それからさらに三ヶ月が流れ、環は紫苑と二人で再び相翼院に足を運んでいた。この三ヶ月。父の死とともに環自 身も、周辺も大きく変わった。環は、父の死によって涙を流し尽くしたかのように討伐隊に加わって無我夢中で戦い、 めきめきと力をつけていった。元々整った顔立ちも、成長するにつれて美しさを増した。  前を歩く紫苑の後姿も、もう成長途中の少年のものではなくなっていた。逞しく筋肉がついた、成人した男の背中 である。環より少しだけ高かった背丈も、体格の発達とともに急激に伸びた。以前のように環にちょっかいを出すこ とはなくなったが、その代わりにからかうような軽口を叩くようになった。しかし討伐先で手厳しいことについては 変わることなく、容赦なく環を叱咤することもあった。  そして、残月が死んだ。  つい先日のことだ。交神の儀を終えてすぐ、紫苑も予想できなかったほどの急逝だった。討伐に赴く直前に体調を 崩し、僅か一歳五ヶ月の短い生涯を閉じたのである。思いがけず彼を置いて出陣することになった討伐隊は、その臨 終の床には間に合ったものの、授かった男の子――隼斗と名づけられた――は、父の死と入れ替わるようにして日下 部家へ来訪することとなった。  残月との無言の対面を隼斗が果たした夜。部屋の簾を下げようとした環は、か細い月明かりの中で簀子の階に座っ ている紫苑に気がついた。その姿にはいつものような威勢の良さがなく、どことなくしぼんでいるようだった。  「眠れないの?」  環が近寄って声をかけると、振り返った紫苑は月明かりを背に薄く笑みを浮かべた。黙ったまま、環が紫苑の横に 座る。  暫くは二人とも無言だった。冴え冴えと済んだ空に、刃のような月がぽっかりと浮かんでいる。庭では、秋の虫達 がその声音を競い合っていて、庭全体が鳴いているようだった。庭の木々が、仄かな青白い明かりに照らされてぼん やりと浮かび上がる様は、藍色の紙に墨で描いたかのようだ。  「…隼斗のことな」  ぽつりと、紫苑がつぶやいた。環は黙ったまま聞いている。月を見上げる紫苑の表情は、暗いことも相俟って、環 の方からはよく見えない。  「俺のせいだ…残月兄の体の調子に、もっと気を配っておけば……」  紫苑は月から視線を落とし、片手で目を覆った。将臣が死んだ時にも涙を見せず、傷心の環を気遣うことさえした 紫苑。その紫苑が沈み込んだ声を発するところを、環はこの家に来てから初めて見る。  日下部家では、神と交わる儀式は晩年になってから、ということが通例になっていた。身体も精神もぎりぎりまで 鍛え上げ、その全てを生まれてきた子に託して死んでゆく。親と共に過ごせる時は短くとも、それが一番良いと皆が 判断したからである。  そして、交神の時期を決めるのは――全て当主の判断に任されている。  「…紫苑のせいじゃないわ。残月兄様のことは、本当に急だったもの。先月までは、どこも何ともない様子だった し――」  紫苑は顔から手を離すと、裸足のまま庭に下りる。環はどうしたものかと一瞬悩んだが、座ったままその背中を見 守ることにした。  「…隼斗の指南は、狭穂姉がしてくれるって…」  紫苑の従姉にあたる狭穂は、紫苑から持ちかけられた交神の話を断っていた。  ――私は、交神しないわ。  狭穂は、そう言って寂しげに微笑んだのだという。  ――残念だけど、私は…母様の持っていた強い力を受け継ぐことができなかった。私の戦い方を見ていれば、分か るでしょう?  ――だから…紫苑が、その強い血を少しでも多く残して。あんたの力は、この先絶対に必要になるもの。  ――隼斗の指南は私に任せて、紫苑は討伐に行きなさい。今は人数が少ないんだから、その方が安心だわ。  狭穂は身体つきが小柄で華奢だ。腕の力が弱いため、薙刀があっても鬼が相手では力負けしてしまう。また、体も あまり頑健とは言えないので、かすり傷と思っていたものが後々まで尾を引くことがある。今月は、臥せって討伐隊 の帰還を待つ残月が気がかりだったのか――ふとした油断から受けた傷のために、討伐先で熱を出してしまったのだ。 術はあくまでも体の傷を塞ぐためのものであって、熱を下げることはできないから、手持ちの薬でだましだまし討伐 先から帰還して何とか事なきを得た。  薬を飲んで休んだお陰で今はすっかり回復しているが、まさか狭穂までもが、と環は帰還までの間大層心細い思い をした。紫苑がその状況でも全く動じることなく、いつもどおりきびきびと仕切ってくれなかったら、環の方が不安 で心が折れてしまっていたかもしれない。  