「この莫迦」  誰も追って来ないこと、周囲が危険な場所でなくなったことを確認してから、鈴葉は自分の右側を歩く息子の赤い 頭に拳固を見舞った。ぶたれた飛炎の方も、自分に非があることはいやと言うほど分かっているので、頭をさすりな がらばつの悪そうな顔をした。  「何で都なんかに来たんだ。黙って出てきたら、みんなが心配することくらい分かるだろう。残月も狭穂も、まだ 駆けずり回ってお前を探してるはずだよ」  そんなことを言われては、こちらとしては謝るしかない。  「…ごめん」  ったく、と自分を見下ろす母の顔は、もう先ほどのような険しいものではなく、安堵の色があった。  「謝る以外に言うことがあるだろう。何で、って聞いてんだよ」  「……」  それは確かにそうだと飛炎も思うのだが、言うに言えない。俯いたまま黙りこくっている息子を見やりながら、鈴 葉は鼻から大きく息を吐き出した。  「お前を追っかけてみんなで家を出たらね。丁度薬屋と会ったんだよ。お前が店に来た、って。お前の様子がおか しかったから、ってうちに知らせに来てくれるところだったんだよ」  それを聞いて、飛炎は観念したように拳を握り締めると、ぽつりと呟いた。  「買い物」  「買い物?大体お前、金なんか持ってないだろう」  訝しげに金色の瞳を瞬かせた母から、飛炎は目をそらした。  「…体、悪い時に。薬…飲むんだ、って。イツ花から聞いたこと…あったから」  ぼそぼそと呟くような息子の返事に、鈴葉は驚いたように目を見開く。一瞬、泣き出しそうな表情がその顔を過ぎ ったが、すぐにそれは微笑みに変わった。  「あたしに飲ませる…薬を買いに行こう、って。そう思ったのかい」  「……うん」  「莫迦だねえ、この子は」  口とは裏腹に、鈴葉は歩きながら傍らの息子の頭を優しく抱き寄せた。母の胸に顔を押し付けられる格好になって、 飛炎は目の端から湧き出してくる涙を誤魔化すように、しきりに瞬きしながら話題をそらした。  「母さん…よく、俺がここにいるって分かったな」  「そりゃあお前。赤い頭をした子供なんか他に誰がいるんだい。人に聞けば分かるさ。三人で手分けして、たまた まあたしが先に見つけたってだけだよ」  確かにそうだ、と飛炎は母の腕と胸に挟まれた格好のまま納得した。  「見てた、って言ってたよな。俺があいつらにからまれたところから見てたのか?」  「いや」  そう言って鈴葉はしれっとした顔で息子から手を離した。  「もっと前からだね。暫く後ろをつけてた。そんな都合よくお前の危ない時に現れるわけないだろ」  「…何だよ、見つけたんなら声かけてくれたっていいじゃねえか。そしたら、あんなやつらの相手することなかっ たのに」  元々は自分が悪いくせに、飛炎は憮然とした顔で下唇を突き出した。そんな息子に、鈴葉は金色の瞳をわずかに細 めてぽつりと言った。  「自分で…見た方がいいと思ったからね。都が、どんなところか。あたしたちがどう思われてるか。いずれお前を 連れて行ってやろうと思ってたところだったしね」  どう――思われているか。  都人の視線を思い出して、飛炎は再び俯いた。それはもう骨身に染みている。唇を噛んで黙り込んでしまった息子 の焔のように赤い髪を、鈴葉は優しく撫でた。  「でもね。忘れちゃいけないのは、都のやつらが必ずしもあたしたちを悪く思ってるのばっかりじゃない、ってこ とだ。聞きかじった話だけで遠巻きにしようとするやつ、利用しようとするやつもいれば、きちんと話の分かるやつ もいる。薬屋は心配してたよ。わざわざ、うちまで知らせに来てくれようとしてたんだからね」  確かに、あそこの夫婦は他の連中よりも親切に応対してくれた。