店を飛び出した飛炎は、大股で歩きながらやるせなさと腹立たしさを隠しきれなかった。ここまで来たのだから、 このまま手ぶらで帰りたくはない。だが、どうすればよいのか分からない。  呪いで弱った身体はどうやっても元には戻せないという。  母がこのまま弱っていくのを、黙って見ていろというのか。自分には何も出来ないのか。  ――畜生。  俯きながらでたらめに歩いていたが、ふと周りの様子が随分と寂しくなってきていることに気が付いた。ぼろに包 まって道端に蹲っている者、やせ衰えて身を寄せあっている子供。生きているのか死んでいるのか分からない、寝転 んだままの老人。  「…あれ。ここ…どこだろ」  周囲を見回すと、ここでも皆自分を見ていた。飢えた獣のような目、目、目。  ――あれは、日下部の子じゃないかい。  ――鬼つきの家だって言うじゃないか。  ――構うもんか。何か持ってないか。恵んでくれないか。  ――いい着物を着てる、あれは売ったら金にならないか。  先ほどとは全く性質の違う視線が全身に突き刺さる。本能的にここは危険な場所だ、と悟り、飛炎が帰り道を探そ うと身を翻した時。  下から袴の裾を引張られた。見下ろすと、髑髏に土気色の皮を被せただけのような容貌の女が、足元に這いよって 袴の裾を掴んでいた。老婆なのか、若いのか。それすらも分からない。頭髪の半分は抜け落ちていて、地肌が見えて いた。思わず後じさった飛炎を、女は黄色く濁った両眼で見上げている。  「助けておくれ」  女はしわがれた声で言った。口の中には、歯はほとんど残っていない。  飛炎は女の手を振り解こうとしたが、袴を掴んでいる骨ばった指は、驚くほど力強く、容易に振り払うことができ なかった。  「あんたは、日下部の子なんだろう。神様がついてる子なんだろう。助けておくれよ、苦しいんだよ。神様の子な ら、治してくれるんだろう」  「な――何だよっ!俺はそんなんじゃねえよ!」  袴から更に這い登ろうとする手をようよう振り払うと、飛炎は駆け出した。  早く。早く、戻らないと――  逃げるように闇雲に走っていた目の前に、ぬっと立ちはだかった影がある。飛炎は何事かと足を止めた。  男が三人。一人は巨躯である。まだ少年である飛炎の身の丈は、その腰ほどまでしかない。太っているわけではな いが、横にも広いのでさながら壁のようだ。もう一人は背中の曲がった小男、さらに一人は中肉中背の片目の男で、 皆いずれも腰に短刀をぶら下げていた。絵に描いたような悪人面の男たちであるが、飛炎はそんなことは知る由もな い。  ――何だこいつら、邪魔だな。  早くここから出て行きたいのに、目の前に三人も突っ立っていられたら通れない。退けと言おうかと思った矢先、 巨躯の男がにやにや笑いながら口を開いた。  「よお、日下部の御曹司。一人でお散歩かい」  巨躯の男の横から、小男が戸惑ったように囁いた。  「おい、日下部っていったらあの鬼つきの家だろう…そんなとこの餓鬼を攫った日にゃ、どんな祟りがあるか」  こんなところで、自分に親しげに話しかけてくれる者がいることに一瞬安堵感を覚えた飛炎だったが、祟り、と聞 いて顔をゆがめた。  ――一体自分たちは、都でどんな風に思われているんだ。  いかにも小心者といった風体の小男に、片目の男が莫迦野郎、と怒鳴りつけた。  「祟りなんか気にしてやってられるか。日下部の家なら、こいつと引き換えにたんまりと金目のものをはずんでく れるだろうよ。何てったって、筆頭討伐隊を出すお家柄だ」  全くだ、と巨躯の男が地を揺るがすような大声で、腹を震わせて笑う。  なるほど、と飛炎は目を細めて腰を低く落とした。飛炎は勉学の類にはとんと興味がないが、思考のまわりは同年 代の子供に比べて恐ろしく速い。すぐに状況が飲み込めた。  こいつらは自分を攫って家を脅し、金目のものを出させようという魂胆なのだろう。随分と軽く見られたものだ。 一瞬でもほっとしてしまった自分に腹が立った。  「…ふざけんな」  神だの、鬼つきだの、祟りだのと。好き勝手に言いやがって。  自分たちは断じて、そんな得体の知れない存在ではない。自分だけならまだしも、母や将臣、残月、狭穂たちもそ のような目で見られていると言うことが、何よりも許せなかった。  そちらがそう言うつもりなら、遠慮する必要などなかろう。  次の瞬間、飛炎が動いた。あっという間に小男の目の前まで間合いを詰めると、手刀を叩き込む。小男があっさり と地面に崩れ落ちるのを見て、残りの二人は色めきたった。武勇に名高い家の者とはいえ、まだ子供だと高をくくっ ていたのである。  しかしその子供が、下手な武人よりもよほど腕が立つことにようやく気づいたらしい。  