相翼院は、広大な湖の上にある。院まで続いているという橋はどれほど長いのか、はるか向こうまで伸びており、 先がけぶってよく見えない。鏡のように静かな湖面は、橋とわき立つ入道雲の陰を鮮やかに写しだし、風がどこかで 鳴いている蝉の鳴き声を運んでくる。一見すると、とても鬼の巣とは思えない静かな場所である。地獄絵図のような 凄惨な場所を想像していた環は、拍子抜けしたように目を瞬かせたが、環以外の三人は相翼院の門をくぐった瞬間顔 つきを変えた。狭穂は大丈夫、みんないるからねと言って環の手を離して薙刀を構え、残月は切れ長の緑の瞳に鋭い 光を湛え、周囲を見渡す。  そして紫苑。  ――お前にちょっかいを出している間だけ、歳相応の男子に戻る。  声をかけるのがためらわれるほどだった。初陣の環にもそれがはっきりとわかるほど、紫苑のまだ小さな背中は気 を張り詰めている。まるで周囲の塵芥がその背中を避けているかのよう、隙は一片もない。  環が息を飲んだ時――  「後ろっ!」  紫苑の声が飛び、それとほぼ同時に残月の薙刀が光の軌跡を描いた。何か黒いものが噴き出して、身の毛もよだつ ような叫びが上がる。  狭穂に庇われながら、環だけが何が起こったのかわからないでいた。  「な…に…?」  狭穂の後ろからおずおずと顔を出した環が見たもの。  「……っ…!」  首を刎ねられた河童のようなものが、飛びかかった姿勢のまま橋の上にどす黒い体液を振りまいていた。環は声に ならない悲鳴をあげ、慌てて狭穂の後ろに顔を引っ込める。それを見て、紫苑が不機嫌そうに鼻を鳴らした。  「言ったろ。おままごとしに来たんじゃねえんだ。鬼との戦は、殺すか殺されるかの二つに一つしかない。鬼達は お前が慣れるまで待ってくれないし、みんなもお前のことをいつも守ってやれるわけじゃない。それどころか、お前 のせいでみんなが危なくなることだってあるかもしれない。一度出陣した以上、自分の身は自分で守れ。いいな」  まだ少年であるはずの紫苑の声は、死線を潜り抜けてきた者が持つ重みと厳しさを含んでいた。環は、放心したよ うに鬼の骸を眺めながら、ぼんやりと紫苑の言葉を聞いていた。  自分は、本当に鬼の巣にきてしまったのだ。鬼を殺す、あるいは自分が殺されるかもしれない場所に。今更のよう にそれをはっきりと実感し、膝が小刻みに震え、眩暈がした。  ――無事帰ってきて、元気な顔を俺に見せてくれ。  出立前に聞いた父の言葉が、はるか昔のことのようだった。  (どうしよう)  私には、戦なんて――殺し合いなんて、できない。  蒼白になって今にも倒れそうになっている環を、狭穂がそっと抱きしめた。  「大丈夫。大丈夫よ、環。さっきも言ったでしょう、紫苑も残月兄さんも私もいるから。あなた一人じゃないから ね」  狭穂の声はまるで母親のように優しく、抱きしめてくれた胸は柔らかかった。心の中で何かがぷつんと切れたよう に、環は狭穂に抱きしめられたまま静かに泣いた。  「ったく…最初からこんな調子で、この先大丈夫なのかよ。いつまでも愚図愚図すんな、行くぞ」  環がようやく泣き止んだ頃。いつの間にか真横にいた紫苑が苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向き、すたすた と歩き出す。後ろにいた残月がそれに続き、二人の横を通り過ぎる時に大丈夫だ、と言って笑うと、環の髪を軽く撫 でていった。  「狭穂、環の傍にいてやれ。この辺りの鬼だったら、俺と紫苑だけでも大丈夫だ。慣れるまで環を助けてやれ。環 もその方が安心するだろう」  ずんずんと歩きつづける紫苑を追いかけながら、残月がもう一度振り返る。狭穂はわかった、と言うように頷くと、 再び環の手を取った。  