飛炎が都から戻ってから程なくして。鈴葉の体の調子はゆっくりと悪くなっていった。ちょくちょく床の上で過ご すようになったが、庭で息子が鍛錬している時は、必ず簀子に座って眺めている。  近頃の飛炎は、体術の冴えが更に際立っているようだ。毎日何かに憑かれたかのように、一心に稽古に打ち込んで いる。  かと思うと、洗った洗濯物を入れた盥を抱えている狭穂を見かけたりすれば、稽古を中断して「危なっかしいな、 貸せよ」などと言いながら、ひょいと盥を取り上げて干し場へ持って行ったりする。  飛炎の中で、何かが確実に変わっている。鈴葉はそう感じていた。  照りつける日差しに暑さを感じ始めるようになった頃。鍛錬用の薙刀を手に相手を務めていた残月に、飛炎がこん なことを言った。  「残月兄。ちょっと、本気で相手してくれねえかな」  「…本気?」  思いがけない言葉に、残月は薙刀を手にしたまま切れ長の緑の瞳を瞬かせた。残月は飛炎よりも八ヶ月年長である し、鍛錬なのだから手加減はしている。が、たまに手加減しきれない、と思う時が確かにあった。それがここのとこ ろ、目立ってきている。  「今俺がどのくらいできるのか、試してみたいんだ。鬼相手だと思ってやってほしい。俺は避けるから」  「無茶を言うな。鍛錬用のものとはいえ、本気で振り回せば大怪我をするぞ」  そう言いながら、残月は指示を仰ぐように今日も簀子に座って眺めている当主の方を見やった。鈴葉も予想外だっ たらしく、頬杖をついていた手を顔から離してこちらを見ているところだった。  自分を見つめている息子と、目が合った。  見ていて。そう言っているような、真っ直ぐな目だった。その目を見返すと、鈴葉は口元にわずかな笑みを浮かべ た。  「…いいよ。やらせてみな」  「当主様…!」  戸惑う残月に向かって、鈴葉は軽い調子でひらひらと手を振る。  「そいつがただの思いあがりなら勿論止めるところだがね。飛炎は大真面目みたいだよ。やらせてみたらいいじゃ ないか」  飛炎の方を見ると、地面の上で足を動かしたり飛び跳ねたりしている。その気合十分の横顔を見て、残月も覚悟を 決めた。  「…分かった。本当に、手加減はしないからな」  透明さを増した陽光の下で、二つの人影が踊るように動く。眺めている鈴葉は、頬杖をつきかけた手から再び顔を 離してそれに見入った。  残月の薙刀士としての力量はけして低いものではない。日下部家の薙刀の奥義継承者であり、その長身から放たれ る斬撃の鋭さには、鈴葉も一目置いている。だが、風を切り裂きながら変幻の動きを見せる彼の薙刀が、避けに徹し ている飛炎をとらえることができないでいる。  彼がそう宣言したとおり、一切手加減していないにもかかわらず、だ。ここまでとは鈴葉も予想していなかった。  どうやら――息子は本気で当主になるつもりらしい。  「…参ったな」  我知らず、呟きが漏れた。  二人の手合わせは、残月の薙刀が飛炎の体をようやくとらえたところで終わりとなった。飛炎から一寸にも満たな い位置で薙刀をぴたりと止めると、残月は上半身全体を使って大きく息をついた。  「…やっぱ敵わねえや。さすがだなあ」  飛炎は頬をつたう汗を腕でぬぐいながら、屈託のない笑みを浮かべる。残月はやれやれといった顔で当たり前だ、 と呟いた。  「お前と何ヶ月歳が離れてると思ってる。流石にここでお前に負けたりしたら、俺の立つ瀬がない。こういうこと はもう勘弁してくれ、寸止めするのは骨が折れるんだ」  そう言いながらも、抜かれるのはそう遠くないだろうな、と残月は確信していた。このところの飛炎の成長ぶりは どうしたことだろう。日ごとに彼の体術の冴えが増すのが分かる。まじまじとまだ初陣すら迎えていない少年を見つ めたが、当の本人はどこ吹く風といった感じで、あー腹減った、などと言いながら、首を回している。そこへ狙い済 ましたかのように狭穂が現れた。  「御飯、できました」  「あ、丁度よかった。腹減ったー。狭穂姉、いつもありがとな」  そう言いながら元気よく家の中に戻っていく飛炎を見送りながら、狭穂が小首を傾げる。  「飛炎、何だか変わったわ。お洗濯物落としたり、台所に忍び込んでつまみ食いしたりとか、全然しなくなったし。 最近、重いもの持ったりとかしてくれるの」  今正に飛炎の成長の片鱗を見せ付けられた残月は、そうだな、と言って穏やかに笑うだけだった。鈴葉は、二人の そんなやり取りをぼんやりと眺めている。  ――俺は母さんから当主を引き継ぎたいんだ。  息子の言葉が過ぎる。迷いの無い深淵の色の両眼が、射抜くように真っ直ぐに自分を見つめていた。  「…さて。どうしたものかね」  当主は頬杖をつきながら、小さく呟いた。
 


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