そうして、更に一月が過ぎた。  環の元服から既に三月が経過していたが、紫苑から交神についての話が出てくる気配はない。当主が何も言わない ので環の方から尋ねるわけにもいかず、紫苑の方が先に二度目の交神に臨んだ。  イツ花とともにくたびれた顔の紫苑が戻ってきた時、隼斗が再び腹減った、と騒ぐことはなかった。まだ元服前で はあったが、もうそうやって騒ぐような歳でもなかったし、樹が掃除も洗濯も炊事も極めて手際よくやってくれてい たからである。  相変わらずおたおたと要領の悪い環の横で、イツ花のごとくてきぱきと、そしてとても生き生きと家事をこなして ゆく少年を見て、隼斗が苦笑した。  「兄ぃがこの姿を見たら、何て言うだろうな」  そうとは知らずに戻ってきた紫苑は、ああ疲れた、と言いながらどっかりと胡座をかき、着物の襟を緩めた。夕餉 の仕込を終えた樹が手を拭き拭き戻ってきて、目を輝かせながら父の前に座った。  「お父さん、お帰りなさい!生まれてくるのは弟、妹どっちですか?」  胡座をかいたまま紫苑がそうだな、と首を回すと、ぽきぽきという硬い音がした。紫苑はおよそ肩凝りとは無縁の 体をしているが、流石にこの時ばかりは凝ったらしい。  「女が生まれそうな気がする。お前の時も男が生まれそうな気がしたから、多分妹だな」  父の言葉に、樹は早く来ないかなぁ、と夢見るような顔をした。ずいぶん嬉しそうだな、と隼斗がからかうと、樹 は当たり前だろ、と口を尖らせた。  「家にきたら、いっぱいかわいがってやるんだ。俺、兄さんになるんだもんな」  「女が生まれそうな気がしたから、太照天夕子っていう神様にお願いした。立ち居振る舞いのしっかりした神様で、 娘をしとやかでしっかり者に育ててくれそうだなと思ってさ」  「今度は紫苑が指南するの?」  樹の手伝いをして逆にくたびれてしまった環が、背でまとめた長い髪を解きながら戻ってきた。紫苑は、その言葉 にうーん、と首をかしげ、眉間に皺を寄せて考え込むような仕草をした。  「いや…よく考えたらさあ。俺の戦い方ってほんとに拳一つだろ、娘にはあんまり…そういう力強いことやらせた くねえんだよなあ。俺の母さんなんて、討伐先じゃ鬼神みたいだったらしいしさ。やっぱり娘なら、しとやかに育て たいんだよ」  どうやら、男はたくましく女はしとやかに、ということが紫苑の子育ての方針のようだった。樹が、本来女の仕事 である家事をしたがることに渋い顔をするのもそのためだが、本人が好き好んでいることを無理にやめさせようとし ないのは、紫苑らしい。  環は紫苑の傍らに座りながら、おどけたように目を瞬かせた。  「紫苑って、意外とそういうの気にする方だったのね。でも私だって、女の子だったけど剣士になったわよ」  「別に剣士が女らしくないなんて言ってないぞ、俺は」  「あら、剣士って女の子らしいかしら?大体、剣士と拳法家の違いなんて、鬼と戦うのに刀を使うか使わないか、 ぐらいのことじゃない」  大真面目な紫苑の受け答えを茶化すのがつい楽しくて、環はくすくすと笑った。紫苑の方も茶化されているのが分 かっているので、頭の後ろで腕を組んだまま下唇を突き出し、眉をしかめた。  「ぐらいの、じゃねえよ。物凄く大事な問題だぞ。女が拳で鬼を殴り倒すのはどうかと思わねえか」  「とりあえず、どちらかはっきりわかってからお悩みになったらいかがですか?」  儀式の装束を脱いだイツ花が、苦笑しながら戻ってきた。  「とにかく夕餉にしましょう。樹様が仕込みを済ませてくださったみたいですし。すみません何から何までやって いただいて――」  別にいいよ、好きでやってるんだから、と上機嫌で答える樹の隣で、紫苑が再びため息をついた。    次の月。討伐から戻った一行を出迎えたイツ花は、待ってましたとばかりに笑顔を見せた。  「お帰りなさいませ!太照天夕子様のもとより、御子を預かって参りました」  紫苑がそれを聞いて、満面の笑みを浮かべる。  「そうか、で、どっちだ?女だろ」  「ええ、女のお子様です。とにかくよくお笑いになる、可愛らしい方なんですよ」  そう言ってイツ花は小走りに家の中に消え、一行の元へ一人の幼女をともなって戻ってきた。  長い髪は、紫苑と同じ焔の赤。その髪の毛は、両の耳の上あたりから編まれて、二本の赤い縄さながらに腰の辺り まで垂れ下がっている。イツ花曰く、針金のような髪の質まで紫苑に似てしまったため、邪魔そうだと思って編んで やったところ、本人が気に入ってしまったそうだ。紫苑と同じ深い青色の大きな瞳がくりくりとよく動く、愛らしい 顔立ちの女の子である。  