「紫苑のこと、嫌い?」  無言のまま大股で前を歩く紫苑の背中を眺めながら、狭穂が環に問いかける。それは咎めるものではなく、世間話 でもするような口調だった。  狭穂に手を引かれながら、環は黙って俯いていた。  家にいるときの紫苑は嫌いだった。でも、外にいるときの紫苑は――  自分でも、よくわからない。  敢えて言えば嫌いではなく、怖い。環とは三ヶ月違いでまだ元服前のはずなのに、紫苑はとても大きく感じられる のだ。彼女が来訪当初に思い込んでいた『凄く大きくて怖い人』という当主の印象に、ある種近いものを今の紫苑は 持っている。家にいる時とは全く別人の紫苑の姿に、環はまだ慣れないでいた。  狭穂はそんな環を楽しげにみつめ、前を行く紫苑と見比べた。  「…紫苑ね」  くすくすと笑いながら、狭穂は小首を傾げるような仕草をした。  「さっきあなたが泣いてた時、残月兄さんと一緒に周りを見張ってくれてたの。いつ鬼達が襲ってきても、すぐ応 じられるように。あなたの様子をちらちら見ながら、ね」  きょとんとした環の顔を見て、狭穂は更にくすくすと笑った。  「あの子、今までは自分が一番年下だったでしょ。だから、あなたが来てくれてほんとは凄く嬉しいのよ。兄貴ぶ って色々世話を焼いてあげたいみたいなんだけど、ぶきっちょだからどうしていいか分からないだけなの。あんまり 嫌わないであげてね」  「――聞こえてるぞ、狭穂姉!」  背中を向けたまま、紫苑が不機嫌そうに声を張り上げる。狭穂はまぁ地獄耳だこと、と軽く舌を出し、おどけたよ うに首をすくめた。紫苑はちらりと背後の二人を見やると、何好き勝手なこと言ってんだよ、と悪態をつきながら歩 みを速めていく。  「紫苑、ちょっと待ちなさい。歩くの速いわよ、私達を置いていく気?」  狭穂に手を引かれながら、環は普段と違う紫苑の一面を見たような気がして、目を瞬かせた。    「あぁもう、いい加減にしろ!やる気あるのか?!」  「だって、だって…」  紫苑の怒声と環の涙声が、長い橋の途中にある羽休め台の上で響き渡った。延々続く長い橋は、足を踏み入れるた びにその形が変わるという。鬼の幻術で成り立っているかのようなその不可思議な橋の上は、湖の中に潜む鬼たちの 格好の的のようで、橋の上を歩いていると突如水しぶきを上げて襲い掛かってくる。環はというと、相変わらず鬼と 戦うということに慣れられないまま、襲われるたびに泣いたり怖がったりの繰り返しだった。そうして狭穂が環を庇 い、紫苑と残月が鬼たちを蹴散らすという状態が続いていたのである。  紫苑は、気性の割には随分と辛抱強く我慢したし、環の方も嫌だとか帰りたいとかいった弱音だけは吐かず、戦い の場に踏みとどまろうという努力は見せていたのだが、ここでついに紫苑の堪忍袋の緒が切れてしまった。環は俯い たまま言い返すこともできず、目に涙をためている。  「そんなに怒るな紫苑。環は初陣なんだ、戦いに不慣れなのは仕方ないだろう」  宥める残月に、頬を高潮させた紫苑が猛然と食ってかかった。  「初陣初陣ってなぁ、二人して甘やかしてるからいけねえんだぞ。後ろに置いといたままで自分から斬ろうとしな いから、いつまでたってもへっぴり腰のままなんじゃないか。戦うつもりがないんなら一人で帰れ、目障りだ」  紫苑の容赦ない言葉が環の胸に突き刺さる。黙ったまま俯いた足元にぽつん、ぽつんと水滴が落ちて染みていくの を見かねて、腰に手を当てた狭穂が環を庇うように割って入った。  「しょうがないじゃない。あんたみたいに、最初から粗野で腕白で危ないことが大好き、っていう方がむしろ珍し いのよ。女の子は繊細なんだからね、誰かさんと一緒にしないでよ」  「男だろうが女だろうが、戦に出たら同じだろ。