのない飛炎にとっては、外は余りにも危険が多すぎる。都の中は自分たちとは違う者ばかり だし、都から離れたところには鬼が出る。  「残月兄さん…どうしよう」  「俺が探しに出る。狭穂は…当主様のお傍についていろ」  「一人じゃ無理よ、どこに行ったのかも分からないのに!」  「当主様をお一人にしたら、余計なご心配をおかけすることになるだろう。いいからお前は家に残れ」  二人が声を押し殺して切羽詰ったやり取りをしていると、背後から声がかかった。  「…どうしたんだい」  文字通り飛び上がらんばかりに驚いて振り向いた二人の視線の先には、夜着姿の当主が腕組みをして立っていた。  「と、当主様。その…何でもありません」  言うに言えず、俯いた狭穂の頭の上から淡々とした声が降ってくる。  「…飛炎のことだね」  「い――いえ。別段、何事もありません。お休みになっていてください、お体に障ります」  極力平静を保とうと努力しながら残月がそう答えると、鈴葉は二人に優しげに微笑んだ。  「ったく。二人とも嘘が下手だね。あの子がどうした。…出て、行ったのかい」  「…いいえ。恐らく蔵かどこかに隠れているんだと思います、探せばすぐに見つかると――」  「家中探したから、狭穂がそんな格好してるんじゃないのかい。…どこに行ったものかね。都か、それとも…別の ところか」  そう言いながら、か細げだった今までとはうって変わった毅然とした態度で踵を返す。  「…当主様?」  残月の声を背中に受けて、鈴葉は当主の顔で振り返った。  「ちょっと待っててくれ、すぐに支度する。まだそう遠くには行っちゃいないだろう」  「――無理です、そのお体では…!」  止めようとする残月を真っ直ぐに見つめる金色の双眸には、有無を言わさない力があった。  「あの子が出て行ったのはあたしの失態だ。子供の面倒を見ない親がどこにいるんだい。悠長に寝てなんかいられ ないよ」     
 


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