その次の月。
先月と同じ顔ぶれで討伐に出かけた一行は、忘我流水道に赴き永久氷室まで足を伸ばした。先月よりも、指示を出
すのにだいぶ慣れてきた、と環は考えていた。隼斗と樹が、環に迷惑をかけないようにと彼らなりに慎重に動いてい
ることもあったが、だいぶ二人の気性に伴った振る舞いが読めてきている。あまり深く考え込むことなく指示を出し、
自らも鬼を屠った。
(今月は、こないだみたいに眠りこけなくて済みそう)
と、内心少し安堵もしていた。
「お帰りなさいませ!お疲れでしょう、夕餉まではもう少しお待ち下さいね」
帰還すると、いつも通りにイツ花の元気な声が一行を迎えてくれた。
「お、帰ってきたな」
「みんな、お帰りなさーい!」
紫苑親子も玄関で討伐隊を出迎える。紫苑は討伐隊の無事を確認するように順にその姿を眺め、環へ笑いかけた。
「今月は元気そうだな、環。明日はきちんと起きてこいよ」
「お生憎さま。もうだいぶ慣れたもの」
紫苑の軽口に、いたずらっぽく細い眉を跳ね上げて笑い返した環は、ふと違和感を覚えた。
(何だろう)
何、と言ってもよく分からない。どことなく紫苑がいつもの紫苑でないような。そんな気がした。環は首を傾げた
が、違和感の正体がつかめないまま家に戻り、夕餉となった。
久々に一族全員揃っての夕餉はさぞかし賑やかになるだろうと思われたが、いつもならまだまだ食べるはずの紫苑
が早々に夕餉を切り上げた。もりもりと食べていた隼斗が、その様子に首を傾げた。
「あれ、兄ぃ。もういいのかよ」
紫苑と隼斗は自他共に認める大食漢で、いつも椀に盛った飯を何杯も食べるのだ。隼斗が不思議がるのも無理はな
かった。おう、と笑いながら立ち上がる紫苑の横で、輝夜が栗鼠のように頬を飯で膨らませながら無邪気に言った。
「父様ね、討伐に出てないからお腹空かないんだって。輝夜が食べちゃっていいんだって」
お前少し食いすぎだぞ、と人並みに食べる樹が呆れたように妹に声をかけたが、輝夜はいっぱいお稽古したからい
いの、と平然としている。輝夜は、こんなところまで父親に似たらしい。
「へぇ、あの兄ぃがか?珍しいな、明日は雪でも降るんじゃねえか」
「父様がご飯食べないと雪になるの?輝夜ね、まだ雪見たことないから見てみたいな。でも今月父様はずっとそう
だけど、雪降らなかったよ。明日は降るかな?」
「降るわけねえだろ。ものの例えだよ、例え」
年下三人が和気藹々と夕餉を取っている中、環だけは箸が止まっていた。環は元々食がさほど多いわけではないが、
それよりも隼斗と輝夜のやりとりに引っかかるものを感じたからだ。
討伐に出なかったからといって、討伐隊の不在時は育ち盛りの輝夜の指南にかかりきりだったはずだ。それだけ体
を動かしておいて、あの紫苑が『お腹が空かない』だなんて。
今まで彼と過ごしてきて、そんな話は聞いたことがない。しかも輝夜の言い方からすると、昨日今日からのことで
もなさそうだ。
環は瞬きして、立ち去る紫苑を見つめた。
どうしたんだろう、どこか具合でも悪いんだろうか――
筋肉が発達して広いはずのその背中が、いつもより少し小さく見えた気がした。
それが、違和感の原因か。
――『具合が悪い』?
浮かんできた嫌な言葉に、環は臓腑を冷たい手でつかまれたような感触を覚え、身を震わせた。初陣前の父の姿が
思い出された。
父の将臣は、娘の自分が言うのも何だが整った顔立ちの美丈夫であった。卓越した技量を持つ剣士でもあり、型の
手本を見せてくれた時は子供心にその凛々しさに感嘆したものだ。だから幼い環の目には、そんな父がとてもとても
大きく見えていた。
が、ある日父が少しだけ小さくなったように思えた時がある。あれ、どうしたんだろうと思っているうちによく臥
せるようになって――
(自分は…幾つになった?)