女の子なんだから、なんて言ってたらこいつが甘ったれるだけじ ゃねえか」  「戦が初めての子を私達と同じように扱えって言うの?あんたはね、環にちょっと厳しすぎるわよ。いきなりこん な血なまぐさい場所に放り込まれて、すぐ慣れろって言う方が無理な話でしょ」  遠慮のない従姉の物言いに、紫苑はぐっ、と言葉に詰まると、口を大きくへの字に歪めた。  「じゃあ、こいつがぴーぴー泣いてばっかりのお荷物のままでもいいってのかよ」  「そうは言っていない。だが今月はあくまでも環の慣らしということで出陣しているんだ、成果を急ぐ必要はない はずだろう」  「そうよ。眉間に皺寄せて叱ってばっかりいたら、環が可哀想だわ。来る時にも言ったけど、どうしてあんたはそ ういう言い方しかできないのよ」  環は、三人のやりとりを聞きながら、唇を噛みしめていた。この場から消えてしまいたかった。  自分が皆の足手まといになっている。  (もう…いや)  自分は初陣に出てきてしまったのだから、終わるまでは家に帰らないのだからと、今まで押し込めてきたその言葉 がふっと心に浮かんできた。  一度浮かんできたら、今まで押さえつけてきた分歯止めがきかない。涙とともに一気にあふれ返ってくる。  いやだ、こんなのできない、私には無理なんだ。  家に帰りたい、父様に逢いたい――  「あのなぁ――」  紫苑が更に苛立たしげに声を張り上げた時。  「…や…」  三人の視線が、俯いてうなだれていた環に集中する。環は、知らず知らずのうちに叫んでいた。  「もういやっ!こんな…こんなの、私にはできない…っ…!いやだ、帰りたいよう…」  「環――」  激しくしゃくりあげる環に、狭穂が肩に手をかけた。その時。  「甘ったれんな」  ぶっきらぼうに投げつけられた言葉に、環は俯いたままびくりと身をすくませる。紫苑、と残月が制止するように 小さく声を上げたが、紫苑は構わず続けた。  「嫌だろうが何だろうが、俺たちは鬼と戦わなきゃならないんだ。俺たちが生まれつき呪いに縛られてるってこと くらいは、将兄から聞いてるだろ――」  紫苑は一旦言葉を区切ると環の前までゆっくりと歩みを進め、再び口を開いた。  「お前、うちに来てから初陣までどれくらいの日にちがかかった」  「え…っ?」  思いがけないことを聞かれ、環はその意図を測りかねて泣きはらした目を上げた。  「えっ、じゃねえよ。どれくらい、ってきいてんだ」  残月に代わって今度は狭穂が口を開こうとしたが、紫苑は手を上げてそれを制し、環の返事を待った。戸惑ってい た環も、どうやら自分を叱ろうとするための質問ではないらしい、と気がついて、涙でつっかえつっかえしながら答 えた。  「え…っと…に、二ヶ月…?」  「そう。俺達は二ヶ月で初陣、八ヶ月で元服だ。でも――俺達以外の人、都にたくさん住んでる連中にしてみれば …八ヶ月なんかまだ小さすぎて、自分の足で立つことだってできないんだぜ。そして一年、二年と年を重ねて漸く大 きくなって歩けるようになって、何十年と生きるんだ。でも俺達はそうじゃない。俺達の命は、並の人よりもうんと 早く進んでるんだから。二年と生きられない、そういう体なんだ」  「二年と…生きられない?」  環は半ば呆然と、目の前に立っている当主を見つめた。考えたこともないことだった。毎日を過ごし、父に指南し てもらう日々が当たり前で、この先もずっと変わらないものだと思っていて――だから、父の突然の変調が余計に不 安だったのだ。  そう、指南の時に二ヶ月で初陣、八ヶ月で元服と教わった。日下部家の者はみんなそうしてきた、と言われたので、 取り立てて疑問にも感じていなかったことだ。  