「あれ、だな」  都から少し離れた高台にある家からの道を、飛炎は元気よく下って行く。整然と家が並んだ都は、遠目から見ると 人が住んでいるという実感がまるでなく、作り物のように見えた。  ――都には、あたしらとは違う人が大勢住んでいてね。  以前、庭木によじ登って怒られた時。木の上からたくさん家が見えたと言ったら、母はそれが都だと教えてくれた。  ――都の人ってのはうちの者のような目の色、髪の色じゃない。みんな墨で染めたみたいに真っ黒だ。それが当た り前なんだよ。  ――だからね、都には用がない限り行かない方がいいんだ。あそこでは、違うのはあたし達の方だからね。  「…今は用があるんだから、いいんだよな」  そう一人ごちて、空を見上げた。  まだ日は高い。春の香りをまとった大気が、朝方までの雨を吸ってしっとりと柔らかく頬にあたる。  ちょっと行って、帰ってくるだけだ。日が暮れる前には帰れるだろう。日ごろ鍛えている飛炎にとっては、都まで の道のりなど散歩のようなものだった。  しかし都に着いた途端、考えが甘すぎたことを痛感させられた。そもそも、その薬とやらを売っている店がどこに あるかを知らない。買う買わない以前の問題である。今更ながら、何も考えずに出てきてしまったことを悔やんだ。  そして――母から聞いてはいたが、本当に都の人というのは例外なく髪も目も黒い。母や残月の金の髪、将臣や沙 穂の青い髪に見慣れている自分にとっては、むしろ異様な光景だ。急に心細さが腹の底から這い登ってくる。  「…さっさと店探して、買って帰ろう。何でもねえよ」  それを振り払うように、飛炎は努めて元気良く歩き出した。  都の路地は碁盤の目のようだ。同じような道ばかりのように思えて、角をいくつか曲がると今いる位置があっと言 う間に分からなくなる。建物も人の数も自分の想像より遥かに多い上、とにかく都の中は広い。  「何だこれ…こんがらがってきた…」  ひたすらきょろきょろと周囲を見回しながら、でたらめに歩いている。太陽の位置から方角くらいは分かるが、き ちんと帰りに都の外に出られるかどうかも怪しくなってきた。  まずいな、と思い始めた時、飛炎は自身が周囲から見られていることに気が付いた。ちらちらと盗み見たり目を見 張ったりと反応は様々だが、都の人の誰もが、黒い瞳をこちらに向けている。  飛炎はその視線に気づいて顔をしかめた。理由は分かっている。赤い髪も青い瞳も、黒い髪と瞳ばかりの都の中に いれば、恐ろしく目立つ。見られて当然だということくらいは、流石に分かった。母から都の人と自分たちは見た目 が違うのだ、と予め聞いていたのだから、せめて何らかの方法で顔を隠すくらいはするべきだった。本当に何も考え ていなかった自分に内心舌打ちしながら乱暴に歩みを進めていると、囁き交わす声も否応なく耳に入ってくる。  ――あれは日下部の子じゃないか。  ――一人かね?どうしたんだろう。  ――関わらない方がいいよ。文字通り、触らぬ神に祟りなし、ってやつだ。  この頃の日下部家は、武名に加えて都の復興などにも尽力しており、この家の者が鬼ではなく人であること、朱点 童子に呪いをかけられていることについては都にも知れている。  が、およそ人とはかけ離れた容姿と、短命の呪いに縛られて常に死の穢れが付きまとうこの一族を、やはり得体が 知れない、と思っている者が大半であった。関われば呪いがうつる、などという心無い噂もあるくらいである。飛炎 が睨み返すと、皆慌てて目をそらした。  このままでは埒があかない。そうやって、自分をじろじろ見ている連中に道を聞くのが一番手っ取り早かろう。が、 皆飛炎が近づくと潮が引くように退いてしまう。苛立ちを抑えきれずに何度かそれを繰り返した後、引き遅れた愚鈍 そうな男を捕まえて、無理矢理聞き出した。  こんなところからは、さっさと帰りたかった。    ようやく薬屋というところに辿り着き、中に入る。