飛炎は俯いたまま、口の中で小さくうん、と答え た。  「帰りにちょっと寄ってお礼を言わないといけないね。うちの莫迦息子が見つかったよ、って」  そう言って鈴葉はいたずらっぽく笑った。  「お前が実際の戦でどう戦えるか、この目で見られたのは収穫だったね。いいかい、首と胴が泣き別れになりたく ないなら、ちょろい相手でもけして油断するな。鬼はさっきの連中みたいに、遊びみたいなことはしてくれないよ」  「…分かってるよぉ」  それについては、自分でも心の底から失態だと思っている。混ぜっ返して欲しくないので、飛炎は決まりが悪そう にそっぽを向いた。  「飛炎。強くおなり。あたしたちは確かに呪いに縛られた身だ。だけど――それをけして嘆いたり、恥じたりしち ゃいけない。そんなことしたって、命が延びるわけじゃない。あたしたちに呪いをかけた朱点童子は、そうやってあ たしたちが悩んだり嘆いたりしてるのを眺めて喜んでるんだよ」  見上げると、母はどこか遠くを見るような目をしていた。  「呪いなんか笑い飛ばしてやれ。呪いの根源を喜ばせてやるようなこと、みすみすするんじゃない。それにあたし たちは、何も悪いことはしちゃいないんだ。胸を張りな。都の連中が何言ったって気にすることはない」  日はとうに傾いていた。夕陽に照らされて赤金色に輝く髪に縁取られた母の顔は、毅然とした自信に満ちていて、 今まで見たことがないくらいに綺麗だった。何だか眩しいようなくすぐったいような気持ちになって、飛炎は頬をか きながらうん、と答えた。  都の中を歩いていれば、昼間飛炎が晒されたような視線が再び二人に集まってくる。が、飛炎はもう心細くも、厭 でもなかった。俯かず真っ直ぐに前を見て、母の隣で堂々と歩いた。  「すっかり日が傾いちまった。残月と狭穂とは日暮れに落ち合うことになってる。あの子たちにもきちんと謝るん だよ」  「…うん」  自分が悪いのは重々承知の上だが、また狭穂は金切り声を上げるんだろうな、と思うと少しだけ気が重くなった。  「ね、飛炎」  「…うん?」  何事かと見返すと、母は微笑んで右の手を差し出した。  「手。繋いで帰ろうか」  思いがけない物言いに、飛炎は面食らった顔をした。くるくると忙しく表情を変えた後、ふいと横を向いてしまう。  「…そんなの。餓鬼じゃねえんだからできるかよ」  そう言う息子の気性はお見通しだ。声変わりもしてないくせに、と思いつつ、鈴葉はくすりと笑って手を引っ込め た。  「冗談だよ。言ってみただけ」  その鈴葉の前に、ぬっと伸びてきた手がある。  「…残月兄と狭穂姉に会うまでだぞ」  そっぽを向いたまま、飛炎が手を差し出していた。一瞬鈴葉は泣き笑いのような顔をしたが、その手をそっと握っ た。母の手は、ひやりと冷たかった。  「母さん…体、大丈夫なのか。あんな大立ち回りしちまって」  息子の深刻な問いに、鈴葉は肩をすくめて笑った。  「お前がいなくなった、なんて聞いたら、そんなもんどっかに行っちまったよ」  「…ごめん」  母の体を良くしたくてやったことなのに、結果的にはその母に無理をさせてしまった。不甲斐ないどころの話では ない。大失態である。唇を噛んで俯く息子に、鈴葉はいいんだよ、と笑った。  「お前が無事だったんだから何よりだ。あたしのことを思ってしてくれたことなんだしね」  「…薬屋が言ってた。呪いは、薬じゃあ消えないんだって…」  繋いでいる息子の手の握る力が、わずかに強くなったようだった。それを握り返しながら、鈴葉は努めてなんでも ないことのように答える。  「そうだよ。呪いは必ず、この家の者を二年に満たない間に死に至らしめる。