環もまだ討伐隊に加わって月が浅く、さほど場数を踏んでいるというわけではない。しかし、今まで見てきた限り では、確かに狭穂が鬼と直接刃を交えて戦うことはあまりなかったように思われた。思えば環の初陣の時も、環の世 話をするという役目があったにせよ、戦う時は後方から術で皆を援護することがほとんどだった。  紫苑は勿論、そんなことで狭穂のことを区別したりしない。環も――恐らく残月も、同じ思いだったろう。狭穂は 前に出ない分、後ろから討伐隊の様子をよく見て的確に援護をしてくれるし、朗らかな人柄で張り詰めがちな討伐隊 の雰囲気を和ませてくれる。紫苑が狭穂に交神の話をしたのも、本心からだったに違いない。  狭穂の方も、紫苑が裏表のない気性であることを知っているから、従弟に遠慮することなく意見する時はびしびし と意見する。大体狭穂が意見する時は紫苑にとって耳が痛いことが多いので、紫苑も言い返せずに沈黙することにな る。  しかし、先代と並ぶ実力者だったという母親のような力を持つことができなかった――それを誰よりもやるせなく 思っていたのは、狭穂自身だったのだろう。持って生まれた体のことであるから、こればかりは努力だけではどうす ることもできない。初陣では、自分のことを一番身近で気遣ってくれた狭穂がそんな思いを抱えていたことを、環は 初めて知ったのだった。  紫苑は黙り込んでいる。かつて環にも言ったように、泣き言を言えば朱点童子に負けると考えているからだろう。 だがそれだけに――今庭に佇んでいる無防備な後姿からは、彼がけして口に出さない苦悩がありありと見て取れた。  自分が判断を見誤ったせいで、残月が息子に会えないまま死んだこと。  自分の存在が、何の非もない従姉に交神をためらわせてしまったこと。そしてその従姉が、自分がやるべき隼斗の 指南を引き受けてくれたこと。  環はそんな紫苑の背中を見守るばかりだった。声をかけた方がいいのか、かけるにしても何と言ってやればいいの か。こういう時、気の利いたことが言える性分でないことは、自分でもよく承知している。  口を開いてはためらい、ためらっては開こうとして、沈黙がその場に落ちた。庭に響く様々な虫の声と、わずかな 夜風が草をさらりと揺らす音だけが聞こえる。  もしかしたら、紫苑は一人になりたいのではないだろうか。自分なんかがいても、邪魔なだけなのではないだろう か。ためらいの気持ちが、そんな後ろ向きな結論を導き出した。  「…誰も、紫苑のせいだなんて思ってないわ…だから、元気出して。ええと、もし邪魔なようなら私…もう行くね」  気休めにもならないような台詞だ、と自分自身に苦笑しながら、環が簀子から腰を上げようとした時。    「…悪い。もうちょっと…そのままいてくれねえかな。…いてくれるだけでいい」  均整の取れた背中を向けたまま、紫苑がぽつりと呟いた。意外な言葉に、立ち上がりかけていた環は大きな瞳を瞬 かせてその背中を見つめ、再びそっと腰を下ろした。紫苑は俯き加減に佇んだまま、それ以上は何も言わない。その 場に再び沈黙が落ちようとしたが――  「紫苑…自分のこと、責めないで」  環の口から、言葉がするりと滑り出てきた。  いてくれるだけでいい、と言った紫苑の真意は環には分からない。  (でも…何か言わなくちゃ)  気の利いたことなんか言えないけれど、それで少しでも紫苑の気持ちが晴れるのなら。  そう思うと、自分でも意外なほど唇が動くようになった。  「亡くなった残月兄様や父様…狭穂姉様…紫苑や私、隼斗も…みんな天からここに来て、それぞれ自分の生を全う していくでしょう。残月兄様は急に命の終わりが来てしまって、隼斗に逢えなかったけれど…私や紫苑や狭穂姉様に、 何かを残していってくれたんじゃないかな、って思うの。何か、って…うまく言えないけど…そう、一緒に過ごした 思い出とか、教えてもらったこととか…形に残るものじゃないけれど、とても大切なもの。残月兄様と一緒に討伐に 行ったこと、この家で過ごしたこと…私にとってはみんな大事な思い出だから」  紫苑はか細い光に身を任せたまま、環の言葉に耳を傾けているようだった。  「狭穂姉様だって、今まで私に色々なことを教えてくれた。この先、隼斗の指南をすることで…隼斗にも、狭穂姉 様にしかあげられないものをたくさん残していってくれるんじゃないかな。紫苑だってそう…きっとこの先、同じよ うにみんなに…紫苑にしかあげられないものを残していくと思うの。残月兄様は、隼斗に逢えなかったからって紫苑 のことを責めよう、なんて思うような人じゃなかったでしょう。