その後は特に何事もなく、天女の小宮でまずまずの成果をあげて、二人きりの討伐隊は帰還した。
「二人とも、おっかえりィ!」
二人を真っ先に出迎えた元気な声の主は隼斗である。とてとてと走ってくると、頭から勢いよく紫苑に体当たりを
試みたが、鍛え上げた紫苑の身体はちっぽけな少年一人の体当たりではゆらぎもしなかった。
「何だ、隼斗。でかくなったぶん威勢もよくなったな、ちゃんと狭穂姉の言うこと聞いてたか?」
ひょいと紫苑が隼斗の襟首をつかむと、少年の身体は片手でやすやすと持ち上げられてしまった。隼斗は物怖じせ
ず、宙に浮いたままえへへぇと歯を剥き出しにして笑った。
「狭穂姉から聞いたんだ。兄ぃはすっげえ強いんだろ?俺、兄ぃに指南してほしかったなぁ」
癖があるのか、あちこちに元気よく跳ねた短髪は蒼穹の色。瞳も似通った色合いの深い青、象牙細工のように白い
肌。隼斗の色味はどちらかというと将臣や環のものに近いが、切れ長の涼やかな目元と通った鼻筋は父である残月に
生き写しで、将来は大そうな美男になるのではないかと思われた。
ところが、気性はといえば寡黙で温厚だった父とは程遠く、何故だか紫苑を小さくしたような威勢の良さだった。
環も紫苑も、隼斗が日下部家へ来てからほどなくして討伐に出かけたので、この少年の成長ぶりを知らない。
(紫苑も、小さい時はこんな風だったのかな)
環はくすくすと笑いながら、幼い隼斗が紫苑にじゃれつく様子を見守った。
「悪いな。俺は来月交神だから、お前の相手はしてられねえんだよ」
青い頭をぐりぐりと撫でられて、隼斗はえー、と唇を尖らせた。
「隼斗、あんまり紫苑を困らせないのよ。全く、とにかく腕白なのよねこの子。誰に似たのかしら」
苦笑しながら、腕組みをした狭穂とイツ花が奥から現れた。家に来て間もなかった隼斗は家の中を探検中、石火矢
を蔵で発見しそれの虜になってしまった。本人の熱烈な希望で、彼の生業は日下部家初の『大筒士』に決まったのだ
った。
「勘弁しろよ。じゃあ、指南はできねえけど相撲でもするか。ぶつかり相手になってやるぞ。庭出ろ」
やったぁ、と瞳を輝かせて、隼斗は歩き出した紫苑の周りを仔犬のようにまつわりつきながら外へ出て行った。
「…どう?紫苑に手がかからなくなったと思ったら、隼斗がああだもの。くたびれちゃった」
そういいながらも、狭穂は嬉しそうに二人を見送る。イツ花も腕組みをしてうんうんと頷いた。
「何がすごいって、もう家中に落書きするわ、庭木に登ろうとして落っこちるわ、塀に石火矢で穴開けちゃうわで
枚挙に暇がありません。イツ花もくたくたです」
そういうイツ花も、困っていると言うよりは嬉しくて仕方がない、という風だった。
「でも、ね。安心したわ。隼斗がああいう子になってくれて。紫苑、残月兄さんのことすごく気にしてたでしょう?
