晩秋の相翼院は、初めて来た時と何ら変わりはなかった。ただ、うだるような暑さとはうって変わって、秋の爽や かな風が静かな湖面の上を滑るように渡ってくる。風は、もう随分と冷たくなってきていた。  そういえば、今月の討伐は紫苑と二人だけなのだ。改めて、そんなことを思った。この間の夜は、紫苑が思いがけ ず礼なんか言うものだから、動転していてすっかり忘れていたのだけれど。  初陣の時は残月も含めて四人、先月は狭穂と三人での討伐だった。  今頃は隼斗の指南をしてくれているであろう狭穂は、紫苑の気が張り詰めているな、と思うと、陽気な茶々を入れ てそれを和ませた。討伐隊の様子にいつもそれとなく心を砕いてくれていた。  初陣でしか共に戦うことがなかった残月は、寡黙だったけれど博識で、環が分からないことでもさりげなく教えて くれた。あまり大きく笑うことも怒ることもなかったが、ふと見せてくれる笑顔がとても優しい人だった。その残月 はもう――この世にはいない。  隼斗はどんな子になるのだろう。残月に似て寡黙な気性になるのだろうか。それとも、指南役の狭穂のような明る く快活な性格になるのだろうか。隼斗が残月に逢えなかったぶん、狭穂が交神しないぶん、隼斗の中には色々な温か いものが残っていくといいな、と思ったし、自分達が戻った時に隼斗がどんな子になっているか考えると、楽しみで もあった。  その時。  「――莫迦、何やってんだ環!前!」  紫苑の厳しい声が飛ぶ。はっと視線を走らせると、河童の姿をした鬼が、跳躍した格好のまま今しも爪を立てよう と迫り来る姿が映った。が、環は慌てない。  僅かな動きでその一撃をかわすと、そのまま体勢を変えることなく刀を抜き放つ。鈍い感触と耳障りな絶叫、黒い 飛沫が上がる。空中で胴を半ば両断されて、鬼は息絶えた。環が上半身全部を使って大きく息をついた時、別の鬼達 を片付けたらしい紫苑が、返り血を拭うこともなく仏頂面のままずかずかとこちらへ歩いてくるのが見えた。  環が口を開く前に、  「この莫迦」  と、頭をはたかれてしまった。紫苑はそれでも大幅に加減しているのだが、拳一つで鬼たちと渡り合う身体の持ち 主である。十分に痛かった。  「ごめんなさい…」  蕾のように愛らしい唇をへの字に曲げて、環は頭をさすりながらうなだれた。家にいる時の紫苑は軽口を叩くこと もしばしばだが、討伐先での紫苑は男女分け隔てなく厳しい。  「こんなとこでぼさっとするやつがあるか。そういう油断が命取りになるんだぞ、もう一番年下じゃないんだから 少しはしゃんとしろよ」  「…はい。気をつけます…」  どう考えても、悪いのは戦の中でぼんやりしていた自分なので、環は肩を落としつつ素直に謝った。環の剣の技量 は、現時点で既に父の将臣を凌ぐほどであるはずなのだが、どうにも要領が悪いところとおっとりした部分があるせ いで、よくこのような調子で紫苑に叱られるのであった。    「お前、何きょろきょろしてんだ?」  本堂で夜明かしをすることにした二人だったが、もの珍しげに周囲を見回している環の様子に、紫苑は怪訝な顔を した。  「あ…前来た時は、私寝ちゃったから…こんな造りになってるんだ、って。どういう仕掛けなのかな、あの壁の灯 り…油を足さなくても、あんなに明るい。それに前は夏だったから気づかなかったけど、この中は外よりも随分温か いみたい。何でかしら、鬼が入ってこないようなところだから、不思議な力が働いてるのかな」  「ああ。そういやあの時は、俺が様子見て戻ってきたらもうぐうぐう寝てやがったんだよな、お前」  紫苑はからかうように笑う。ここには鬼が来ないことが分かっているから、家にいるときの紫苑と同じ顔になって いる。からかわれているというのに、そんなことでも環には嬉しく思えた。  「あの時は、残月兄もいたなぁ」  だだっ広い本堂の床に座り込んで、周囲を見渡しながら紫苑がぽつりと呟いた。  「うん…」  紫苑の口調がどことなく沈んだもののようになった気がして、環は努めておどけたような笑みを浮かべてみせた。  「私、あの時残月兄様の肩に寄りかかって、朝までずっと寝てたんですってね。起きたらすぐ横に残月兄様の顔が あって…笑顔でおはよう、って言ってくれたの。その時はとにかくびっくりしちゃってたし、その後すぐ帰ることに もなったから、何でそんなことになってたのか、なんて考える余裕も、残月兄様に尋ねる余裕もなかったんだけど… 家に帰って暫く経ってから、狭穂姉様から教えてもらったの。それで、朝まで私のためにじっとしててくれたのかな、 って思ったら何だか申し訳なくなっちゃって。残月兄様にあの時はごめんなさい、って謝りにいったの」  「なんだ、お前そんなことで謝りに行ったのか?」  驚いたように眉を跳ね上げた紫苑に、環はうん、と照れ笑いした。  「残月兄様からも何のことだったかな、って笑われちゃった。でも、悪いかな、って思ったの…ずっと同じ姿勢で いるのって、大変そうじゃない?」  「家に帰って暫くしてから言われたって、残月兄だって困るだろ。お前、そんなことに気ぃ回してる暇があるんな ら、さっきみたいに戦の中でぼさっとするなよ」  「うん。ごめんなさい」  紫苑の言葉に笑みが含まれているのを感じて環はほっとしたが、それきり話題が途切れてしまい、沈黙がその場に 落ちた。  (ほんとに…今は、二人しかいないんだ)  改めてそのことを認識し、環は視線を落として瞬きを繰り返した。討伐先でも家でも、今までにない状況だった。 残月は元々あまり話す人ではなかったが、紫苑と環が一緒にいる時は大抵狭穂かイツ花がその場にいて、遠慮のない 陽気なやり取りをしていたはずだ。  (どうしよう…何だか、話が続かない)  自分も、あまり話すことは得意ではないのだ。今は咄嗟に残月のことで話題を作ってはみたが、その後が続かない。 狭穂やイツ花がいないとこんなにも間が持たないものだろうか、と、環は床を見つめながら困惑していた。この間の 夜、紫苑に声をかけた時とは状況が違うためだろうか。彼女の唇は、今回は思うように動いてくれそうになかった。  ちらりと紫苑の方に目をやると、紫苑は自分の方を見ていた。紫苑と目が合い、環の胸の奥で一瞬だけ鼓動が高鳴 る。思わず、声が上ずった。  「え…えと。何?」  「お前、この家に来てどのくらいになる」  「どのくらいって――もうすぐ五ヶ月…かな」  「…そっか。早いもんだな」  紫苑は本殿の神秘的な明かりを背に、今まで見たことのないような柔らかな笑みを浮かべた。  「え――」  不意に深い青色の双眸に優しく見つめられ、環の身体の底の方から頬に向って一気に火照りが駆け上る。動転のあ まり、火にかけられた鍋というのはこういう気持ちなのだろうか、などということまで考えてしまった。  生憎環は鍋ではないので、火照ったら火照っただけの色が容易に頬に出てしまう。その色を紫苑に知られたくなく てそっぽを向いてみたが、視線の先はだだっ広い本堂の壁と床が広がるだけである。自分達以外の生き物は勿論おら ず、その場の静寂が耳に痛いほどだった。先程は一瞬だけだったが、今度は心の臓が胸を突き破りそうなほどに激し く鼓動を打ち始め、甲冑がそれに合わせて震える。音が紫苑に聞こえてしまうのではないか、と環は焦った。  座り込んでいる本堂の床が、いやに冷たく感じられた。とにかく何か話さなければ。混乱しながらも、何とか話題 をひねり出そうと環が目を逸らしたまま四苦八苦していると、紫苑はそんな彼女の心境を知ってか知らずか、くすり と笑ったようだった。  「俺さ」  環が頬を染めたまま振り返ると、紫苑はもう自分の方を見ていなかった。片方の膝を立てて座り込み、灯りに照ら された横顔をこちらに向けたまま、何気ない口調で続ける。  「来月、交神することにしたよ」  話題を急に変えられて、環は瞳を瞬かせた。何故環が家に来て何ヶ月か、という話から、交神の話になるのだろう。  「俺は当主――だからな。狭穂姉の代わりに、多くの血を残さなきゃならないからさ」  紫苑は瞳を軽く伏せ、右手の指輪に触れながら僅かな笑みを浮かべた。『当主』という言葉の後に、少し間があっ た。  「俺さ――」  紫苑は先ほどと同じ柔らかな笑みを浮かべ、顔だけを環に向ける。環は、小作りな耳たぶまで桃色に染まっている のを隠すのも忘れ、紫苑の口が次は何を紡ぎだすのかと見つめていた。心の臓は相変わらず大忙しの状態だったが、 紫苑からそんな風に笑いかけられるのは、むしろ心地よかった。  「ほら、俺の髪ってさ。赤い上に針金みたいだし、襟足が逆毛だろ。母さんはそれから思いついたらしいんだけど ――ほんとは飛ぶ炎、って書いて飛炎っていう名だった。俺は初陣で当主になっちまったから、この名は結局二ヶ月 しか使われなかったけどな。俺の子も、もしかしたらそのうち当主を継ぐことになるのかもしれない。けど――あん まり若いうちから当主やるとさ。せっかく頭ひねって名前考えてやっても直に使われなくなっちまうから、何かつま んねえよな。俺、長生きしねえと」  はは、と紫苑は小さく笑って目を伏せた。  「明日も明後日も鬼討伐だ。俺が見ててやるから、先に寝ろよ」  「あ…うん」  このまま起きていても、照れくさくてまともに話せそうにないと思ったので、環は紫苑の言葉に甘えることにした。 うろうろと視線を泳がせながら曖昧な返事をしつつ、紫苑に背を向けて床に寝転がる。ひやりとした床に耳をつける と、自分の心の臓がまだ早鐘を打っているのがよく分かった。瞼を閉じると、先ほどの紫苑の表情が鮮やかに蘇って くる。  (紫苑って…あんな顔もするんだ)    初陣の時、泣きながら死なないと言った環に、普段は小憎らしい顔しかしなかった紫苑が優しく笑いかけてくれた のをはっきりと覚えている。でも、あの時とはまた少し違う、春の日差しのように暖かく柔らかな笑みだった。  まだ頬が熱い。本殿の床の冷たさが心地よかった。  飛炎。  声には出さず、そっと唇の動きだけでそう呟いてみる。紫苑の本当の名。秘密の言葉を教えてもらったような気分 で、嬉しかった。  環は腕を頭の下に敷き、少し体勢を変えた。その動きを見た紫苑が眠れないのか、と声をかけてきたが、寝入った ふりをしてやり過ごした。静寂の帳の中、ぼんやりと思考に沈む。  ――来月、交神する。  交神の儀。神との子を授かるための、神聖な儀式とイツ花から聞いている。  子を――授かるための。  ちくり、と胸の奥が痛んだ。寝付くには、時間がかかりそうだった。  
 
鎖その7へ 鎖その9へ 『俺屍部屋』へ