小さな妹を前に樹が心底嬉しそうに目じりを下げ、隼斗に何だしまりのない顔、とからかわれた。  「えと、初めまして。父様と…兄様?」  女の子は舌足らずな口調で挨拶すると、小首をちょこんとかしげて笑った。よく笑うというだけあって、ぷっくら とした桃色の頬にえくぼが浮かんだその笑顔には、つられて微笑んでしまいたくなるような愛嬌がある。樹の目じり は下がりっぱなしで、紫苑もおう、などと言いながら頬を掻いている。どうやら、彼なりに照れているらしい。男二 人が骨抜きになっている様がおかしくて、環は思わずくすくすと笑ってしまった。  環に笑われているのに気づいたらしく、紫苑が咳払いをして威厳を保ちながら言った。  「よし、じゃあお前に名前をつけてやらないとな。戦支度を解いたら考えてやるから、いい子で待ってろよ」  「はあい」  可愛い声で素直にこくんと頷く様子に、威厳を保とうとした紫苑の顔もついつい緩んでしまい、環に再び笑われる こととなった。  が、樹の時と同様、子は親の思い通りにはならないものである。  女の子が紫苑の傍らで興味津々に父の手元を覗き込もうとするので、紫苑は名前を考える間この子には席をはずし ていてもらおうと考えた。当の本人にこうもしげしげと眺めていられては、どうにもやりにくい。  「あのな。ちょっと外で遊んで待ってろ。環、こいつと一緒にお手玉でも――」  すると、環の返事を待つ前に、紫苑の娘はやだぁ、とさくらんぼのように瑞々しい唇を尖らせた。  「お手玉なんてつまらない。兄様、遊ぼ?」  妹から直々に指名されて、兄はいいよ、と目じりを下げたまま答えた。  「何して遊ぶ?俺、女の子の遊びってあんまり知らないけど――」  「あのね、お相撲しよ」  思いがけない言葉にどことなく嫌な予感がして、紫苑は幼い娘をまじまじと見つめた。  円らな瞳が愛くるしい女の子、だと思う。  「女は相撲なんてしないんだぞ」  「どうして?私鬼退治するんでしょ?だったらお相撲したっていいじゃない。ね、兄様」  紫苑は心底情けない顔になって、助けを求めるように傍らの環を見る。環が諦めたら、と言う風に長い髪を揺らし て軽く頭を振ると、紫苑は肩を落としてため息交じりにこう言った。  「…樹。外で遊んでやれ」  隼斗と環は、顔を見合わせて苦笑するしかない。父の複雑な胸中を思いやるよりも、妹からの指名の方が嬉しかっ たらしい樹だけが、どことなくうきうきとしながら妹とともに退席した。    「…かぐや、だ」  紙に相変わらずへたくそな字で紙に名前を書き付けながら、紫苑が決然と言った。  「兄ぃ、少しは字の練習しろよ。下手だなあ」  それを覗き込みながら、隼斗が小生意気な軽口を叩く。隼斗は子供の頃から活発で、体を動かすことが好きな気性 だが、本を読むことも好んだ。この辺りは博識だった父、残月に似たのかもしれない。残月が残していた蔵書のほと んどはもう読んでしまっているようだった。字もかなりの達筆なので、何か文などが入用の時は大抵隼斗が書いてい る。  隼斗のからかいに、紫苑は大きなお世話だ、と仏頂面で筆を運んだ。  「これで、かぐやって読むの?」  環が紫苑の書きつけた名前を見て小首をかしげた。輝く夜、と書いて輝夜。  「おう。隼斗が読んでた本に、そんな名前の姫がいたろ。んで、笑うとぱっと輝くみたいな感じだから、輝くに夜 を当て字してかぐや」  「なよ竹のかぐや姫、か。はは、兄ぃも随分子煩悩だな」  紫苑があまりにも大真面目な顔で言うので、隼斗が笑った。御伽噺のかぐや姫は、都中の男達が見惚れるほどに美 しく、しとやかな姫様なのである。紫苑はどうあっても、娘に美しくしとやかに、お姫様のように育って欲しいらし い。しかし。  「――何だって?!」  輝夜を呼んで、将来なりたいものを――一応本人の意向も抑えておくべきだろうと――聞いた紫苑は、開いた口が 塞がらなくなった。人形のように愛らしい顔の輝夜は開口一番、こう宣言したのである。  「輝夜ね、父様と同じがいいの。えっとね、けんぽう…何だっけ。輝夜も父様みたいになりたいの」  樹は自分の後継ぎにならなかったし、娘から父のようになりたいと言われて嬉しくないはずがない。が、今の紫苑 の胸中は物凄く複雑であった。  この可愛い顔の娘が気合とともに鬼を殴り倒す場面を想像し、思わず頭を抱えたくなった。  「ねぇ、父様ってばぁ。いいでしょ?」  輝夜は眉根を寄せ、上目遣いで唇を尖らせて小首をかしげる。実に可愛い仕草だと思うのだが、そう思うと尚更、 その可愛い娘に拳法家などという荒々しい生業はやらせたくない、と思うのが男親の親心というやつであろう。