だから、隼斗は紫苑と仲良くしてほしいな、って思ってたの。まさかあそこまでになるとは思ってなかったけど」
「そうですね…紫苑もあのことで珍しく落ち込んでたから。よかった」
庭の方で、隼斗の歓声のような悲鳴のような、どちらとも取れるような声があがったので、環はくすくすと笑った。
残月の死の後どことなく暗かった家の中を、紫苑の心のもやもやした部分を、隼斗が元気よく吹き飛ばしてくれてい
るような気がして、嬉しかった。
そうこうしているうち、紫苑の交神が執り行われる日は着実に迫っていた。環はぼんやりと脇息に寄りかかり、引
き上げた簾の向こうに見える庭を見つめていた。庭の木々は冷たく乾いた風に身を任せ、その錦の衣をゆっくりと地
へ落としている。
本殿での夜、ちくりと感じた胸の痛みは消えることなく、未だにちりちりと奥底で燻っていた。何故なのだろうと
思う反面、何故かを分かっていながら敢えて気づかないふりをしている自分がいることも、環には分かっている。
(だって私たち、呪いを受けた身体なんだから。人並みの身体じゃないんだから。伝えたところで、紫苑を困惑さ
せるだけ。紫苑は当主なんだから、私なんかの我儘で困らせちゃいけない。こんなこと、考えちゃいけない――)
どんなに自分にそう言い聞かせ、割り切らなければともっともらしい言葉で蓋をしようとしても。心に生まれた小
さな炎はその蓋を焦がして穴を開けてしまい、環に鈍い痛みを与え続けている。
環が脇息にもたれかかる姿勢を変えると、腰まである長い髪が肩からさらりと流れ落ちた。家の中は、わんぱく盛
りの隼斗がいないので、イツ花が家事をする物音しかしない。紫苑と狭穂は、都が見たいという隼斗の熱意に根負け
し、揃って都見物に出かけていた。
相翼院から帰還して以来、環は紫苑に普段どおりに接することができなくなっていた。紫苑に対して、自分は今ま
でどのように接していただろう。何を話していただろう。本当は紫苑ともっとたくさん話をしたい、もっと傍にいた
いのに、そんな些細なことすら胸の痛みが邪魔をして分からなくなっている。だから本当は都見物にも一緒に行きた
かったのだけれど、イツ花と留守番をする、と言って家に残ったのだった。
「環様、お茶はいかがですか」
ぼんやりしていると、イツ花がにこにこしながら茶と菓子を持って現れた。出されるがままにぼんやりと茶を飲ん
でいた環は、都で馴染みのお店のご主人から頂いたんですよ、とイツ花から菓子を勧められてようやく我に返った。
「…環様?どこかお加減でも悪いんですか?何だか、最近お元気がないように見えるんですけど…あ、火鉢も炭が
なくなりかけてますよ、お寒くありませんか?」
丸眼鏡の向こうで、くりくりした瞳が気遣わしげに環を見つめている。
「あ…うん。ええと、大丈夫…」
環は一瞬ためらったが、意を決したように茶を一口飲むと、イツ花に向き直った。自分達以外には誰もいないこと
がわかっているのに、ついつい周りを見渡してしまった。
「イツ花、ちょっと聞いてもいい?」
「はい?」
ちょこんと小首をかしげるイツ花に、環は内緒だからね、と念を押してぽつりと言った。
「あの…ね、交神…って…詳しくはその――どんな……ものなの?」
言っている傍から頬が熱くなっていくのが分かる。さりげなく聞けば怪しまれないのに、すぐに顔に出てきてしま
う自分の性格が恨めしい。
イツ花は小首をかしげたまま環を見つめていたが、得心が行ったと言うような意味ありげな笑みを浮かべ、大きく
頷いた。
「ああ――交神の儀について、ですね。分かりました」
「あぁあのね、べべ、別に!別に、へ、変な意味じゃないんだけど!」
環はおろおろと弁解したが、これでは逆に何か意図があることを強調したようなものだった。
「ええ、ええ。いずれ環様も元服を迎えられた折にお聞きになることですし。丁度いい機会ですからご説明致しま
しょうね」
イツ花はにっこりと微笑んだまま、そ知らぬ顔で説明を始めた。
「交神の儀に際しましては、まず丸一日食を絶っていただきます。それで、綺麗な水でお体を清めていただいて、
儀式の装束――まぁつまるところ真っ白い着物のことなんですけど、それをお召しになって。儀式のお社を通って、
天界にある交神の間へ入っていただきます」
イツ花は大雑把で天真爛漫な気性だが、流石に今の環の振る舞いがあからさまに不自然であることぐらいは気がつ
