翌月。日下部家九代目当主は交神の儀に臨んだ。巫女装束姿のイツ花とくたびれた顔の紫苑が戻ってくると、真っ
先にイツ花に飛びついたのは隼斗だった。
「イツ花!俺腹減った!」
開口一番そう宣言すると、待ちきれないと言わんばかりにイツ花の傍らに座り込み、袴を引っ張る。イツ花が儀式
にかかっている間は狭穂や環が家のことをしていたのだが、何分月の多くを討伐に費やす身である。ことに炊事の腕
に関しては、イツ花との差が顕著に現れることとなった。狭穂はまだしも、元々要領があまりよくなく、お世辞にも
器用とは言えない環の作った食事というのは――それはそれは悲惨な出来だったのである。イツ花の作ったものしか
知らない上、食べ盛りの隼斗の我慢は最早限界寸前だった。この少年が、同じ年頃の子供に比べて食べる量が随分と
多い、というのも不幸なことであった。
「分かりました、分かりましたからそんなに引っ張らないで下さい。破れちゃいますよ、隼斗様ったらもう」
袴をぐいぐいと引っ張られ、引っ張られている方向に傾きながらイツ花が苦笑した。あー、と言いながら座り込み、
さも窮屈だったと言わんばかりに着物の襟を緩めているのは紫苑である。
「お疲れ様。何なの、そのくたびれようは」
狭穂が笑いながら小首を傾げる。答える紫苑は、もうたまらんといった表情で舌を出した。
「あんなに長いことじっとしてなきゃならないなんて聞いてねえぞ。危うく寝るとこだった」
その返事に、狭穂は思わず苦笑した。
「お願いだから儀式の最中に寝るのだけは勘弁して。当主が居眠りだなんてお相手に失礼だし、恥さらしもいいと
こじゃないの」
「そう言いたくなるくらい窮屈で退屈だったんだよ。こんなこと言ったらばちがあたりそうだけどさ、もうちょっ
と手短にならないもんかね」
「兄ぃのお相手ってどんなひとなんだ?」
イツ花が着替えるために引っ込んでしまったので、隼斗の標的は紫苑に変更されたようであった。つい今しがたま
で腹減ったと大騒ぎしていたくせに、もうじき初陣という年頃の隼斗は背伸びしたい時期でもあるらしく、こんな大
人びたものの言い方をすることがある。ませた口ききやがって、と紫苑がその額を軽く小突いたが、天真爛漫な少年
は交神に興味津々のようだった。
「吉焼天摩利っていう、火の神様さ。何となく男が生まれそうな気がしたから、芯の強そうな相手にお頼みした。
男は気概だからな」
「大雑把なんだから。生まれてきた子が女の子だったらどうするつもり?」
呆れたように狭穂が言うと、紫苑は自信たっぷりにけらけらと笑った。
「大丈夫!俺の勘は絶対に当たるからな。あの神様だったら、絶対芯の強い男を授けてくれるって」
「勘だけでよくそんな風に言い切れるわねえ」
紫苑と狭穂のやりとりを眺めながら、環は何となしに考えた。
(もし仮に…紫苑の言うとおりに男の子だったとしても)
気性は紫苑の思惑と全く逆で、おとなしい子だったらどうするつもりなんだろう。もしくは、男顔負けの勝気な女
の子だったら。
そう考えると、自信たっぷりの紫苑の様子が何だかおかしくて、環は口元に笑みを浮かべた。
「何だ環。一人でにやにやして」
環の笑みを目ざとく見つけた紫苑が声をかける。知らず知らずのうちに出てしまった笑みだったので、環はあ、と
小さく声をあげて口に手を当てた。
「うん。もし紫苑の思惑が外れて、生まれた男の子が物静かだったり、物凄く勝気な女の子だったらどうするのか
な、って。だって紫苑、芯の強い男の子が来る、って自信満々に言い切ってるんだもの」
花がほころぶように笑って返答する環に、紫苑は一瞬あっけにとられたような顔をし、次いでくるりと後ろを向い
て立ち上がった。
「…何だ、モノオモイの時期は過ぎたのか。女ってのは、ほんとにわけがわかんねえな。イツ花―、俺の着物は」
背を向けたまま不機嫌そうな声を張り上げて、どすどすと大きな足音を立てて遠ざかっていく紫苑を、環は目を瞬
かせて見送った。狭穂が後ろで、くすくす笑う声がする。
狭穂は、紫苑には適当に答えておく、と言っていた。
――物思いの時期、だなんて。