私はむしろ、隼斗のことを頼む、って笑って言って くれるような人だったと思ってる。私も狭穂姉様も、勿論紫苑のせいだなんて思ってないわ。だから…紫苑も、自分 のことをそんなに責めないで。今紫苑にできることを、できるようにしたらいいじゃない」  それに、と心の中で環は付け足した。  そんな風に苦しむ紫苑は、見ていられないから。  今までどおり調子のいいことを言って、元気よく振舞って欲しいから。  「俺にしかあげられないもの…か」  吐息と共に、紫苑がぽつりと呟いた。  「そうだな。今できることからやらねえとな。…まったく、らしくもねえ」  「うん」  それでこそ紫苑よ、と思わず嬉しくなって、環が大きく頷いた時。  「…ありがとな、環」  紫苑は背を向けたまま、独り言のように――囁くような優しげな声で、そう告げた。「え――」  思いがけない言葉だった。環の胸が内側から激しく音を刻み始め、抜けるように白い頬がみるみるうちに桃の実の 色に染まる。紫苑からからかわれたり叱られたりすることは今までにもいくらでもあったが、こんな風に礼を言われ るのは初めてのことだ。それだけと言えばたったそれだけのことなのだが、環はどう返答していいか分からなくなっ てしまって、あ、え、と口の中で呟いておろおろと視線を泳がせた。  「――そういや」  背後で環がおろおろしていることなど知る由もない紫苑は、不意に底抜けに明るい声を出した。  「今度の討伐はどうする」    「えっ?」  「隼斗は初陣前だし、狭穂姉はその隼斗の指南だ。出られるのは、俺とお前の二人だけだぞ」  すっかり狼狽して、熱く火照る両の頬に手を当てていた環だったが、その言葉で平静さを取り戻した。  「あ…うん。そう…よね。どうしよう」  「しょうがねえな、相翼院にでも行くか。こないだは、お前がてんでだらしなかったからなぁ」  そう言って振り返った紫苑は、いつもの顔をしていた。ほっとする反面、赤くなった頬が紫苑にわかりはしないか と心配になりながら、環は努めて元気よく頬を膨らませてみせた。  「もうっ。あの時のことは蒸し返さないでよ」  「もうやだ、やだって泣き喚いてたもんな。あそこの鬼になめられるといけねえから、もう一度行っといた方がい いんじゃねえか」  「紫苑っ」  あははは、と快活に笑って、紫苑が簀子へ戻ってきた。  「さぁて、と。んじゃ寝るか。お前も早く寝ろよ」  「足拭かないとイツ花に怒られるわよ」  わかってるって、とひらひら手を振りながら、紫苑が奥へ消える。環はその後姿を見送ると、ふう、と吐息をつい た。  当主という立場が、いかに大変なものであるかを改めて思い知らされた気がした。将臣に言われた時は実感が湧か なかったが、当主の判断がどれほど一族を左右するか、月を経るごとによく見えるようになってきている。  紫苑が若くして当主になることを望んだ経緯については、将臣から『敬愛する母親から直接当主を引き継ぎたいと 願った』としか聞いていない。ある時直接本人に聞いてみたが、どうだっていいだろそんなこと、と仏頂面ではぐら かされてしまった。自分も将臣のことをどう思うか、と聞かれれば、心から尊敬する大切な父である、と答えるであ ろうから、仔細はどうあれ環の聞いたとおりのことだったんだろうな、とも思う。大体紫苑の気性からして、どう考 えても環の前でそんな台詞を言ってくれそうにない。  ふと、指折り数えてみた。四ヶ月。環がこの家に来てから既にそれだけが過ぎ、直に五ヶ月目を迎えようとしてい る。今の自分の歳には、紫苑はもう当主だったのだ。自分に、紫苑のような振る舞いができるとはとても思えなかっ た。  先程ひらひらと振っていた右手の薬指には、相変わらず当主の指輪が光っていた。あの小さな指輪ひとつに、どれ だけのものが詰まっているのか。環には想像もつかない。  (強いな、紫苑って…こんな重いものを、自分から望んで背負おうと思ったなんて)  つくづく、そう思う。顔も知らない先代が、いかに本人が望んだからと言って、若干二ヶ月の息子に一族を託そう と決断したのも分かる気がした。でも。  自分もできる限り、紫苑の手助けをしたい。悩みながらそれでも当主として皆を導こうとし、明るく振舞っている 紫苑の心を少しでも軽くしてあげられたらいい。そう思った。  環は高欄にもたれかかり、思考に沈む。その長い髪を、夜風がそっと撫でていった。
 
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