長い長い橋の奥に、大きな建物の入口が見えてきた。そして入口の前、羽休め台のように広くなった橋の上に、奇 怪な顔の像が四体立っている。小太りで不自然に長く伸びた鼻を持ち、めいめいが踊るような格好をしていて今にも 動き出しそうだ。人ではなさそうだが、こんな生き物は今までに見たことがない。環は小首を傾げた。  「あの像が立っている場所が、キサの庭だ。あの四体の像は歓喜の舞という。もとは天竺の神を祭った像であった そうだが…何の因果か鬼の魂が宿ってしまい、あそこを通ろうとする者に害をなすようになった」  訝っている環の様子に気づいた残月が、それとなく説明してやる。  「お前自身の力を信じて戦えば恐るべき敵じゃない。目をそらさず、前を見ていろ」  (自分自身の力を…信じる)  環は、将臣との指南の日々を思い返していた。父はたどたどしく木刀を振る自分をいつも優しげに見守ってくれ、 初めて打ち合った時は筋がいい、とたくさん誉めてくれた。  ――将兄が指南した、将兄の子だろ。だったら、あんなやつに少しぐらい撫でられたってどうってことない。  さっき、紫苑はそう言った。  自分の力を信じない、ということは、父の指南を信じない、ということと同じだ。大好きな、敬愛する父が指南し てくれたのだ。信じられないはずがない。  大丈夫。  (大丈夫、きっと…戦える。戦ってみせる)  環は唇を引き結ぶと、残月に言われたように前を見据えた。  歓喜の舞と呼ばれる像は、思ったよりも大きかった。像の土台を差し引いたとしても、一族で一番の長身である残 月より大きいであろう。横幅もある。近づいて行くと、その威圧感だけで押しつぶされそうになる。  像に歩み寄っていく紫苑の背中が、再び鋭い気を張り詰めている。狭穂と残月の構える薙刀が、夏の陽光を反射し てまばゆく輝いた。環の細い喉が、こくりと鳴る。抜き放った刀の切っ先が、緊張で小刻みに震えた。  「…来るぞ」  歩きながら紫苑が低い声で呟き、残月が薙刀を構えたままゆっくりと息を吐き出した。ざわり、と風が揺らぐ。  「散れ!」  紫苑の鋭い声と共に、狭穂と残月が左右に飛ぶ。反射的に、環も後方へ飛び退った。  目の前を、巨大な刃が掠めていく。地響きと共に橋にめり込んだ蛮刀をゆっくりと引き抜き、動き出した異形の神 像が獣のような咆哮を上げた。今まで石像だったはずの四つの影が、その巨大な体躯からは想像もつかない身軽さで 襲いかかってくる。  環は神像の一撃をかわすのが精一杯だったが、初めて三人の戦いぶりをはっきりと目にした。  「すご…い…」  思わず、言葉が口から漏れた。  紫苑が、残月と狭穂に的確に指示を出している。狭穂が敵を撹乱する幻を生み出し、残月は紫苑の指示どおりに敵 の一体を薙ぎ払う。断末魔の絶叫と共に、異形の神像が土くれとなって崩れ落ちた。指示を出しながらも、紫苑は敵 のもう一体に拳を三発叩き込んで粉砕する。  ――当主になるということは、一族全員の命を預かるということだ。  ――鬼との戦ではその流れをつかみ、自らも戦いながら味方を指揮しなければならない。  その役目を、まだ少年の紫苑は見事に果たしている。家にいるときの小憎らしい表情とはまるで別人だ。環は息を 飲んだ。  「――環!」  紫苑の声が飛ぶ。それで、環は我に返った。  「何やってんだ!早くそいつを斬れ――」  紫苑の言葉が終わるか終わらないかのうちに、歓喜の舞の一体が蒼白い雷光を放つ。全身に激痛が走った。  「…ぁあああっ…!!」  「ちっ!」  環ががくりと膝をつき、紫苑が舌打ちする。狭穂が再び幻を生み出す術の体勢に入り、残月が環の援護をするべく 駆け寄ろうとした。無防備な環に、歓喜の舞のもう一体が襲い掛かる。環は霞む視界の中、その巨体を認めて唇を噛 んだ。  「環!」  残月が自分を呼ぶ声が、他人事のように聞こえた。  ――駄目…!やられる…!!  刹那。目の前を赤い疾風が駆け抜けた。  気合の声と共に繰り出した拳が、環に迫っていた神像にめり込む。鈍い音と共に、それは粉々に砕け散った。  「え…?」  「――この莫迦!ぼさっとしてると死ぬぞ!斬れ!」  拳を繰り出した格好のまま振り返った紫苑が、へたり込んでいる環を怒鳴りつける。その横から残りの一体。一番 戦い馴れしていないと踏んだのだろう、環に向って蛮刀を振り上げる。  「環!」  紫苑が再び怒鳴る。環は、迫り来る像に視線を走らせた。  それは、ひどくゆっくりと動いているように見えた。  ――父様よりも、ずっと遅い…!  環の顔つきが、変わった。  振り下ろされる刀を低く腰を落としてかわし、そのままの体勢から相手の胴を一気に払った。  「やぁっ!」  一瞬の間があった後。最後の一体の上半身が、胴から綺麗に両断されて橋の上に落ちた。  「環!」  「環!大丈夫?」  狭穂と残月が、刀を握ったまま放心している環に駆け寄る。と、その前を紫苑がふさいだ。  環がぼんやりと顔を上げると、怒ったような顔の紫苑が立っている。不意に、強く手を引かれた。  ――怒られる。  環は反射的に首を竦めた。だが、紫苑の口から出てきたのは違う言葉だった。  「ったく…やりゃあできるじゃないかよ。