いてしまっただろう。それを考えると顔から火が出るような思いだったが、言ってしまった以上最早引っ込みはつか
ないので、環は黙ってイツ花の話に耳を傾けることにした。
「儀式、と言いましても、特にご当家の皆様に何かご面倒なことをして頂く必要はないんですよ。儀式の間には方
陣が二つ書いてありますから、お相手の神様とそれぞれの方陣の中に入っていただきます。それからイツ花が交神の
舞を舞いますと、方陣が神様と交神なさる方のお体から命の源を映し出します。で、それがイツ花の舞にあわせてバ
ァーンと!混ざり合って一つの光になります。それで終わりです。ただ、天界とこっちでは時の流れが違いますから、
それだけでも月の大半が過ぎちゃいます。一つになった光は、昼子様のもとで赤ちゃんの姿になった後、お一人で歩
けるようになるぐらいの年頃までお相手の神様に天界でお育てしていだたきますから、頃合を見計らってイツ花が引
き取ってまいります」
それを聞いた環の顔は、いかにも気が抜けたような様子だったのだろう。イツ花はくすくすと笑った。
「昼子様のところにはですね、命の源を赤ちゃんの姿に育てるための光の珠――まあ言ってみれば、女人がお腹で
赤ちゃんを育まれるのと同じようなことをしてくれるものがあるんです。赤ちゃんの姿になったら、あとは並みの人
が赤ちゃんを育てるのと同じように、お相手の神様に育てていただくんですけれど。環様も、そうやってお育ちにな
ったんですよ。天の母上様のこと、覚えていらっしゃいませんか」
「え…ええと、そう、だったかな」
努めて平静を装おうとして、環はせわしなく瞬きし、うろうろと視線を泳がせた。話し終わったイツ花は、じゃあ
これ洗ってきますねと言って、何事もなかったかのように空になった茶碗と皿を持っていってしまった。その後姿を
見送って、環はふうと吐息をつくと、再び脇息にもたれかかった。
交神は、どうやら儀式という形で行われるもののようだ。日下部一族には、子を為すための身体的な力が失われて
いるのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。しかし、イツ花から話を聞くまでは、環が漠然と理解
している並の人と同じ方法――閨で肌を重ねる類の――で行われる可能性も完全には否定できなかったので、イツ花
に自分の質問の意図が知れてしまったかもしれない、ということよりも、今は安堵感の方がはるかに大きかった。
(でも…)
環は紫苑の子をその身に宿す事ができないが、神々は儀式を通じて紫苑に子を授けられる。行われる形がどうであ
れ、その事実だけはけして揺らぐことはない。そう思うと、またちくりと心の奥が疼いた。
つまり――自分は嫉妬しているのだ、紫苑の相手になる女神様に。
(神様に嫉妬だなんて…私、何て大それたこと考えてるんだろう)
環は頬杖をつき、物憂げに庭を眺めた。
「帰ったぞ」
「ただいまぁーっ」
紫苑と隼斗の威勢のいい声が玄関に響いたのは、日が西の空へ傾き始めた頃だった。お帰りなさいませ、もうすぐ
夕餉にしますからねというイツ花の声がそれを出迎える。騒々しく熱気をまとって走ってきた隼斗は、いち早く部屋
にいた環を見つけると、仔犬のようにまつわりついた。
「環姉、環姉っ」
「やだ、隼斗。どうしたの?息せき切って」
「すっげえんだぜっ!ミヤコってさ、人が一杯いるんだな!でもさ、環姉知ってるか?ミヤコのやつらって、みん
な揃って頭も目も真っ黒なんだぜ。あいつら墨でも食ってんのかな?墨って食えるのか?」
この頃の日下部家は、都の復興や鬼討伐などの功績により、都では知らぬものは無いほどに名をあげていた。しか
し、赤や青の髪や瞳という、並の人とはおよそかけ離れた姿は、都に出れば奇異や畏怖、崇拝などの視線に否応なし
に晒されることになる。だから、紫苑や狭穂は隼斗が都へ行くのはまだ早いのでは、と懸念していたのだが――どう
やら、好奇心の塊のような少年にはとり越し苦労だったようだ。都の人々の視線など、見るもの全てが物珍しい彼に
とっては些細なことだったろう。
言いたいことを一方的に環に伝えられて満足したのか、上機嫌の隼斗はこれ土産、と環に団子を差し出した。
「あら、美味しそう。ありがと」
へへへん、と得意げにふんぞり返って、隼斗は鼻から息を吐き出した。隼斗の背中越しに、狭穂と紫苑が苦笑しな