言ったろう、根源を断たなければ… この呪いは消えないんだ」  次の言葉を発するのを、飛炎は一瞬ためらった。だが、聞かねばならない、と思った。自分を穏やかに見つめる秋 の稲穂色をした母の瞳を、深淵の色の瞳で見返しながら、ぽつりと尋ねた。  「…母さんも、か」  「そうだよ。あたしの命は今月限り。これは、何をどうやったって延ばせるもんじゃない」  軽い調子で答えながら、鈴葉は眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった息子に笑いかける。  「こら。そんなしけた面するんじゃない。言ったろう、呪いがかかってることを嘆くな、って。嘆いて命が延びる わけじゃないんだ。嘆くくらいなら笑って過ごしな。いいね」  うん、と声だけは元気よく返事をした息子の眉間には相変わらず皺が寄っていて、口はへの字だった。それが何だ かおかしくて、鈴葉は小さく笑った。  「あたしが死んだって、お前一人になるわけじゃないんだよ。家には将臣も残月も狭穂も、イツ花だっているんだ から」  更に元気付けるように鈴葉がそう言った時。  「母さん。俺…当主になりたい」  全く思いがけない言葉が息子の口から飛び出てきたので、今度は鈴葉が面食らう番だった。えっ、と小さく口の中 で声をあげたが、すぐにそれは微笑みに変わる。  「どうして…当主になりたいんだい」  「早く…こんな呪い、解いちまいたいから」  そういう息子は、顔は大真面目だが、優しく諭すように語り掛ける鈴葉の方を見ようとはしない。その様子に、こ の子の返事の裏には別の真意が隠されているな、と鈴葉は察した。息子の気性から考えて、大方照れくさくて面と向 かって言えないようなことなのだろう。  「当主になるってことは…一族全員を背負うってことだ。当主の判断にみんなの命がかかってくる。生半可な覚悟 じゃできないよ」  「…うん。分かってる」  鈴葉は優しい目で、そっぽを向いている息子を見やった。  「そうだね。このまま頑張って鍛錬を続けたら、将来日下部を率いる当主になれるかもしれないよ」  「今じゃ、駄目か」  「…え?」  再び鈴葉は面食らった。流石に驚きを隠しきれず、金色の大きな双眸でまじまじと初陣前の息子を見つめる。今度 は目をそらすことなく自分を真っ直ぐに見返す息子の表情は、どこか決然としたものがあった。  「俺は…母さんから、当主を引き継ぎたいんだ」  握っている母の右の中指には、硬質な感触がある。それは日下部家当主である証。当主の指輪だ。  呪いを解き放ちたいという思いは勿論ある。だが先ほど見せた鈴葉の日下部家当主としての片鱗が、飛炎の目に鮮 烈に焼きついていた。  呪いと向き合って生きるのなら。母のような当主として生きたいと思った。だから母から当主を引き継ぎたい。間 に誰かを挟んでは意味がない。  しかしそんなことは、照れくさくて口が裂けても言えなかった。  息子の迷いのない瞳から目をそらすように、鈴葉は夕暮れの空を見上げる。茜色に染まった雲が、ゆっくりと流れ ていた。  「…そうだね。お前の気持ちはよく分かった。考えとくよ」  彼の持つ才は確かに歴代の当主はもとより、今家の中にいる者の誰よりも抜きん出ているだろう、と鈴葉は確信し ている。  だが――飛炎はまだ子供だ。  その飛炎はというと、言いたいことが言えて満足したのか、ここで初めて歯をむき出してにっ、と笑った。  「あー、腹減った」  「…そうだね。帰ったら、みんなで飯の支度でもしようかね」  「うん」  手を繋いだ二つの長い長い影法師が、都の大路に落ちていた。  
 


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