それが並の人なら、元服の歳でもまだ自分の足で立つことすらできないって?唐突に突きつけられたことを、認識 しきれていない。日下部の者は、朱点童子という鬼がかけた呪いのために人との間に子ができない。だから環は天の 母様から生まれたんだよ。神様が母様だから、環の髪の色も目の色も、都の人とは違っているんだよ――環が他に将 臣から聞いていることは、それだけだ。  紫苑は環の様子を見ながら静かに続けた。  「…将兄は病気で臥せってるんじゃない。命の終わりが…死ぬのが近いんだ。将兄はこの家に来て一年半経ってる から。お前だってそうさ。命があるのはせいぜいあと一年半――もしかしたら、それより短いかもしれないんだぜ。 俺達にかかってる呪いってやつは、そういうことだ。並の人にしてみれば、何十年ある命のうちの一年、いや一月く らいはどうってことないのかもしれない。でも俺達は…一月流れればそれだけ死ぬまでの時がはっきりと近くなる。 立ち止まってめそめそしてる暇なんかねえんだぞ」  臓を、冷たい手でつかまれたような気がした。父に忍び寄っていた得体の知れない影が、自分にもひたひたと近づ いてくるのが目に見えるようで、環は瘧のように震えが止まらなかった。ぐらりと傾きかけた環の背中を、狭穂が力 づけるように支える。縋るように見上げた狭穂の顔には、優しく、しかしどこか悲しげな笑みが浮かんでいた。  「どんなに泣いたって、命の長さが変わるわけじゃない。日下部にかかってる呪いを解く方法はただ一つだけ、呪 いをかけた朱点童子を討ち果たすことだけだ。だから朱点童子にたどり着くまで、鬼と戦を続けるしかない。でも、 もしそれがどうしてもできなくて…この先呪いで命の終わりが来るまで、戦うのが辛い、嫌だ、って泣いて過ごすこ とになるんなら――今、死んじまった方が幸せなのかもな」  環は、ぼんやりと立ち尽くしたまま、紫苑を見つめた。自分より少しだけ背が高い紫苑の顔には、家にいる時のよ うな小憎らしさや今までの戦いの中で見てきた厳しさはなく――少年の年頃であるはずの彼には不釣合いに大人びた、 達観したような色があった。  (私は――)  私は、辛いんだろうか。死んだ方が幸せなくらいに。  出立間際の、父の姿が過ぎった。  起きることも辛いはずなのに、イツ花に支えてもらって見送ってくれた。  父を見たら泣き出してしまいそうで、どんな様子だったか詳しくは覚えていないけれど、多分顔は――終始笑顔だ ったと思う。  「泣いたら、負けだ。朱点童子は、俺たちが呪いのせいで泣いたり嘆いたりするのを、どっかから見て楽しんでる んだぞ。俺はそんなこと、絶対やってやるもんか。あいつの呪いも俺達のさだめも、そんなもん全部笑い飛ばしてや る。だから負けない。もし――俺があいつにたどりつく前に死んだとしても、負けじゃねえんだ」  紫苑は環の前にかがみこむと、涙でくしゃくしゃになったその顔を見上げた。  「環。お前はどうなんだ、死んじまった方がましなくらい辛いのか?でも、将兄はそんなことを望んでお前に戦う 術を教えたわけじゃないだろ。お前に…強く生きて欲しいから。自分のさだめと正面から戦ってほしいから、二月の 間お前に指南してくれたんだ。そうだろ」  ――自分のさだめから、目を逸らしてはいけない。  ――己を信じ、一族の者を信じて戦いなさい。お前は一人ではないから。  指南の時、父はいつもこう言っていた。  自分のさだめから…目を逸らしてはいけない。  (私は。私は――)  「死な…ない」  環はまだ目に涙をためたままだったが、大きく首を横に振った。出立前に約束したのだ。無事に帰って、元気な顔 を見せると。約束を破ったら、きっと父は悲しい気持ちになる。  