がらこちらへやって来るのが目に入って、環の胸の鼓動が少し速くなった。
「ったく、こいつほんとに犬っころみたいだ。ちょっと目ぇ離すとすぐどっか飛んでっちまうんだからな」
やれやれと紫苑は環の傍に腰を下ろし、彼女にまつわりついていた隼斗の額を指で軽く小突いた。体のすぐ近くで
紫苑の気配を感じて、環の胸の鼓動が一気に跳ね上がり、頬も紅を引いたかのように染まる。何とかそれを鎮めよう
と、環は鼓動の速さと同じくらいせわしなく瞬きした。
「あら。隼斗のこととやかく言えないわよ。小さい頃の紫苑なんか、一人で勝手に都まで出ちゃったことあったじ
ゃない。みんなで駆けずり回って探して大変だったんだからね?」
環の心境など露知らず、狭穂がからかうように紫苑に笑いかけると、昔のことを蒸し返された紫苑は口をぐっとへ
の字に曲げた。
「そんな昔のこと、覚えてねえよ」
「ふうん。覚えてないならどれだけ腕白だったか全部聞かせてあげようか。ね、環。聞いてみたいでしょ」
どぎまぎしていた環は、その声で我に返った。えっ、と小さく叫ぶと、慌てたように周囲を見渡す。
「あ、えと。姉様、何ですか?」
狭穂が碧の瞳をぱちくりさせて口を開きかけた時。
「何だ環。ほっぺた赤いぞ。熱か?」
ひょいと無造作に、紫苑の大きな手が環の額にあてられた。額に紫苑の温もりと硬い掌の感触が伝わってきて、環
の顔が更に熱を持つ。その様子に、紫苑が眉をしかめた。
「ちょっと熱いな。鬼が病をばらまいたって話は聞いてねえが――」
「う、ぅううううん、違うのっ」
環は実に俊敏な動きでその手から飛び退って逃れ、首が一回転するのではないかという勢いで首を横に振った。そ
の動きに合わせて、小川のせせらぎを思わせる長い髪がさらさらと揺れた。
「その――庭をね、見てたら寒くなっちゃって。私、寒いとほっぺた赤くなるから…」
「…ふうん?寒いんなら簾上げっぱなしにしなきゃいいだろ。お前、いっつもぼさっとしてるからな。冬本番にな
ったら、座ったまま凍らないように気をつけろよ」
紫苑は一瞬いぶかしげな視線を送ったが、すぐにいつもの快活な表情に戻った。からかうように笑うと立ち上がり、
上がりっぱなしになっていた簾を下ろした。環が口の中でうん、と小さく返事をすると、イツ花がご飯ですよ、と呼
ぶ声がした。
「お、飯だ」
「俺腹ぺこだよ。行こうぜ、兄ぃ!」
隼斗はすっかり紫苑になついてしまったようで、紫苑の腕にくっついて行こうよ行こうよとじゃれついている。う
るせえなぁと苦笑しつつ紫苑が腰をあげて、後には環と狭穂が残された。
「環?」
狭穂にじっと見つめられて、環は首をすくめた。どう見ても自分の様子はおかしいから、思慮深い狭穂にはわかっ
てしまったろうか。慌てて立ち上がり、狭穂に背を向ける。
「へ、平気です姉様。さあご飯に行きましょう。隼斗が待ちくたびれちゃうわ」
「ふふ、そうね。あの子育ち盛りだから」
狭穂は、環の言葉を受けて笑いながら立ち上がる。環がその様子に少し安堵した時、イツ花と紫苑が呼ぶ声と、待
ちきれないというような隼斗の叫びにも近い声が聞こえてきた。きっと隼斗は、並べられた膳の前でお預けを食らっ
た仔犬のような顔をしていることだろう。その様を思い、二人はくすくす笑いながら部屋を後にした。
ここのところ、急に冷え込むようになって来たようだ。火鉢にあたりながら、環は軽く身震いした。冬の到来を告
げる木枯らしの音が、寒さをさらに煽っている気がする。格子をすべて下ろしても、冷気の手はどこからともなくそ
ろそろと忍び寄ってくる。
「…環。まだ起きてる?」
引き下げた簾の向こうから狭穂の声がした。夜はもうだいぶ更けていて、先程まで風の音に混じって聞こえていた
隼斗の元気な声はもう止んでいる。
「あ…はい」
環が顔を上げて返事すると、今日は随分冷えるわね、と言いながら、狭穂が簾を潜って入ってきた。
「あぁあったかい。こういう季節になると、火鉢の前から離れられなくなっちゃう」
狭穂は、そう言いながら環の傍らに座り、半ば火の消えかけた火鉢に手をかざした。
「イツ花に、炭をもう少しもらいましょうか。私、行ってきます」
「あ、いいのいいの。――それより」
腰を浮かせかけた環を、狭穂が真摯な顔で呼び止めた。環は、思わずぎくりと身をすくませた。
「あなた、こないだの討伐以来様子が変よ。何だか紫苑を避けてるみたいじゃない。何かあったの?」