「な――?!」  慌てたように腰の短刀を抜き放って切りかかってくるが、日下部家現当主を相手に鍛錬していた飛炎にとっては随 分とお粗末なものだった。動きに無駄が多すぎるし、大体母に比べて呆れるほど遅い。見掛け倒しもいいところだ。  ちょろい奴等だ、と思った瞬間、油断が生じた。  朝方の雨でぬかるみが残っていた地面に足を取られ、体勢が崩れたのだ。  「っ――」  「この餓鬼!!」  それを見逃さず、巨躯の男に捕まえられてしまった。後ろから、丸太のような腕に両腕をがっしりと抱え込まれて 身動きが取れない。  「このっ!離せ!離せよ!!」  しまった、と飛炎は内心舌打ちした。脚が完全に地面から浮いて、男の胸の前で宙吊りのような状態になってしま っている。この体格差を跳ね除けるのは容易ではない。  「ったく、梃子摺らせやがって。おい、起きろ――」  片目の男が、伸びている小男に近寄ろうとした時。よく通る女の声が、鋭くそれを遮った。  「――うちの子に何か用かい」  振り返った男たちの目に映ったのは、白い小袖に緋の袴といういでたちの女だった。首の後ろで結んだ蜜色の長い 髪と大きな瞳、額に輝く翡翠のような印。日下部家の者であることは疑いない。  そして、金の髪をした日下部家の女といえば、今現在彼らは一人しか知らない。男たちに動揺が走った。  「お、おい。まずいぞ、あの髪の色、まさか――」  「く…日下部の」  現当主。  去年夏の選考会で、強力自慢だった金太郎本舗の巨漢の大将を、金の髪の女当主が素手で難なく捻り倒した、とい う話は都で語り草になった。  その当主が――今正に目の前にいる。  「ど…どうする」  「どうするったって。この餓鬼がこっちの手の中にある以上、あいつには手出しできねえんだ。うろたえるんじゃ ねえ」  切羽詰った声で囁き交わす男たちを尻目に、仏頂面の当主の口から出てきた第一声は、全く予想外のものだった。  「この莫迦」  飛炎を含め、その場にいた全員が呆気に取られたのも無理はない。が、鈴葉は不機嫌極まりない顔で更に続けた。  「見てたよ。油断するからそんな木偶にとっ捕まったりするんだ。そいつらが鬼だったら、お前の首は今頃身体と 泣き別れだよ。相手がどんなにへぼでも甘く見るな、ってあれほど口を酸っぱくして言っただろうが。何だそのざま は、みっともない」  こんな状況だというのに、悪党どもを完全に無視して息子に小言を言っている。男たちと一緒になって呆気に取ら れていた飛炎だったが、ようやくそれに気づいて悪態をついた。  「…何だよっ、見てたんだったら助けてくれたっていいだろ!」  「世の中そんなに甘かないんだよ。蓑虫みたいにそんなとこにぶら下がって、文句言える立場じゃないだろ」  母の冷ややかな指摘に、飛炎は二の句が継げずに顔を真っ赤にした。  「お…俺だって好きでぶら下がってんじゃねえよ!」  「言いたいことは、そこから逃れてから聞いてやるよ」  二人が勝手に親子喧嘩を始めた段階になって、ようやく悪党どもも我に返った。  「おいてめえ!何をごちゃごちゃ言ってやがる、木偶だのへぼだのと好き勝手言いやがって」  精一杯気を取り直して、巨躯の男が腕の中に捕まえた飛炎を示す。  「動くなよ、こいつの命が惜しかったらな」  お定まりの台詞を吐きながら、飛炎の喉元に片目の男が短刀をつきつけた。当の飛炎はといえば、今の状況が自分 でも不甲斐ないことは分かっているので、怖がるどころか不貞腐れたような顔をしてそっぽを向いている。そして、 男たちに対する鈴葉の返答は。  「…それがどうした」  またしても予想外の反応に、再び男たちは呆気に取られてしまった。  「どうした、じゃねえだろ!餓鬼の命が惜しくねえのか」  凄みをきかせて脅したはずなのに、眼前の当主は眉一つ動かさない。  「たかが子供一人捕まえたくらいで、いい気になるんじゃないよ。命が惜しいんなら、さっさとその子を離すこと だね」  脅されている立場のはずが、当主の口から飛び出てきた台詞は全く逆だった。ゆっくりと閉じたその拳が、小さく ぽきりという音を発する。  「鍛錬以外で人を相手にするのは久しぶりだ。手加減してやれるかどうか…分からないよ」  その声が低く鋭く、大きな金色の瞳がゆっくりと半眼になった途端。  全身の毛穴という毛穴に突き刺さるような強烈な殺気が迸った。  「…う、おっ?!」  それを受け止めきれず、男たちは思わず小さな呻き声を発した。  鈴葉とはまだ間合いが十分にある。手の中には飛炎もおり、立場としては男たちの方が明らかに優位のはずだ。