父を悲しませることだけは、絶対に――絶対に、したくなかった。  「死な…ない…もんっ…!父様のところに…帰るんだから…!約束…したんだから…っ」  再び泣きじゃくり始めた環を、後ろから狭穂がそっと抱きしめる。その様子を、紫苑はかがみ込んだまま黙って見 つめていた。やがて環の涙が止まり、ひっく、ひっくと嗚咽だけになったころ。  「そっか」  紫苑はそう言って、ふっと――恐らく、環が今まで彼と生活してきて、初めてであったろう――優しげに微笑んだ。 その様子に呆気にとられている環を尻目に、紫苑はすぐに立ち上がって後ろを向き、大きな動作で伸びをするといつ もの調子で声を張り上げた。  「さーて、と。環の泣き言に付き合ってやったらくたびれちまった。キサの庭にでも行こうぜ」  当主のその言葉に、残月も狭穂も安堵したように小さく息をついた。まだぐすぐす言っている環の頬を優しく拭っ てやりながら、狭穂が紫苑を振り返った。  「でも、環にはまだ早いんじゃない?自分から戦えるようになってからの方が――」  紫苑は三人の返事を待たずに、既に一人でずんずん歩き出している。  「この辺りの敵だと、環以外の三人で蹴散らせちまうだろ。それじゃあこいつがいつまでたっても腰抜けのままだ から、あのくらいが丁度いいんだ」  狭穂と残月が目を見開いて顔を見合わせる。  「何やってんだよ。早く――何だよ二人して。気持ち悪いな」  三人がついてくる気配が無いので、痺れを切らしたように振り返った紫苑は、いぶかしげに眉をしかめた。狭穂と 残月が、顔を見合わせたまま妙に嬉しそうに微笑んでいる。事情がわからないぶん、薄気味悪かった。  環も、二人の様子がどことなくおかしいと気づいて、泣き腫らした目を瞬かせる。紫苑と環の視線に気がついた狭 穂が、ああ、と肩をすくめた。  「あ、ごめんね。何でもないの。環、大丈夫?戦える?」  狭穂の碧の双眸が、心配げに自分を見つめている。  やり取りを聞く限り、どうやらキサの庭というところには、自分にはまだ無理かもしれないような鬼がいるらしい。  環の顔に一瞬怯えたような色が浮かんだが、すぐに眉間に皺を寄せて唇を噛むと、こっくりと頷いた。  腹をくくったのだ。だから何が出てこようとも、もう逃げない。  「大丈夫だって!将兄が指南した、将兄の子だろ。だったら、あんなやつに少しぐらい撫でられたってどうってこ とないから、早く来いよ!」  紫苑が、遠くの方でどんどんと苛立たしげに橋を揺らして飛び跳ねている。その台詞に、寡黙な残月が珍しくぷっ、 と噴き出し、狭穂もくすりと笑った。  環一人が、まだ見ぬ敵に顔をこわばらせて刀の柄を握り締めていた。すでに掌が汗ばんでいて、気の早い心の像が 胸の奥で忙しく動き始めている。  腰まである長い髪を翻して歩き出した残月が、そんな環の背中をぽん、と軽く叩いた。驚いて見上げた残月の浅黒 い顔には、優しげな笑みが浮かんでいた。  「環、あまり肩に力を入れるな。家で将臣兄さんに教えてもらったとおりにすれば大丈夫だ。それに、万一のこと があっても紫苑や狭穂、俺が必ず助けに行く。お前一人ではないのだから」  狭穂も環に笑いかけると、軽い調子で、じゃあ行こうか、と手を引いてくれた。それだけで、随分と気持ちが軽く なっていくようだった。  そうだ、今までも三人が戦えない自分のことを守ってくれていた。  ――お前は一人ではないから。  父も、指南の時にそう言っていたではないか。  (もう、泣いてばかりいられない。頑張らなくちゃ…!)  環は唇を引き結ぶと、狭穂に手を引かれて歩き出した。
 
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