「あ…えと」
予想どおりのことを尋ねられて、環は口篭もった。予想どおりではあったのだが、生憎とうまい言い訳が思いつか
ない。
「もしかして――紫苑が、好きになっちゃったの?」
逡巡していると、ずばり言い当てられてしまった。環はち、違いますといって大慌てで否定したが、その狼狽ぶり
は肯定しているようなものだ。狭穂がやっぱりね、と息をつくのを見て、環も観念した。
「何…で分かっちゃったんですか」
「そりゃ私だって女だもの、見てれば分かるわ。イツ花も多分知ってるんじゃないかしら」
イツ花には交神って何、などと尋ねてしまったし、その時の自分の態度ときたらあまりにも分かりやすかったから、
多分どころか間違いなく知られているはずだ。そのことを改めて思い出し、気恥ずかしさで穴があったら入りたい心
持だった。俯いて首まで桃色に染まってしまった環に、狭穂は小首を傾げて笑いかけた。
「別に、責めてるんじゃないのよ?気持ちのことなんだもの、仕方ないじゃない。討伐の間に何があったのかは知
らないけど」
「は…はい…」
環は、顔から湯気が出るのではないかというほど真っ赤になって頷いたが、肯定して踏ん切りがついたのか、続い
てぽつりぽつりと話し始めた。
「でも…私がこんな風に思ってる、って知れたら、紫苑を困らせちゃう…私たちは子が授からない身体なんだから、
神様と交神するのは一族にとって大事なことだもの。それに紫苑の秘めてる力は、歴代の当主を凌駕していること…
朱点童子打倒のためには、今後彼の力は絶対必要になること、紫苑自身もそれを十分に承知していることも…よくわ
かってます。だから知られちゃいけない――でも、そう思えば思うほど…紫苑の前でどうふるまったらいいか、わか
らないんです…」
「――交神してもしなくっても、紫苑は紫苑じゃない?」
陽気な狭穂の声が、沈みこんだ環の声を遮った。驚いたように顔を上げた環に、狭穂は火が消えかかっている火鉢
の灰をかき回しながら、さらに続ける。
「子を授かるって言っても、別に人のように閨をともにするわけじゃないわ。確かに、自分の命を受け継いだ子っ
ていうのは可愛いものかもしれないけど、その子は紫苑だけじゃなく私たち一族にとってもかけがえのない宝よ。紫
苑の子でもあるけど、私たち全員の子でもある…」
狭穂は、そう言って手を止め、俯いている環を優しげに見つめた。
「朱点童子打倒のためということだけを考えて生きていくのなら、確かに環の持ってるような想いは…必要ないの
かもしれない。でもその想いすら捨ててしまったら――私達はただでさえ並みの人とかけ離れた身体をしてるのに、
ほんとに戦うだけの鬼みたいだわ。私はそんなの嫌よ」
「狭穂姉様…」
そこまで言うと狭穂は口をつぐみ、不意に笑顔を曇らせた。
「ごめんね、交神を断った私が言っても説得力がないだろうけど…。一族のため、なんて言って…紫苑に全部押し
付けちゃったんだもの」
「――そんなことありません!」
その言葉に、環は弾かれたように顔を上げた。
「私、狭穂姉様がそんな気持ちを持っていらしたなんて…全然知りませんでした。狭穂姉様はいつも一番に私達の
ことを気遣って下さっていて、とても有難かったし心強かったんです。紫苑は、狭穂姉が自分で決めたことだから、
って言ってました。私も狭穂姉様がそう決めたことなら、口出しはできないけど…でも、私も紫苑もみんなも、狭穂
姉様がいてくれてよかった、って思ってます。だから…押し付けた、なんて仰らないで下さい」
「…ありがと。環を元気付けてあげようと思って来たのに、何だか私の方が元気付けられちゃったわね」
狭穂は環の真っ直ぐな視線を受け止め、小さく笑った。しかし、環はそんな狭穂の笑顔とは対照的に、唇を噛んで
再び俯いた。
「だから。だから…余計に紫苑の交神の妨げにはなりたくないんです。狭穂姉の代わりに多く血を残すんだ、って
紫苑は言ってたもの。狭穂姉様はさっき、その気持ちを捨ててしまったら戦うだけの鬼みたいだ、って仰ったけれど
…私の想いは、紫苑の交神には邪魔なものなんです。だったらそんなもの、ない方がいい。持っていても苦しいだけ
だもの――」
話しているうちに気持ちが昂ぶってしまったのだろう。紺碧の瞳から涙が一粒ぽろりと零れ、膝の上で握り締めた