内心恐る恐るだったが、努めてなんでもない風を装った。  「こんちわ」  店の主らしい中年の男と女房らしい女は、入ってきた少年を見て目を丸くした。内心の心細さを押し隠して、飛炎 はぶっきらぼうに用件を口にする。  「薬、っていうの。欲しいんだけど」  その用件を聞いて、男は更に目を丸くして、女房と顔を見合わせた。  「…日下部の子が一人でお使いなんて珍しいな。イツ花ちゃんは?」  普段イツ花が出入りしている店の者は、比較的日下部家に対してまっとうな感情を持っている。と言うのもイツ花 があのような底抜けに明るく大雑把、ざっくばらんな気性であり、そうそうこの間当主様がね、などと家で起こった ことなどを、聞かれてもいないのに面白おかしくぺらぺらとしゃべっていくためだ。日下部家の者が、見た目こそ違 うものの、普通の人と同じように泣いたり笑ったり、飯の好き嫌いをして怒られたりおねしょをして拳固を食らった りするということを、イツ花を通じて多少は聞きかじっている。だから、得体が知れないとか薄気味悪い、という感 情が全くないと言えば嘘になるが、どこか同情のような気持ちがある。  イツ花、と聞いて、飛炎は決まりが悪そうに下唇をつきだして俯いた。  「…イツ花は。今…留守にしてる」  「何が入用だね」  ええと、と飛炎は口ごもった。  「…母さんの…具合が悪いんだ。それがよくなるやつ、ねえかな」  とりとめのない返事に、女房の方がふと気が付いたように尋ねる。  「…あんた、お金は持ってるの?」  「――あ」  すっかり忘れていた。飛炎は顔をしかめると、口の中で小さく舌打ちする。ものを買うには金が要るのだ。  「忘…れた」  「じゃあ今度イツ花ちゃんが来た時に一緒に貰っておくよ」  「ええと…それは」  飛炎は再び口ごもって視線を落とした。家に自分の自由になる金などない。今買い物をするならば、この女が言う 方法しかないのだろうが、それでは体裁が悪い。  どうにも様子がおかしい。恐らく家の者に黙って出てきたのだろう、と薬屋の夫婦は踏んだ。男が重ねて尋ねる。  「母ちゃんは、怪我でもしたのかい」  「ううん。急に…具合が悪くなった」  「母ちゃんの名前は?」  「…紫苑」  紫苑、というのは日下部家において当主が代々襲名する初代の名である。日下部家八代目当主の幼名は鈴葉だが、 現在の名は紫苑だった。それを聞いて、男は女房と再び顔を見合わせた。  「あそこの当主の子供か…もうだいぶ年…なのか、あの家では」  男はそうため息をつくと、燃え立つ焔のような赤い髪の少年をまじまじと見詰めた。  「なあ坊主。お前の母ちゃんは、たぶん薬を飲んでも良くはならないよ」  その言葉に、飛炎は弾かれたように顔を上げる。  「何で…!」  「俺も詳しいことは知らんけどな。お前さんたちにかかってる呪いってやつは、怪我や病気じゃないんだから…薬 では治せないんだよ。苦しいのを多少和らげることくらいはできるがね」  ――うちの者は誰もこの呪いからは逃げることはできない。  先ほど、母から聞かされた言葉が過ぎった。  母は、呪いで身体が弱っていると言った。それは薬ではだめだって?飛炎は目の前が暗くなる思いだった。  ようやくここまで辿り着いたのに、何もならないと言うのか。  折角だから、死ぬ前の苦痛を和らげるものをいくつか持たせてやろうと、男が口を開きかけた時。呼び止める間も なく、飛炎は外へ飛び出して行ってしまった。  「……あんた」  「店を頼むぞ。…日下部に知らせて来るわ。多分家の方じゃ大騒ぎだ」  当惑した表情で自分を見つめる女房にそう言うと、男はやれやれと息をついて立ち上がる。今しがた少年が出て行 った後を気の毒そうに見つめ、ぽつりと呟いた。  「…大方母ちゃんが心配で、思いつくままに来ちまったんだろうな。教えない方が、よかったな」   
 


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