翌朝。結局、朝まで深い眠りに落ちていた環は、紫苑が急に「帰る」と言い出したので目を丸くした。帰還するに はまだ早いはずだ。残月も狭穂も、唐突な当主の言葉に驚いたようだった。  「紫苑、どうしたの?だって昨日はそんなこと一言も――」  「帰るったら帰る。行くぞ」  狭穂の問いをぶっきらぼうに遮って、紫苑はすたすたと今まで来た道を引き返していく。その様子を見た残月が行 こう、と呟いて歩き出し、狭穂も何かを察したように続いた。一人呆気にとられていた環が、慌てて一行を追いかけ る。  状況が今ひとつ飲み込めないが、当主の帰る、という一言で、無理矢理押し込めていた父への想いが溢れかえって きた。  (やっと…帰れるんだ)  自分は間に合うだろうか。  父は自分を出迎えてくれるんだろうか――  出立前、既に立つことも辛そうだった。環はその父の姿を思い出し、唇を噛む。気が付くと、狭穂が行きの時と同 じように環の手をそっと握ってくれていた。  「大丈夫よ、環。将臣兄さんはきっと、あなたの帰りを今か今かって首を長くして待ってるわ。だからここを出る までは、戦うことを第一に考えましょう。ぼんやりして怪我なんかしたら大変、元気な姿を見せてあげなきゃ」  ね、と微笑む狭穂の気遣いに危うく涙がこぼれそうになって、環は唇を噛んで頷くと、無言でずんずん歩き続けて いる紫苑の背中を追った。  来る時に比べて環が怖がらなくなっていたので、帰り道は大したこともなく、予定の日より五日ほど早い帰宅とな った。  「あれっ?当主様、お早いお帰りですね!」  門の掃除をしていたイツ花が、討伐隊の姿を認めて素っ頓狂な声を出した。紫苑は、討伐隊に無理がないようであ れば、少しでも前に行こうとするところがある。その辺りは、呪いなんか笑い飛ばしてやる、ということを自負する 彼の気性ゆえで、討伐隊もそんな彼の気性を知っているから黙って当主について来る。そんなわけで討伐が予定より 長引きがちになり、帰還が遅れる。環が来訪した月もそうで、帰還が遅いならばともかく早いことは初めてだった。 しかし、イツ花は素っ頓狂な声を出した後すぐによかった、と安堵したように顔をほころばせた。  紫苑はそれには応えずにイツ花の前に進み出ると、将兄は、と短く問う。イツ花はええ、と小さくつぶやいて顔を 曇らせた。その様子に嫌な予感がして、環は知らず知らずのうちに二人の間に割って入っていた。  「イツ花、父様は――父様は?どこにいらっしゃるの、お元気なの?」  イツ花は環から目を逸らすと、ええ、その、と言葉を濁した。  「もう、かなりお体が弱っていらっしゃって…当主様のお帰りまで持ちこたえて下さるだろうかと、気をもんでい たんです。間に合ってよかった」  その時ようやく、環にも紫苑が早く帰ると言い出した理由が分かったのである。環はイツ花の横をすり抜けて駆け 出した。空けていたのは一月にも満たない間だったのに、とても懐かしい家。父に指南してもらった庭。幾度となく 足を運んだ部屋の簾をくぐり、几帳の向こうに回りこんだ。  「父様っ!!」  床の上で、将臣が寝ていた。将臣は討伐隊の出陣前よりもさらに痩せたのではないかと思われたが、甲冑に身を包 んだまま肩で息をしている愛娘を見、驚いたように目をかすかに見開いて薄く微笑んだ。  「環…?お帰り、怪我は無かったか?ちょっと見ないうちに大きくなったな…」  「父…様…」  「おいで…よく顔を見せてくれ」  父を前にして色々な思いが溢れかえってしまい、環は言葉を発することができなかった。代わりに涙がとめどなく 両の目からあふれ出てくる。傍らにへたりこんで父様、父様と泣く環の髪を、将臣は優しく撫でてやった。  「将兄。加減はどうだ」  ぶっきらぼうな声がして、イツ花も含めた四人が部屋の入り口に立っていた。  「ああ、…残念だが、俺の命は…もう尽きる。死ぬ前にお前たちに会えてよかった…」  「そんな!