拳の上に落ちた。俯いている視界の外から、狭穂がそうね、と呟くのが聞こえた。
「好きな人がいたら…その人と結ばれたいって思うのは自然なことだわ。でも…物語なんかに出てくるような、素
敵な恋なんて私たちには到底望めない…もし私が環の立場だったとしたら、やっぱりその想いは口に出せないと思う。
でもね――」
長い髪を顔の両脇に垂らして俯いたままの環の頬に、狭穂の小作りで華奢な手がそっと添えられる。顔を上げた環
に、狭穂が優しげに笑いかけた。
「あなたが紫苑を好きだっていう気持ち…それはけして忌むべきものじゃない。これは、はっきり言えることよ」
「え…?」
「私達は、呪いに縛られて戦いに明け暮れる毎日を送っているけれど…それでも間違いなく人なんだ、っていう尊
い証だと思うから。だから邪魔だ、ない方がいい、だなんて悲しいこと言わないで。例え心の中に秘めるだけの恋で
あっても…その想いを大事にしてほしいの。そうして、今までどおり紫苑も…これから生まれるであろう紫苑の子も、
同じように愛してあげてくれないかしら」
切れ長の碧の瞳を大きく見開いて、狭穂はおどけたような顔をした。
「実はね、さっき紫苑が仏頂面で私のとこに来たのよ。最近環が何だか変だ、一応心配だから狭穂姉ちょっと聞い
といてくれ、って。気になるのなら自分で聞いたらいいじゃない、って言ったら、女同士の方がいいだろ、ですって。
見るからに気にしてるくせに『一応』だなんて、ほんと素直じゃないんだから」
「紫苑が…やっぱり、紫苑にもおかしいって思われてたんだ…私」
頬を染めて再び俯く環に、狭穂はふふ、といたずらっぽく笑いかけた。
「さっきも言ったけど。交神したってしなくたって…紫苑は今までもこれからも、何も変わらないわよ。最近あな
たの様子がおかしいから、ってこんな風にぶきっちょな心配をしてる。あなたの好きな人は、こういう人よ。そうで
しょ」
「はい…」
討伐先ではいつも厳しくって。家では逆に、軽口を叩いてからかってきたりして。
でも――たまにすごく、優しい時があって。
環の顔から張り詰めたものが消えていくのが見てとれて、狭穂は微笑んだ。
「 誰かに話すだけでも、楽になるでしょ?私でよかったらいつでも聞くわ。遠慮しないで言って」
ありがと、姉様と環は小さく口の中でつぶやいた。狭穂は環の肩を力づけるように軽く叩くと、部屋を出て行こう
とし――ふと振り返った。
「こんなこと言ったら、悩んでたあなたから怒られちゃうかもしれないけど。誰かに恋をする、って素敵なことだ
と思うの。それが叶わない恋で、辛い思いをすることになったとしてもね。頑張って」
驚いたように目を瞬かせる環にいたずらっぽく小首を傾げて笑いかけると、狭穂は出て行った。その小柄な後姿を
見送った環は、心の中に温かいものが湧き上がってくるのを感じていた。
――紫苑のことを想う気持ちは、けして忌むべきものじゃない。
狭穂にそう言ってもらえて、嬉しかった。ずっとずっと、自分の考えていることは『いけないこと』だと思ってき
たから。
(私…吹っ切れるかもしれない)
紫苑のことは好き。けれど、紫苑が交神して子をなすことも正面から受け止められる――そう思えた。狭穂の言う
ように、この気持ちを大切にして生きよう、そうして、自分にできる限り、彼と彼の子の補佐をしていこう、と。
(狭穂姉様も、強いな)
狭穂が交神を断ったから、来月紫苑が交神に臨むのだ。自分が交神するよりは、紫苑の強い血を残しなさい、と。
鬼狩りの者として血を残すべきではない、ということは自分自身の存在を否定することだし、親から受け継いだ血を
絶つことは辛い選択だったのではないかと思う。
今までの討伐でも、自分の体のことで後ろめたさを感じたり、悩んだこともあっただろうに、周囲には全くそれを
感じさせない朗らかさで接し、今環に対してしてくれたように皆に気を遣ってくれている。
(私も…頑張らなくちゃ)
何を頑張るのか、と言われると明確には答えることができないけれど。
もっともっと強くなりたい。勿論鬼狩りの者として討伐隊の助けになるように、という意味でもあるが、もっと強
い心で皆を助けたい。そう思った。
環は火鉢の灰をかきまわし、下げられている格子に目をやった。風の音は、いつの間にか止んでいるようだった。
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