交神を終えた将臣と立会いのイツ花が戻ってきたのは、それから程なくしてのことだった。  「将兄、イツ花、お帰り」  出迎えた少年が、二人とも一瞬誰だか分からなかった。  「…飛炎、か?」    将臣からそう言われて、焔のように赤い髪をした少年はやだなあ、と言って笑った。  「他に誰がいるんだよ、そうに決まってんだろ。母さんが、一息ついたら来てくれって言ってたよ」  「飛炎様、随分たくましくなられましたね。先月と全然違いますよぉ」  イツ花も眼鏡の奥で目を丸くしている。そう言われて、飛炎は自分自身に視線を落とした。  「…そうか?背伸びた?」  この時期、特に男の子はよく背が伸びる。飛炎の場合少し遅いようで、この一月で確かに背は伸びたが、二ヶ月目 に差しかかろうかという年頃にしてはむしろ小柄の部類に入る。成長の早い子ならばもう始まっているであろう声変 わりも、飛炎はまだだった。  しかし、将臣とイツ花が違う、と思ったのはそういった外見的なものではない。  「イツ花がいなかったから色々大変だったんだぜ。薪割りとかの力仕事は俺と残月兄がやったけど、炊事の類は大 抵狭穂姉がやってくれた。三人分作るの随分苦労してたみたいだったよ。悪いなあって思っても、俺がうろうろする と却って邪魔って言うんだ。あんな大変そうなこと、全部やっちまうんだからイツ花ってすげえんだな」  そう言って、飛炎は白い歯を見せて屈託なく笑った。稽古があるから、と元気よく歩み去って行く少年の後姿を見 送りながら、将臣とイツ花は顔を見合わせた。  「随分…大人びたな」  「ほんとですね…。あのやんちゃな飛炎様とはまるで別人ですよ。何があったんでしょ」  イツ花は頬に指を当てて小首を傾げたが、将臣は目を伏せるとぽつりと呟いた。  「…当主様に関することかもしれんな」  「え?」  「当主様ご自身が仰っていた。…今月で命が尽きる、と」  その言葉に、イツ花もああ、と呟いて顔を曇らせた。  身支度を整えて将臣が当主の部屋に赴くと、案の定当主は床の上にいた。自分が交神に赴く前よりも少し痩せたよ うだ。が、その場にいたのは鈴葉だけではなかった。残月、狭穂もいる。飛炎は一人庭で鍛錬をしているらしく、た まに降ろされた簾の向こうから威勢のいい声が聞こえてくる。  当主は将臣の姿を認めると、青白い頬にかすかな笑みを浮かべた。  「ああ、交神ご苦労様。呼びつけて済まないね」  「ただ今戻りました」  将臣が座るのを確認してから、鈴葉は話を切り出した。  「話、っていうのはね。次の当主のことだよ」  予め今月で命が尽きる、とは知らされているとはいえ。鬼たちを震撼させた剛勇無双の当主も、例外なく呪いで命 を落とすのか、と将臣はいたたまれない気持ちになった。  「交神に行く前、お前には少し話したね。次の当主は…お前に頼みたい、って」  将臣は黙って頷いた。彼の生真面目で思慮深い気性と、剣士として卓越した力量を知っている残月も狭穂も、異論 はないというように黙ったまま将臣に視線を注いでいる。  「…そう言っておきながら申し訳ないんだけどね。ちょっと…事情が変わってきた」  鈴葉は降りている簾に金色の瞳を向ける。見えはしないが、その向こうでは息子が鍛錬に励んでいるはずだ。  「飛炎がね。当主になりたい、って言うんだよ。大きくなったら、じゃなくて。あたしから当主を引き継ぎたい―― そう言うんだ」  流石にそれは誰も予想していなかったらしく、将臣はもとより残月、狭穂もえっ、と驚きの声を上げた。もし仮に 飛炎が鈴葉から直接当主を引き継ぐというのなら――若干二ヶ月という若さの当主が誕生することになる。過去には、 四ヶ月という若さで当主を引き継いだ者もあったそうだが、初陣すら迎えていない当主、というのは前例の無いこと だ。  「確かに、あの子は当主になれるかもしれない、とは思ってたよ。だから、将臣にあの子のことも含めて後を頼む つもりだったんだ。まっとうに考えれば、初陣も迎えてない子供に当主を引き継がせる、なんてのは莫迦な話だろう。 だけど最近の飛炎を見ていると、この子ならもしかしたらできるかもしれない…なんて思っちまうんだよ」  そう言って、鈴葉は母親の顔で笑った。  それでか、と将臣は得心がいった。そんな決意を秘めていたから――随分と飛炎が大人びて見えたのだ。  