一年と、直に二ヶ月が終わるところ。
紫苑と自分は三月違い。
――将兄は病気で臥せってるんじゃない。命の終わりが…死ぬのが近いんだ。
――将兄はこの家に来て、一年半経ってるから。
――二年と生きられない、そういう体なんだ。
初陣の時、紫苑はそう言った。
父が死んだのは、一歳と半年。
残月が死んだのは、一歳と五ヶ月。
日下部家は、呪いというものを生まれながらに負っているためだろうか、逆に病の類には滅多にかからない。鬼が
振りまいた病魔に取り憑かれるのは、大怪我などして体が弱っている時だけのようだった。鬼が病を振りまいた、と
いう話も聞いていないし、そもそも、今の紫苑が病魔に憑かれるほど弱っているようには見えない。
つまり――
恐ろしい結論がよぎった瞬間、環の顔から血の気が引いた。頬と肩が冷たい。瘧のように身体が震え、息ができず
に喘いだ。その様子に気づいた隼斗が、大丈夫か、と声をかけてきた。後片付けから戻ってきたイツ花も、何事かと
駆け寄ってくる。
「環様…?どうかなさいましたか。今床の仕度を――」
「環姉様、どうしたの?おなか痛いの?」
「だ――大丈夫、眩暈がしただけ…部屋で休めば、すぐ元気になるわ」
「環姉、また先月みたいに疲れが出たんじゃねえのか。大丈夫か」
「薬を飲んだ方がよくないですか?部屋まで付き添いましょうか――」
自分を心配そうに見つめている年下三人とイツ花に、大丈夫、一人で歩けるし寝たら元気になるからね、と何とか
平静を保ちながら答えると、環は部屋へ戻った。
部屋に戻って簾を全て下げてしまうと、膝に力が入らなくなり、かくんとその場にへたり込んだ。
紫苑の、天寿が近いんだ――
勿論まだ環の憶測に過ぎない。
それでいて、その憶測は瞬く間に環の思考を押し潰し、彼女の身体をぎりぎりと締め上げていく。息ができない。
(何考えてるの…!紫苑がそんなこと。そんなこと、あるわけないじゃない。縁起でもないこと考えないで。私の
思い過ごしよ)
そう、思い過ごしだ。紫苑に聞いてはっきりさせればいいではないか。それとなく、ご飯食べないなんて珍しいわ
ね、と話を振ってみれば。
だが。確認して、それが真実だと言われることが怖かった。環の思考とは裏腹に、どこかで間違いないと思える確
信のようなものがあったから。
環の両の目から、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
紫苑は三月年上だ。
それだけ――自分よりも死に近い位置にいる。
ここのところ、紫苑の子が来たり、紫苑の代わりに討伐隊を仕切ったりと慌しく、そのようなことは思考から吹き
飛んでいた。環がこの家に来た時から、ずっと一緒だった紫苑。この先も、それが変わることなく続いていくと思っ
ていた。
そう、思っていたかった。
環はうつむいて床を見つめたまま、身動きができなかった。声も発することなく、目だけがまるで別の生き物のよ
うに、ただぽろぽろと涙を流し続けていた。
どれほど時が経ったのか。みんな寝静まったようで、時折風が運んできた年下三人やイツ花の声はもう聞こえない。
庭から、じぃー、じぃーと夏の虫の鳴き声が聞こえるだけだった。自分ひとりしかいない部屋の空気は、あまりにも
重すぎる。じっとりと熱気を帯びた大気が衣を通り抜けて体へまとわり付いているようで、全身が酷くだるかった。
座り込んだ足が床に沈みこんで床そのものになってしまったのではないか、力なく下げている両の腕は泥か何かにな
ってしまったのではないか――そう思えた。
涙はいつの間にか止まっている。体の中の水が全て涙で出てしまったかのように、口の中も喉もからからに渇いて
いた。
自分は今どれだけ酷い顔をしているんだろう。明日みんなに会ったら、何事かと思われちゃうんじゃないかしら。