紫苑に変に誤解されなかったかな、と環の頬が少し赤くなった。
その翌月。初陣の隼斗をともなって、一行は九重楼へ討伐に出かけた。隼斗には初陣だの殺し合いだのという気後
れは微塵もないようで、ひゃっほう、と歓声を上げながら大筒から火を放って鬼たちを蹴散らしていた。その様には、
環も狭穂も、紫苑ですらも呆れるしかなかった。
「ったく。初陣って言ったらもっとこう、気後れとか緊張とかするもんじゃねえのか。誰に似たんだ、あいつ」
気後れどころか血気盛んな隼斗は先走ろうとするので、それはそれで気が気ではない。紫苑は討伐先では相変わら
ず手厳しいので、隼斗が無茶をやろうとするたびに鉄拳が飛ぶわけだが、当主の鉄拳を食らっても本人はまるでけろ
りとしている。ある意味、先行きが楽しみではある。
燃え立つ焔のような髪に手を突っ込んで頭をかきながら紫苑が大きく息をつくと、狭穂がすかさず茶々を入れた。
「あら。あんただって最初はそうだったじゃない。自分から突っ込んでは鬼を片っ端から殴り倒して、将臣兄さん
と残月兄さんを呆れさせてたでしょ。粗野で腕白で危ないこと大好きなのが、自分だけじゃなくて良かったじゃない
の」
うっ、とくぐもった呟きを漏らして、紫苑は横目で狭穂を睨んだ。
「だから、昔のことはもう忘れたって言ってるだろ。泣くやつよりましじゃねえか」
「もうっ。いちいち蒸し返さないでっ」
「俺はそれが環だとは一言も言ってないけどな」
「もう、紫苑っ」
「えっ何?環姉、泣いてるのか?」
「違うのっ」
九重楼の六年坂に、一行の笑い声がこだました。今までにはあまりなかったことである。天真爛漫な隼斗が場を和
ませていること、狭穂や成長した環が紫苑をよく補佐していること、何より元服し、交神して、紫苑自身に当主であ
ることへの気負いのようなものがなくなり、落ち着いた貫禄が備わってきたことにもよるのだろう。隼斗の初陣は、
誰も大きな怪我をすることもなく、まずまずの結果となった。
「お帰りなさいませー!」
帰還した一行を、イツ花のいつもどおりの元気のいい声が出迎えた。
「当主様、吉焼天摩利様のもとより御子をお預かりして参りました」
イツ花がにこにこして言うと、紫苑の瞳が輝いた。
「そうか!男だろ」
「ええ。当主様が仰ったとおり、男のお子様です…あれ?今までこちらにいらっしゃったんですけど――」
そう言って、イツ花が家の中を振り返った時。幼児特有の甲高い声が家中に響き渡った。
「イツ花ぁ―、これどこに干すの―?」
ありゃ、とイツ花はつぶやくと、声がした方へ小走りに戻っていった。
「もぉ―、若君っ。お好きなのは分かりますけど、きちんと父君のお帰りをお迎えしなきゃ駄目ですよ。はい、イ
ツ花に渡して下さい」
何事かとイツ花の後を追った一行がたどり着いた先は庭だった。そこには、誰かの着物を抱えている幼い男の子と、
それを渡してもらおうとしているイツ花と――干された洗濯物。
「…へっ?」
皆があっけにとられていると、イツ花にうながされて男の子ははきはきと挨拶した。
「こんにちは!お父さん…だよね?」
男の子は紫苑にそう挨拶したものの、本当に目の前の当主が自分の父親なのか、今ひとつ自信がなかったようで、
イツ花の方を確認するように見る。そうですよ、あの方ですとイツ花に教えられて、男の子は照れているのか、もじ
もじと身体をくねらせてえへへ、と笑った。
芯の強そうな目元やはっきりした眉の形が、紫苑によく似ていた。深淵の色の瞳も、紫苑から受け継いだものなの
だろう。しかし、金色に輝く短髪は柔らかく癖がある様子で、針金のような逆毛を持つ紫苑とは随分と対照的だった。
「…おい、イツ花」
状況が飲み込めず、呆気にとられた顔の紫苑がイツ花に声をかける。イツ花は、はい何でしょう、と苦笑いを浮か
べた。
「何で俺の息子は、こんなとこで洗濯物を抱えてるんだ」
予想通りの指摘に、イツ花は取り上げた着物を手にしたまま首をすくめた。
「えぇ、そのぉ――お掃除やお洗濯がお好きなようで。助かってはいるんですけどぉ…」