「だからね、お前たちを呼んだんだ。あたしはあの子の母親だ。もしかしたら、親の贔屓目でそう思ってるだけな のかもしれない。お前たちがどう思うか、聞きたいんだ」  鈴葉がそう言った後、部屋の中に沈黙が落ちた。それを破ったのは、残月だった。  「…だから、近頃の飛炎は前にも増して体術が冴えているのですね」  そのことに関しては、身をもって知っている。狭穂も、残月の隣で頷いた。  「すごく落ち着いたな、って思ったけど…そんなこと考えてたんだ、飛炎…。でも、どうして当主になりたいだな んて、言い出したんですか」  二人には、都で何があったかについては話していない。彼らが知っているのは、飛炎が都に行こうとした理由だけ だった。鈴葉は、肩を竦めて小さく笑った。  「都でね。あの子なりに色々見たり聞いたりして…うちにかかってる呪いについて、思うところがあったようだよ」  「私は…異論ありません」  残月はそう言うと、切れ長の双眸で当主を静かに見る。  「飛炎の力量は、じきに私を追い抜くところまで来ている…手合わせしていても、飛炎の並みならぬ気迫にはしば しば圧倒されます。相当な覚悟があるのでしょう」  残月の言葉を受けて、狭穂がくすりと笑った。  「私も賛成です。今じゃあのいたずらばっかりしてた飛炎とは、まるで別人ですから。驚いています。真剣に飛炎 が当主になりたい、って思うのなら。反対する理由なんてありません」  そうか、と鈴葉は呟くと、最後に将臣に視線を向けた。  「将臣は…どう思う」  将臣は居住まいを正したまま、思案するように紺碧の瞳を伏せて少し黙っていたが、やがて口を開いた。  「…確かに、飛炎の歳を考えれば…当主に任じる、というのは性急なことかもしれません。ですが」  そして将臣も、鈴葉がしたように下ろされた簾を見やった。その向こうにいるはずの少年が先ほど見せた、驚くほ ど大人びた微笑が過ぎる。  「私が交神に赴く前から、あの子の持つ才には驚かされていました。戻ってきてから見た飛炎は、それに加えて何 か思い立ったことがあるような落ち着きがある――そのように思えます」  そして、将臣は紺碧の双眸をゆっくりと当主に向ける。  「私も…異論ありません。残月や狭穂の口ぶりからしても、飛炎は本気で当主になることを望んでいるようだ…な らば飛炎が歳若い分、我々が補佐してやればよいことだと思います」  三人の返事を聞いて、鈴葉ははにかんだような笑みを浮かべた。  「……よく分かった。有難う」  それから程なくして。日下部家八代目当主は、一族とイツ花が見守る中で臨終の床を迎えていた。  「…飛炎。手…出しな」  沈痛な顔で枕元に座っていた飛炎は、言われるままに上掛けから弱弱しく出された母の手に、自分の手を差し伸べ る。軽く握られていた鈴葉の拳から、ころりと丸いものが飛炎の掌に転がり落ちた。  当主の指輪。日下部家の――当主の証。今まで当たり前のように、母の指にはまっていたものだった。  「次の当主は…お前だ。いいね…」  掌の中の硬い感触を確かめるように強く握り締めながら、飛炎は口をへの字にしたまま頷いた。その表情に鈴葉は かすかな笑みを浮かべ、膝の上で握り締めている息子の拳を軽く小突く。  「こら。言ったろ…呪いを嘆くんじゃない、って…嘆くよりは、笑って…過ごしな、って。…はめて…ご覧」  母に言われるままに、当主の指輪を右手にはめる。歴代当主が身に付けるものであるが、大きさが変わるわけでは ないから、合う指につけることになる。大抵、男の当主の場合は薬指で丁度いい大きさであったが、それは母と同じ く中指に収まった。まだ少年の息子の手にはまった指輪を見、鈴葉は安心したように微笑んだ。  「みんな…この子を頼んだよ」  そうして、鈴葉は眠るように息を引き取った。  母の死から少し経った後。『紫苑』の名を継いだ飛炎は、イツ花から母の話を少し聞いた。母は元服前の若い頃、 今は閉ざされている大江山に入ったのだと。  そして――呪いの根源である朱点童子そのものと対峙したことがあるのだ、と。  ――飛炎。強くおなり。  ――呪いなんか笑い飛ばしてやれ。呪いの根源を喜ばせてやるようなこと、みすみすするんじゃない。  夕暮れの都大路を歩きながら、どこか遠くを見るような瞳をしていたその横顔を、飛炎は思い出していた。  