娘に はあくまでも夢を持っていたいのである。  環が笑いながら、苦悶する紫苑を宥めにかかった。  「いいじゃない、本人がやりたいって言ってるんだし。樹だってやりたくて薙刀士になったんだもの、輝夜だけ駄 目なんて可愛そうでしょ」  「しかしなぁ――」  「イツ花に聞いたんだけど、日下部の男で拳法家になったのって、紫苑が初めてなんだそうよ。拳法家だった先代 様も先々代様も女でしょう。先代様は本当に気丈な方だったみたいだけど、先々代様は逆にみんなを和ませる穏やか な当主様だったんですって。だから生業が気性にどうこう、だなんて気にしなくていいと思うの。折角輝夜が父様み たいになりたい、なんて嬉しいこと言ってくれてるのよ。やらせてあげたらいいじゃない?」  紫苑は眉間を指でつまむ仕草をし、暫く黙っていたが、やがて諦めたようにため息をついた。  「…わかった。じゃあ俺が指南役だな。覚悟しとけよ、しごくからな」  「わぁい!ありがと、父様、環姉様!」  輝夜は名前のとおり、ぱっと輝くような笑みを浮かべると小鹿のように部屋を飛び跳ねる。父の指南を受けること がなかった樹が、羨ましそうにいいなぁ、と言った。親心など露知らず、無邪気にはしゃぐ娘を見て紫苑は悟ったよ うにつぶやくのだった。  「まったく、子供ってのはほんとにうまくいかないもんだな…」    こうして輝夜の指南役は紫苑に決まったが、指南のため紫苑が討伐に出られない間は、環が討伐隊を指揮すること となった。紫苑直々にそのことを告げられて、環は初め驚いた。自分ももうこの家に来て一年が過ぎたから、話の内 容はてっきり交神のことについてだと思っていたのだ。  「え…でも私、そんなのできるかな。人に指示するのって、あまり得意じゃないし――」  当惑する環に、紫苑は優しげに笑いかけた。  「お前だから頼むのさ。お前は周りの雰囲気を読むのが上手い。誰が疲れてるか、どの辺りまでいけそうか。そう 言った判断が討伐隊を仕切る時には大事なんだ。隊長は確かに強いに越したことはないが、強いだけじゃ駄目なのさ。 樹はあのとおりまだ餓鬼だし、人に指示を出すより人の出した指示を十二分に生かすやつだ。隼斗は頭に血が上ると 周りが見えなくなる。だから、俺がいない討伐隊を任せられるのはお前なんだよ」  「そうかな…」  「そうさ。初陣で泣きべそかいてたお前が出世したもんだよな」  まだ逡巡する環に、紫苑はそう言ってからかった。遥か昔のことを再び蒸し返されて、環が白い頬を桜色に染めて 抗議した。  「もう。樹や輝夜の前ではそういうこと、言わないでよね」  「わかってるって」  はは、と短く笑うとじゃあ輝夜の指南があるから、と言って紫苑は踵を返そうとする。その背中に、環の声が投げ かけられた。  「――待って、紫苑」  紫苑は背を見せたまま、何事かと顔だけをこちらに向ける。環は胸の前で一度、小さく拳を握ってためらうように 口をつぐみ、意を決したように紫苑に向き直った。  「私、交神はまだしなくていいの?もうこの家に来て一年だし――」  環のその言葉に、紫苑は途端に不機嫌な顔になった。  「お前はそんなこと、気にしなくていい。俺が折を見て決めるから」  そっけなく言い放つと、庭で父様早くぅー、と甲高い声をあげている輝夜の方へさっさと歩いていってしまった。  環は胸の前で握り締めた拳を力なく下ろし、うなだれた。出すぎた物言いだったろうか、と心配になった。だが、 紫苑が不在になる二月の間討伐隊を仕切るとなると、最も早く交神しても子が来る頃には自分も一歳と五ヶ月。皆一 歳と二、三ヶ月ぐらいで交神していたから、そろそろではないのか、と思っていたのだが。  できることなら、紫苑に想いを告げてしまいたい。でも、それは叶うことはないのだから。心の中の想いを告げる ことすらできないこの呪いを討ち果たす日が、自分が交神することで少しでも早く来ればいい。日下部の鎖を子孫へ 託すための決意は、もう固まっているというのに。先延ばしにされると、また揺らいでしまいそうな気がした。  (折を見て、って…いつなの?紫苑…)  環はぼんやりと、庭へ視線を走らせた。威勢のいい輝夜の声と、あまりの威勢のよさにやや当惑したような紫苑の 声、それに野次馬の隼斗と樹のはやし立てる声が聞こえてくる。イツ花は都へ買い物に出かけたようだ。  (こんな時、狭穂姉様なら何て仰ってくれたかな…)  環は吐息をつき、庭の方へと足を運んだ。  
 
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