無言で眉を跳ね上げた紫苑に、イツ花は顔の前で手を振って慌てて弁解する。
「いえ、あの、あのですね。けして、けしてイツ花が若君にそんなことを押し付けたわけじゃないんですよっ。つ
いでに申し上げますと、芯の強いご気性でとても頼もしい方ですからねっ」
「…頼もしい部分は『ついで』扱いかよ」
苦虫を噛み潰したような顔の紫苑の背後で、環と狭穂がくすくすと笑っている。紫苑はどっかりと簀子に腰を下ろ
し、深く深くため息をついた。当の息子はと言うと、父の様子を見て、不安げにイツ花と紫苑を見比べている。
「お父さん…俺、何か悪いことした?」
「ん。いや…」
そう言って紫苑は庭に下り、息子の小さな頭に乗っている金色の髪をわしわしとかきまわして笑いかけた。
「しょうがねえな、好きなんだもんな」
「うん!大好き!」
元気に返事する息子にふたたびため息をつくと、そうだ名前を考えねえとな、と思い出したように呟いた。
「お前も名なしのままじゃあ困るもんな、戦支度を解いたら考えてやらねえと。ちょっと遊んで待ってろよ」
「お父さん、それ脱ぐの?洗うの?」
「…えっ?」
思いがけないところから息子の熱い視線を感じ、紫苑は素っ頓狂な声を出してたじたじとなった。
「うん。まあ、な」
「じゃあ俺、お父さんの用事が済むまでそれ洗って待ってる。早く脱いで」
「え。ああ…っと――」
環も狭穂も勿論隼斗も、当主として振舞ってきた紫苑がこのようにたじたじとするところを見るのは初めてである。
特に討伐先での紫苑は、どんな鬼が相手だろうがどんな状況だろうが、けして怯むことも動揺することもない。その
紫苑が今たじたじとしている原因が『息子が父親の装束を洗いたがっている』ことである。初めは皆目を丸くして父
子の様子を見守っていたのだが、段々とおかしくなってきた。環と狭穂は紫苑に悪いと思いつつ、ついつい二人で顔
を見合わせてくすくすと笑ってしまい、隼斗は頭の後ろで手を組んで、今までになく困惑している当主の姿を興味津
々で眺めている。その様子に気づいた紫苑が、振り返って討伐隊をじろりと睨んだ。
「お前ら、笑ってんじゃねえ。…イツ花、何とかしてくれ。教えたお前にも責任があるんだぞ」
紫苑の縋るような目を受けて、イツ花が苦笑いしながら男の子を宥めにかかった。
「若君。父君や皆様はお支度するにもすぐに、とはいきませんよ。この場で脱いで、なんて仰ってもお困りになっ
てしまうでしょう。イツ花も皆様のお支度のお手伝いをしないといけませんし、その間お庭をちょっと掃いておいて
頂けますか?」
「うん!」
新しい誘惑にかられ、男の子は好物を前にした仔犬のように目をきらきらと輝かせた。
「…何とかしてくれ、とは言ったが、他の家事をやらせろとは言わなかったぞ」
その様子を見て、紫苑は三度目のため息を深く深くついたのだった。
「環の予想が見事に当たっちゃったじゃない」
家の中で、狭穂、環、イツ花の女三人と、紫苑が机を囲んでいた。隼斗は、紫苑が名前を考える間男の子の相手を
してやってくれ、と頼まれて、庭で意気揚々と弟分の遊び相手を務めている。紫苑としては、息子は隼斗から家事よ
りももう少しやんちゃなことも教わってほしい、という心境だったのである。そんな父親の意図など知る由もなく、
半分下げた簾の向こうから少年達の甲高い声が聞こえてくる。とりあえず、随分と楽しそうではあった。
紫苑は文机の上に硯と墨、筆、紙を並べ、腕組みをして息子の名前を考えていたようだったが、からかうような沙
穂の言葉に、納得がいかない、といった風に眉をしかめた。
「環が変なこと言うからだぞ」
「あら、でも気性は紫苑が望んだとおり芯が強そうよ。よかったじゃない」
押しも随分強そうだわ、と環からくすくす笑われて、紫苑は深々とため息をついた。
「あの女神様、実は掃除やら洗濯やらが好きだった…とか。ねえかな」
「流石にそれはないでしょ。仮にも神様が、自分で家事なんてしないわよ」
「うーん…こういう流れは確かに考えてなかったなあ…」
狭穂の冷静な指摘に、紫苑は頭を抱えてさらにため息をつく。二人のやり取りを聞いていたイツ花が、頬に指を当