体は今こうしてへたりこんでいるのに、思考の一部が上からそんな自分を見下ろしているような。こんな時だとい
うのに、どこかで妙に冷静なことを考えている自分がおかしかった。
(明日…みんなに会ったら)
そう、明日になったらいつもと何も変わらなくて。
今日こんな心配をしていたことが莫迦みたいに思えてくる。きっとそう――
「…環?」
愛おしい、しかし今はけして聞きたくなかった声が、環の耳をうった。
銀色の明かりが作り上げた蒼い影法師が、環の部屋に長々と落ちていた。簾を持ち上げて部屋の入り口に立ってい
た紫苑は、へたりこんでいた環に驚いたようだったが、優しげな笑みを浮かべてどうした、と尋ねてきた。
「そんなとこに座ってると蚊に食われるぞ。…大丈夫か、気分はどうだ」
「な…」
何か用、と言おうとしたのだが、渇ききった喉からはかすれた声しか出てこなかった。あんまり泣きすぎて、自分
はそのまま寝入ってしまい――夢でも見ているのではないかと。そのように思えた。環は俯いて長い髪で顔を隠し、
座ったまま後退った。泣いていた顔を紫苑に見られたくなかった。
環の動きに続いて、紫苑も持ち上げていた簾を下ろし、部屋へ入ってくる。胸の前で握り締めた両の手が、小刻み
に上下しているのが自分でも分かった。胸の内側から、太鼓の撥で力任せに叩かれているような、それでいてその太
鼓の音は耳のすぐ近くで聞こえているような。そんな気がする。頬と耳たぶが、真夏の日差しに照りつけられたかの
ように熱を持っている。
今まで、紫苑が環の部屋に来たことはほとんどなかった。初陣前のごく幼いころにあった程度だったと思う。用が
あれば環が自分から紫苑のところへ行くし、一族全員に伝えることがあるなら、紫苑が皆を集めて言うのが常だ。
しかもこんな夜分。
(どうして――)
どうして今、来ちゃったの。
自分を見下ろしていた思考の一部も、紫苑の思いがけない登場で体の中に引っ込んでしまったようだった。紫苑に
顔を向けることもできず、かと言って何を言っていいのかも、思考が混乱していてまるでまとまらない。黙って俯き、
長い髪で顔を隠すぐらいしかできなかった。
簾に月光を遮られ、仄暗い部屋の中で紫苑の気配が動いた。環にあわせて座り込んだようだ。
「イツ花が、環様がお疲れのようで、すぐお休みになったようです、って言ってた…先月といい、お前に無理させ
すぎちまったかもしれねえな。…ごめんな、お前の体のこと…もっと考えてやるべきだった」
その声音は、天女の小宮で過ごした時のように優しい。
――ぶきっちょな心配をしてる。
狭穂が言ったとおりだ。
――あなたの好きな人は、こういう人よ。
紫苑は本当に、本当に――ちっとも変わっていないんだ。
また、目に涙が滲んできた。涙が落ちるところを見られてはいけない、と、環は長い髪に隠れて、胸の前で拳を強
く握り締める。その髪に紫苑の手がそっと触れたので、環の胸で打ち鳴らされている太鼓の速さと強さがさらに跳ね
上がった。
「お前、いっつもぎりぎりまで我慢しようとするからなあ。辛いなら、辛いってちゃんと言えよ。イツ花が、お前
のこと教えてくれたから…様子見にきたんだ。気分はどうだ、眩暈とか…寒気とか、そういうのはないか。横になら
なくていいのか?」
大丈夫、と言おうとしたが、答えることができなかった。髪を通して伝わる紫苑の掌の感触と、すぐ近くで聞こえ
る紫苑の声。胸の鼓動があまりにも強く早く、声を発するどころか息をするにも苦しい。
環からの返事がないので、紫苑は一旦言葉を切った。沈黙の中、部屋の中で聞こえるのは環の少し不規則な息遣い
だけだ。環の様子に、紫苑は『環の具合はやはりよくないようだ』と判断したらしい。
「…待ってろ。イツ花を呼んでくるから――」
紫苑の気配が、立ち上がろうと再び動いた。環は指が掌に食い込むほど、強く強く拳を握り締める。
(本当に…それでいいの?)