嫌です父様…置いていかないで…!」  最早、発する言葉が吐息のようになっている父に、環がすがりついて泣く。その横に、紫苑がどすどすとやってき て勢いよく腰を下ろし、おもむろに口を開いた。  「将兄。環の初陣、立派だった。さすが将兄の子だ」  「え…っ?」  討伐の間、自分のことを泣き虫だのお荷物だのへっぴり腰だのと散々な言いようだったのに。まさかこのような言 葉が彼の口から出てくるとは夢にも思わなかったので、環は涙の筋を光らせたまま紫苑を凝視した。あどけなさの残 る紫苑の横顔は、相翼院で環に笑いかけてくれた時のように優しく――だが、どこか哀しげだった。  「だから…来月も再来月も、こいつのこと見てやってくれよ。そんな気の弱いこと言わないでさ」  将臣は、当主の言葉を受けて蒼白な顔に精一杯の笑みを浮かべた。  「そうだな…できるならお前たちより長生きして、一生を見届けてやりたかったな…」  そうして痩せた腕を伸ばし、涙でぐしゃぐしゃになった環の頬を慈しむように撫でた。  「だが…ちょっと難しそうだ……環」  呼びかけられて、環が弾かれたように顔を上げる。  「気立ての優しいお前のことだ、戦いが辛くなることもあるかもしれない…だが、お前はけして一人ではない。紫 苑、残月、狭穂…イツ花…一族の皆がいる…そして…俺も。常にお前の傍で、お前を見守ろう…だから、そんなに泣 くな。笑って、見送ってくれないか…」  環はとめどなく涙を流しながら、はい、はいと頷く。今は父の言葉を、一つたりとも逃さず心に刻み付けておきた かった。  「紫苑、残月…狭穂も…そしてイツ花も…有難う…今ま…で…」  「父様!父様…ぁ…!」  次第に力を失っていく将臣の手を握り締め、環が泣き崩れる。しかし、将臣は愛娘の言葉に二度と応えることなく、 そのまま眠るように息を引き取った。環の泣き声だけが響く中、イツ花が沈痛な表情でぽつりと呟いた。  「…ご立派な、最期でございました…」  「父――!!」  物言わぬ父にすがりついて泣き続ける環の髪を、優しく撫でる者がいる。紫苑だった。  「泣くな、環。将兄が言ったろ。泣かないで、笑って見送ってくれって。お前がそんなに泣いてたら、将兄が心配 する」  紫苑は環の方を見ていない。真っ直ぐに前を見て、手は環の髪を撫でてやりながら。  ひっく、ひっくと小さな肩を震わせる環に優しく語りかける。  いつも、将臣が環にそうしていたように。  「さぁ、挨拶するぞ。今まで立派に呪いと戦い抜いた将兄に、一番敬意を払う時だ。泣き顔じゃあみっともないだ ろ。ほら」  紫苑に促されて、環は嗚咽を漏らしながらもゆっくりと身を起こした。父の死の悲しみを振り払うかのように袖で ぐしぐしと顔を擦る。紫苑は姿勢を正し朗々たる声で挨拶の言葉を述べた。  「みんないいか。――将臣殿、長い間お疲れ様でした!」  お疲れ様でした、と残月と狭穂が、イツ花が、そして息をするのもやっとという環が最後につぶやいた。  優しかった父。大好きだった父。  死に顔は、まるで微笑んでいるかのように穏やかだった。  (今まで、有難うございました…)  環は、将臣から隣に座っている紫苑に視線を移した。紫苑はこちらを見ることなく、天寿を全うした将臣を黙った まま見つめている。その表情はあくまでも穏やかで、毅然としていた。  討伐に出ていた時には特に気にも留めていなかったが、紫苑の右の手、手甲の下に隠れるようにして指輪がはまっ ているのが見えた。日下部家当主の証――当主の指輪。代々の当主が受け継いできたものだと聞いている。  この家に来たての頃は、当主とは凄く大きくて怖い人のことだと思っていた。三ヶ月違いの紫苑は、その思い込み を粉々に打ち砕いてしまったけれど。  それでも、彼は間違いなく当主なのだ。  そう、思った。   
 
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