てながら小首をかしげた。
「吉焼天様からも、若君は掃除洗濯がお好き、なんていうお話は伺いませんでしたよ。ただ随分しっかりした気性
のようだ、とだけ。どうやら、こちらにいらしてから、イツ花がやっているところをご覧になって興味を持たれたみ
たいです。持って生まれたご気性だと思いますよう」
「…じゃ一体どこから出てきたんだよ、その部分は」
「とりあえずイツ花は大助かりですし、ご本人がお好きなんですからいいじゃないですか」
イツ花がにこにこしながらそんな風にまとめてしまったので、紫苑は不機嫌そうに下唇を突き出した。
「くそ、でもあいつは拳法家にするぞ。俺の後継がせるんだからな」
そう言いつつも、ようやく息子の名前が決まったのか、紫苑は筆を取ると紙に一気に書き上げた。
「できた」
「どれどれ」
女三人が覗き込むと、紙一杯にへたくそな字で『樹』と書いてあった。
「…『いつき』?」
「おう。何となく真っ直ぐ伸びる木みたいな雰囲気だったからな」
あんたにしちゃあ上出来じゃない、と狭穂が感心して紙を取り上げ、それはどういう意味だ、と紫苑が横目で狭穂
を睨む。環は、そのやりとりを笑いながら眺めていた。
――今までどおり紫苑も…これから生まれてくるであろう紫苑の子も、同じように愛してあげてくれないかしら。
狭穂にそのように言われるまでもなく、名前のとおり真っ直ぐな気性の、樹という子が環は好きになれそうだった。
(わからないこととか、色々と教えてあげなくっちゃ)
庭の方へ目をやると、相撲でもとっているのか、隼斗と樹の声変わりしていない甲高い笑い声が、家中によく響い
ていた。
「…え?」
樹が将来なりたいものについて口にした時、紫苑は思わず聞き返してしまった。
「俺、狭穂姉さんの持ってるやつが欲しい。かっこいいもん」
あらら、と狭穂が口の中でつぶやいた。樹が一族と初めて対面した時、折りしも討伐直後であったため、狭穂は愛
用の奥津ノ薙刀を手に持っていたのである。水神の力が宿るそれは常に月光にも似た青白い光を発し、刃は魚の腹の
ような輝きを帯びている。初めて見るその神秘の薙刀に、樹はすっかり魅了されてしまったようであった。『格好い
い』と感じるものに心を惹かれるあたりは、いかにも男の子らしい。
狭穂は息をついたが、それは紫苑のため息にかき消されてしまった。
「あのね…樹。残念だけど、あの薙刀は女にしか使えないの。何でかは分からないけど、男が握るとただのなまく
らになっちゃうから、あなたがどんなに使いたいって思っても使えないのよ」
「えー。ずるいよ、何で女だけなんだよう」
狭穂の言葉に、樹は口を尖らせて抗議した。神秘の武具の中には、このように女が使うことで力を発揮するもの、
逆に男が使うことで力を発揮するものがある。何故と言われても、そういうものなのだから仕方ないのだが、自分が
男だから使えない、というのは、幼い樹には到底納得がいかない。
と、隼斗が思い出したようにはたと手をうった。
「あ、男でも使えるのあるぞ!俺、蔵で見たもん。俺の父さんが昔使ってたっていう、闇の何とかっていう薙刀。
刃がさ、火みたいに真っ赤に光っててかっこいいんだ。お前、そっちにしろよ。青でも赤でも大して変わんねえって」
隼斗が言う闇の何とか、というのは、奥津ノ薙刀と同様に神秘の力が宿る『闇の光刃』のことだった。その薙刀に
宿っているのは、水ではなくて火の力であるから、青でも赤でも大して変わらない、という隼斗の物言いは随分と乱
暴である。しかし、半べそをかいていた樹は、その言葉に目を輝かせた。
「ほんと?!俺それがいい!ねえ、いいでしょうお父さん」
樹としては、『かっこいいもの』であれば、本当に青でも赤でもどちらでもよいようであったから、ある意味隼斗
の提案は的確であったともいえる。
紫苑は脇息に寄りかかって頬杖をついていたが、やがて深々とため息をつくと諦めたようだった。
「…おう」
樹が俄然元気になったのと反対に、紫苑は随分と元気のない返事になってしまった。狭穂が大喜びの様子の樹を横
目で見つつ、進言した。