その日は底抜けに良く晴れていた。初夏を思わせる日差しが差し込む廊下を、日下部家当主がどすどすと威勢のい い足音をさせながら歩いている。  「みんな!出るぞ」  その呼びかけに、薙刀の戦装束に身を包んだ狭穂が現れる。まじまじと眼前の年若い当主の姿を見、くすりと笑っ た。従姉の反応に、笑われた方は憮然とする。  「何だよ狭穂姉。笑うな」  「うん。…ちょっと、装束がまだ大きいなあと思って」  「しょうがねえだろ。イツ花が、この時期はまだまだ伸びますから!ってでかく作っちまったんだから」  未成熟な上半身をあらわにした真新しい拳闘装束は、確かに袴がその体型に比べて少し大きいようだ。自身でも気 に入らないらしく、当主は不満げに下唇を突き出した。  狭穂が笑いながら、じきにそれがぴったりの体になるわよ、と言った時、支度を整えた将臣と残月も姿を見せた。  「あ、来たな。行こうぜ」  勇ましい当主の姿に、将臣も残月も端正な顔に笑みを浮かべた。  「ああ。では、行くか。――紫苑」  将臣の言葉に、『紫苑』となった飛炎は、白い歯を見せて笑った。  「うん。イツ花!出るぞ、後宜しく頼むぜ」  はぁい、と言いながらイツ花がぱたぱたという足音とともにやって来る。そうして、自分の作った少し大きめの装 束に身を包んだ当主の姿を、満足げにうんうんと頷いて眺めた。  「では行ってらっしゃいませ。――当主様、ご出陣っ!」  飛炎は、右手にはまっている当主の指輪に視線を落とした。  日下部家の当主の証。母を含め、歴代の当主の想いがこもったものだ。  ――飛炎。強くおなり。  風の中に混じって、母の声が聞こえた気がした。  「行こう」  指輪をはめた手を強く握り締め、深淵の色をした瞳で、日下部家九代目当主は真っ直ぐに前を見据えた。  ――了―― <あとがき>  『鎖』に登場する飛炎が、何故二ヶ月で当主を継ぐに至ったのか、という話は、かねてより書きたいと思ってまし た。ちょっとした話にするつもりだったのに、終わってみたら30000字超えてる…(笑)。この話で飛炎が初陣に赴き、 戻ってきたところから『鎖』のお話は始まります。  『鎖』では飛炎は早々に元服を迎えているため、彼の外見は均整の取れた長身、と描写されています。しかし一族 の外見的な成長の度合いというのは個人差があるため、このお話の頃の飛炎はゲームの顔グラフィックそのまんまの ような感じです(『鎖』の飛炎の方がグラフィックより大人すぎるんですが(笑))。技量及び精神面の目覚しい成 長に反して、外見的な成長は平均よりもかなり遅め。小柄で声変わりもまだです。環の初陣の頃もまだ声変わりが終 わるか終わらないか、といった感じで、六ヶ月から八ヶ月にかけていきなり背が伸びました(笑)。  一族の子供が都に出て、都では自分達がどう思われているかというのを知る、という点に関しては『落ち葉の散る 頃に』と同じです。が、全体的にほのぼのなあっちと比べると結構重い展開になってます。若干二ヶ月の若年当主誕 生の影には、それなりの理由がないとなーと思っていたらこんな感じになりました。  冒頭に天界でのやり取りを入れたのは、最初は飛炎の父神である金翔天竜馬も話にちょっとからませたいなーと思 っていた名残です。飛炎の母親の鈴葉を主人公にした、大江山越えのお話である『幸』の中では、竜馬は天界から一 途に鈴葉を見守り続けたと言う設定だったので。結局出番を作ることはできませんでしたが、彼は結構思いいれのあ る神様なので、飛炎のやんちゃぶりを示す意味も込めて冒頭のシーンは削らずに敢えてそのまま残しました。  鈴葉はあの飛炎を育てた女性なので、おっかなさでは多分日下部一族の中でもトップクラス、最強の肝っ玉母さん だと思います。しかし冒頭に登場する金翔天竜馬とは相思相愛の仲であり、最愛の男の前ではてんでウブな可愛い女 という側面もあります(笑)。  『鎖』ではあまり出番のなかった残月には、今回結構頑張ってしゃべってもらいました。ほんとは将臣ももっと出 したかったんですが…交神に行っちゃったからしょうがないな(笑)。    
 


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