な のに、その身を焼き焦がすような殺気にあてられただけで額を脂汗がつたわり、必死で押さえ込まなければ膝や手が 震え出しそうだ。自分よりも遥かに強大な存在に出会った時の、生き物としての本能的な恐怖が体を支配し始めてい る。  人質にされているはずの飛炎も、完全に気圧されていた。母から受けた稽古は厳しいものであったが、あくまでも 厳しいというだけである。  こんな険しい殺気を孕んだ母は、今までに見たことがない。  「う――動くなって言ってんだろ!ちょっとでも動きやがったらこいつを――」  恐怖に耐え切れず、片目の男が悲鳴に近い声を出した時。    ふ、と風が揺らいだ。    鈴葉の姿が消えた――誰もがそう思った瞬間。  目の前で緋色が翻った。それが鈴葉がはいていた袴の色だ、と認識した時には、彼女の放った蹴りで片目の男の短 刀は見事に手を離れている。短刀はくるくると回りながら、放物線を描いて飛んだ。  鈴葉は既に次の体勢にうつっていた。片目の男の手を取って、軽々と投げを放つ。あまりの速さに、何の抵抗もで きず男は投げられるがままに宙を舞った。  「な――」  その様を目の当たりにした巨躯の男の腕が、驚きのあまりわずかに緩んだ。  「飛炎!」  投げた体勢のまま発せられた母の鋭い呼びかけに、反射的に飛炎の身体が反応した。男の手を振り解き、地面を転 がって体勢を整えながら間合いを開いた。  投げられて背中からまともに落っこちた片目の男は、息ができずに地面に寝転がったまま悶えている。残ったのは 巨躯の男だけだった。  目の前で冷ややかに自分を見つめる女は、女にしては長身の部類に入るだろうが、体格で比較すれば自分の方が圧 倒的に勝っているのだ。なのに脚が動かない。蛇に睨まれた蛙のごとしである。蛇どころか、巨大な虎のような威圧 感をこの女からひしひしと感じる。虎が少し前足を動かせば、その鋭い爪で自分の首などあっさりと飛んでしまう―― そんな恐怖が喉を締め付けてきて、息ができない。  このまま引き下がるわけにはいかない、というのは理性の声だが、もう駄目だ、逃げろ、と本能が悲鳴を上げ続け ている。  鈴葉は足元で苦悶している男を爪先で小突くと、事も無げに言い放った。  「この程度で済んだこいつは運がいいよ。あたしの本業は投げじゃないからね…この子が戻ってきたならもう用は ない。帰るよ、飛炎」  そう言って、鈴葉はさっさと踵を返す。圧倒されていた飛炎が我に返ったようにあ、うんと呟いて後を追おうとし た時。  「てっ…てめえ!こんなことをして、ただで済むと思ってやがるのか…!」  巨躯の男が、恐怖をなんとか振り払って精一杯の負け惜しみをその背に投げつけた。つと、鈴葉の歩みが止まる。  足元に、先ほど蹴り飛ばした短刀が刺さっていた。その柄を蹴り上げると、短刀は地面から抜けてくるくると宙を 舞う。回りながら落ちてくるところを、鈴葉は振り向きざまに男に向かって蹴った。  尋常ではない速さで蹴り飛ばされた短刀は、刃を向けたまま真っ直ぐに巨躯の男に向かって飛ぶ。それは男の頬を かすめ、背後の木に勢いよく突き刺さって止まった。  びぃいいいいんと突き刺さった刃が震える音が微かに響く中、男は、あんぐりと口を半開きにしたままだらしなく 座り込んでしまった。そこへ、つかつかと鈴葉が歩み寄る。  「――ただで済む?人の大事な一粒種をかっ攫おうとしたくせに、よく言えたもんだね」  金色の双眸が、抜き身の刃のような鋭い光を帯びた。  「そんなにただで済まされたくないなら、その無駄にでかいどてっ腹に一発お見舞いしてやろうか?あたしの殴打 を食らったら、口から臓が飛び出るよ。自分の臓がどんな味か。今ここで試してみるか」  男を見下ろす鈴葉は、特に怒りの形相をしているわけではない。だが、淡々とした表情には、鬼神に睨まれたよう な迫力があった。男は口を半開きにしたまま、射竦められたように固まっている。その股のあたりがじんわりと濡れ てきた。どうやら恐怖のあまり失禁してしまったらしい。  飛炎も呆然と、母を見ている。  ――すげえ。  恐ろしい、ではなく素直に凄い、と思った。かつて母が剛勇で知られた拳法家であるということは知っていたし、 稽古でも母が強いのだということは十分に認識している。だが。  これが――鬼と戦う一族の当主なのだ。  飛炎は、胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。  「飛炎。帰るよ」  そんな息子を尻目に、鈴葉は再び踵を返してすたすたと歩き出す。飛炎も慌てて母の後を追った。   
 


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