「ねえ、紫苑。じゃあ私が樹の指南をするわよ。薙刀士だもの、私に任せて」
「でも――」
紫苑としては、自分がすべきだった隼斗の指南は狭穂に任せてしまったし、自分の息子ぐらいは責任をもって鍛え
てやらなくてはと思っていた。環は既に討伐隊の重要な戦力になっていたし、得物の間合いが長い隼斗も加わってい
るから、自分が出なくとも問題なかろうとも判断していた。
その旨を伝えると、狭穂は少し寂しげに笑った。
「ううん。討伐に出るのは、今ちょっと辛いから――だから、指南は任せてくれないかな。隼斗の時に気がついた
んだけど、私は教えるのは得意みたいだから」
その言葉に、紫苑と環、それにイツ花の表情が沈んだ。自分の身体のことは、自分が一番よく知っているのだろう。
当の狭穂は、努めて陽気な声で樹に笑いかけた。
「私があなたの先生になるけど…樹は、お父さんの方がいいのかな?」
樹は、子供なりに何か事情がありそうだということを察したのだろう。利発そうに深い青色の瞳をくりくりさせた。
「ううん。ほんとは、父さんに指南して欲しいけど――いいよ。そのかわり、さっきの薙刀、俺にもいっぱい見せ
てね」
狭穂は勿論よ、と言って笑った。
暦の上では春になったものの、夜は相変わらず冷える。今夜は特に底冷えするような寒さで、火鉢の前にいても手
がちっとも温まらない。環はしきりに手を摩りながら、時折火鉢の灰をかき回している。
――討伐に出るのは、今ちょっと辛いから。
けして逃れることのできないさだめが、父に残月、さらに狭穂をもとらえようとしているのか。環はやりきれない
思いだった。
自らを鬼狩りの者として血を残すべきではない、として交神を従弟に譲り、紫苑に恋慕の情を寄せている自分を励
ましてくれた狭穂。そうしていつも皆に気を遣ってくれるが、狭穂は自身のことをほとんど語らない。
――誰かに恋をするって、素敵なことだと思うの。
――それが叶わない恋で、辛い思いをすることになったとしてもね。
(もしかして、狭穂姉様にも誰か――好きな人がいたこと、あったのかしら?)
今考えると、恋をしたことがない身の上で、あそこまで環の心情を理解するのは難しいんじゃないだろうか、と思
える。いつも朗らかで笑顔を絶やすことがなかった彼女は、どのような思いでその生涯を駆け抜けていくのだろう。
(初陣の時に、紫苑に怒られてた私を庇ってくれたっけ)
ふと、そんなことを思い出した。
あの時はまだ父も生きていた。残月も討伐隊に加わっていた。父が死んだ時、残月が死んだ時。傍からいなくなっ
てしまってとてもとても悲しかったけれど、そのうちいなくなってしまったことも受け入れた。そうしてふと、何か
の拍子に亡き人のことに思いを馳せるようになった。
その代わりに自分が、隼斗が家にいる。今月は樹がやってきた。隼斗はすっかり日下部家の者として馴染んでいる
し、そのうち樹も同じように馴染むのだろう。
亡き父や残月から教わったこと、思い出など様々なことが、紫苑や自分や狭穂の中に受け継がれている。そして、
子をなすことのなかった狭穂も自分や紫苑や隼斗、樹の中に何かしらのものを残して行ってくれるのだろう。それは、
日下部と言う長い長い鎖をつなぐ、一つ一つの小さなかけらのようなものかもしれなかった。
自分も、今月元服し――交神ができる身の上となった。そのうち他ならぬ紫苑から、交神するよう勧められること
になるのだろう。その時は謹んで受けよう、と思う。そして相手の神様にも生まれてくる子にも、有難う、と言いた
い。私たちの鎖をつないでくれて有難う、と。それとは別に、紫苑のこともずっと好きでいたいと思うのだけれど。
炭がなくなってしまったので、環は籠を手に部屋を出た。冷えると思ったら、空からひらひらと白いものが舞い降
りてきている。雪が降り始めたのは今しがたのことではないようで、庭は既にうっすらと染まり始めていた。珊瑚色
の唇から漏れ出る息が、冷たい大気の中で白く形を為しては消える。この様子だと、雪はまだまだ降りそうだった。