散々手間かけさせやがって」  不機嫌そうに念をこらすと、紫苑の手から青く優しい光が立ち上る。それをゆっくりと環の腕にかざした。疲れも、 痛みも潮が引くように薄れていく。  環はくすぐったいような、驚きのような気持ちをかみしめたまま、仏頂面で術をかけてくれている紫苑をまじまじ と見つめた。自分の腕を取っている紫苑の手には、火傷――先程の雷によるものだろう――ができている。  「あ、あのね、紫苑――」  「よし、終わった。守ってやるのはこれっきりだからな。行くぞ」  環が口を開きかけた時、紫苑はくるりと背を向けてすたすたと入口の方へ歩いていってしまった。言葉の行き先が 目の前からいなくなってしまったので、環は口を中途半端に開いたままその後姿を見送るしかできなかった。  (助けてくれてありがとう、って…言いたかったのに)  そうして、言いつけを守れなかったことを謝って、紫苑の怪我を治してあげたかったのに。紫苑はといえば、環の 心の内などおかまいなしに、さっさと中に入ろうとしている。環は口を閉じて俯き、椿の花弁のような可愛らしい唇 を心持ち恨めしそうに尖らせると、とぼとぼと紫苑の後を追った。そんな環と紫苑を、残月と狭穂が優しげに見つめ ていた。  天女の小宮と呼ばれるその建物は、入口の門を潜るとすぐに広大な本堂がある。本堂の奥と左右に通路があるが、 日も落ちようとしていたのでこの場で夜を明かすことにした。本堂の中には何もなく、ただがらんとしているだけだ が、けして消えることがない蛍火のような淡い灯りが、壁という壁で揺らめいて様々な表情を作り出している。この 場所には何故か鬼は入ってこないので、他の場所に比べれば休む間に気を張らずに済む。  「何だ、だらしねえな」  念のため、奥の院に続く通路へ様子を見に行った紫苑が戻ってくると、環が残月の肩に寄りかかったまま小さな寝 息を立てていた。紫苑が呆れたように鼻から息を吐き出すと、残月はすやすやと眠る環に視線を落とし、無言のまま 微笑した。  「初めて自分から刀を振るったんだもの。気が抜けちゃったんでしょ」  狭穂が、自分の羽織っていた衣を環にかけてやる。まあこいつにしちゃ上出来だ、と紫苑がどっかと床に座り込む と、狭穂がくすくす笑った。  「何だよ」  「昼間にね、残月兄さんと話してたの。やっぱり似るもんなんだな、って」  「何が」  「あんた、先代に――お母様によく似てるわ」  携帯袋から干し飯を取り出して食べようとしていた紫苑は、狭穂にそう言われて仏頂面になった。  先代、つまり紫苑の母である八代目は、剛勇無双の拳法家として都でも名の知れた女傑であった。  ――泣いても笑っても、命の長さは変わらないんだ。だったら、呪いなんか全部笑い飛ばしてやりな。  ――泣いたら朱点童子の思う壺だよ。お前たち、あいつを喜ばせて満足かい。  ――あたしが死ぬからってしけた面するんじゃない。しゃんとしな。  「その一本気なところがね、ほんとそっくり」  「そりゃあ――親子なんだから似てて当然だろ」  乱暴に干し飯を口に放り込む紫苑を見て、狭穂は更に楽しげに笑う。  「ううん――普段の口癖は勿論、あんたがうちに来る前に言ってたことまで同じなんだもの。驚いちゃった」  狭穂は母がこの世を去って間もない頃、先代の指揮のもとで初陣に臨んだ。場所は、環と同じく相翼院。狭穂の母 は先代の姉にあたるが、先代は姪であり初陣の狭穂にも容赦なく戦いを指示した。戦い馴れていない狭穂がそれを満 足に実行できるはずもなく、残月や将臣に庇われてばかりいたのである。  度重なる戦いの末に狭穂は泣き出してしまったが、先代は全く気にとめず、さらりとこんなことを言った。  ――それじゃあ、キサの庭に行こうかね。  ――この辺の雑魚相手じゃ残月と将臣だけで片付けちまうだろう。狭穂にはいい慣らしになる。  ――姉さんの子だ。あんなのにちょいと撫でられたぐらいじゃ、死にゃしないよ。  「そっくりでしょ?まだ初陣だったあの時は、この人こそ鬼だ、なんて思って泣いてたけど。でも、私が歓喜の舞 に迫られて危なかった時、あんたと同じように誰よりも早く助けにきてくれた」  そして、狭穂が先代に助けてもらいながら必死になって歓喜の舞を打倒した時は、母親のような顔をしながら傷を 治してくれたのだという。  ――ほら。やればできるだろう、よく頑張ったね。  ――お前はどうやら後ろからの援護が向いているようだけど、戦がどういうものか、ひとりだけの時はどうしなき ゃならないか。そこのところは、ちゃんと自分の体で知っておかないといけないよ。  ――あたし達がいつでも守ってやれるわけじゃないからね。今ので、少しは分かったろう?  「そう言って頭を撫でてくれた手が優しくてね。あんたを見てたら思い出したわ。親子なんだなあ、って」  狭穂に笑いかけられて、紫苑は照れたようなふてくされたような顔をし、俯いてもごもごと口の中で何か言った後、 ふいと顔をそむけて横になってしまった。残月は、黙ったまま穏やかな笑みを浮かべ、環と紫苑とを見つめていた。  
 
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