冷える手をしきりに摩りながら歩いていると、部屋から漏れ出る灯火にほんのり照らされた、見慣れた姿が目に留
まった。
「紫苑…?」
紫苑は、簀子に座り込んで雪を眺めているようだったが、近寄ってくる環に気づき、白い歯を見せて笑いかけた。
「こんなとこに座って、寒くないの?」
「ん…雪だな、と思ってさ。この分だと積もるな、明日は入口の周りだけでも雪を退けねえと。隼斗と樹は大はし
ゃぎだろうな」
そう言って、紫苑は肩をすくめてみせた。
「…ったく。親の心子知らず、て言うかさ。子供ってのは親の思い通りにはいかねえもんだな。今更ながら母さん
の苦労がわかったような気がしたよ。まあそれはそれとして、可愛いんだけどさ。俺の子」
苦笑交じりに紫苑がこの日何回目かのため息をつくと、それは白い霞のようにふわりと広がり、夜の闇に溶け込ん
でいく。交神から戻ってきた時の自信満々だった姿を思い出して、環はくすりと笑った。
「薙刀士になっちゃったもんね、樹」
「くそ、二人目は絶対俺の後継がせるからな」
二人はそう言って、特に示し合わせた風でもなく同時に笑った。笑いが途切れると、紫苑は立ち上がって環に背を
向けた。
「しっかし、良かった」
「何が?」
紫苑は環に背を向けたまま、空から舞い降りて来る雪を眺めているようだ。
「お前が、さ。モノオモイの時期だって狭穂姉が言うからその――てっきり」
「…てっきり?」
「お前が――」
何かを期待してしまって、環の頬に桃の花の色が浮かぶ。紫苑は空から目を下ろすと、片方の手で頭をかいて黙り
込んだ。その顔の表情は、環からは見えない。
「…いや、何でもない。雪が降ってるだけあって今日は冷えるな、そろそろ寝るか。お前もぼーっとして凍らない
うちに早く戻れよ」
その口調はあくまでもいつもどおり、からかうようなものだ。紫苑は環に背を向けたまま、自分の部屋に戻ろうと
歩き出す。その広い背に、環はある言葉を告げたくなり口を開きかけたが――すぐに思いとどまった。
紫苑はそのまま部屋に戻ってしまい、環も炭を籠に入れて部屋へ戻ることにした。
ずっと、ずっと心に秘めていた言葉を告げてしまいたかった。だが、紫苑を困らせるのではないかと言う躊躇いが
勝り、結局その一言を再び飲み込んでしまった。
――てっきり。
「てっきり、何よ…」
火鉢に炭を足し、長い髪の一房をつまんで何気なく目の前にかざしながら、環は一人ごちた。
「…もしかしたらって思っちゃうじゃない。私には、言いたいことははっきり言え、なんて言うくせに――」
その呟きは誰に聞かれるわけでもなく。音もなく降り注ぐ雪の間に吸い込まれ、消えた。
その後、樹は狭穂に指南されて薙刀の技を身につけ、初陣に臨んだ。芯が強いとイツ花が言ったとおり、樹は初陣
であっても気後れすることなく、かと言って隼斗のようにひゃっほう、と歓声を上げたりということもなく、父の指
示に落ち着いて忠実に従った。樹の初陣も、隼斗の時と同様にまずまずの戦果をあげて終わった。
彼が初陣に出かけ、帰ってきた月の終わり。狭穂は皆が見守る中、静かに息を引き取った。春の日差しが穏やかに
降り注ぐ日の午後のことだった。死ぬ直前まで、今日はいい天気だね、風が気持ちいいねと笑っていた。
狭穂を師に持った樹は、父の胸にすがり付いて泣いた。紫苑が父ならば、狭穂は自分にとって母同然の人だったと
言って。それを聞いて、初めて紫苑が泣いた。自分により多くの血を残せ、と言い、結局子をなすことのなかった狭
穂が、己の息子から母のように慕われていたと分かったから。樹と同じく狭穂を師に持つ隼斗も泣いていた。
だから、環は泣かなかった。将臣が死んだ時、残月が死んだ時。どちらも涙を流すことなく、毅然として皆を気遣
っていた紫苑が泣いていた。だから、この場は自分がしっかりしなくちゃ、と思ったのだ。
(狭穂姉様、今まで有難うございました…)
涙の粒を目にためたまま、紫苑親子と隼斗が泣き止むまで、環は黙って彼らの背を優しく撫でてやっていた。
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