このまま紫苑が自分の気持ちを知ることなく、遠くへ行ってしまっても。
体の奥で鼓動が一際大きく鳴った気がした。
いいわけがない。
でも――
「待って…紫苑」
立ち上がりかけたところを衣の裾を引かれ、振り返った紫苑は長い髪の間から見える環の顔を初めて見――酷く驚
いた顔をした。
「環…?泣いてるのか――」
「――紫苑は」
紫苑が言い終わらないうちに、縋るような環の声が重なる。
「紫苑は…どこも何ともないわよね?来月も再来月も…討伐に行ったり、家でみんなと…一緒に過ごせるのよね?」
本当に言いたかったことは、勿論このことではない。
でも。
当ったり前だろ、莫迦、と。いつもの調子でそう言って笑ってさえくれたら、もうそれだけでいいと思った。環は
紫苑の衣の裾を強く強く握り締めたまま、俯いて唇を噛みしめる。
(そうよね…私の思い過ごしよ)
お願いだからそうだと言って――
紫苑は環の思いがけない言葉に、わずかに瞳を見開き――環が何故泣いているのか、何故様子がおかしかったのか。
すべて理解したのだろう。小さく息をついて笑った。
「…何だ。気づかれちまってたのか…参ったな」
「――!」
環は息を呑み、顔を上げる。次に発した紫苑の言葉は、切ないほどに簡潔だった。
「俺、死ぬんだ。多分――再来月まではもたない」
びくりと身をすくませ、乱れた長い髪の向こうから自分を見上げる環に悲しげに微笑みかけると、紫苑は訥々と続
ける。
「気づいてるんなら丁度いいかな…次の当主を決めないといけない。お前に、今そのことを話しておきたい」
やっぱり、本当だった――
環は紫苑の衣の裾から力なく手を放し、うなだれた。目の前が暗くなる思いだった。やはり紫苑に自分の想いを告
げてしまおうか、という考えがよぎった。あのたくましい両腕が蒼白く痩せてゆく前に、強く抱きしめて欲しい、と。
が、想いとは裏腹に環の唇は鉛のように重く、紫苑の紡ぎだす言葉にただ耳を傾けるだけとなっていた。
「隼斗と樹については、こないだ言ったとおりだ。上に立つには向いてない。輝夜は――溌剌としてて判断力にも
優れてる…と思うんだ。親の贔屓目でなけりゃあな」
紫苑は座りなおしながらそう言って、幅の広い肩をすくめて少し笑ったようだった。
「でも、仮にあいつに当主を継がせるとしても…まだ甘えたい盛りの餓鬼だ。早すぎる。俺は自分で望んで『紫苑』
の名で初陣に出たけど、あいつにはまだその準備ができてない」
紫苑はそこで言葉を切り、優しげなまなざしで環を見つめた。
「だから――俺が死んだら、お前が当主になってくれないか。狭穂姉が死んだ時…俺は樹抱えて不覚にも泣いちま
った。その時、お前が俺のすべきだったことをしてくれた。お前にだったら一族を任せられる。輝夜が当主としてや
っていけるようになれるかどうか、その見極めと…もしやっていけるのなら、輝夜に当主としてどう振舞うべきなの
かを。お前に…頼みたいんだ」
――俺が死んだら。
(そんなこと、言わないで。そんな風に…優しく笑わないでよ)
いつもみたいに軽口を叩いて、からかってほしいのに。
死期を悟った紫苑の、透明な笑みを見るのが辛かった。だが、目を離すことも環にはできなかった。
「なるべくぎりぎりまでは皆に知られないようにしようと思ってた…お前には余計な心配かけちまったな。今すぐ
じゃなくていいから…考えといてくれないか」
紫苑は長い髪を垂らして俯いている環の髪にもう一度手を触れて笑いかけると、立ち上がって背を向ける。
(行ってしまう)
環は、襟元を無意識のうちに強く握り締めていた。
本当に、本当に伝えなくていいのか。
この機会を逃したら、恐らく紫苑が死ぬまで――ない。
握っている拳が、小刻みに震えた。
環の目の前で、紫苑は簾を持ち上げて部屋の入り口に立つ。と、その足が止まった。
「…そう、俺の――当主としての最後の務め…」
蒼白い月光を受けて、紫苑が半身をこちらへ向ける。
「お前の交神、な。来月しかないよな。俺が当主として生きてる間に勧められるのは…」
そう言って、紫苑は目を伏せた。
「お前の交神を先送りにしてたのは――俺の我儘だ。済まなかった」
「え…っ?」
環は赤く腫れあがった目元を紫苑に向け、瞳を見開いた。紫苑の言葉の意図がつかめなかったのだ。紫苑は再び環
に背を向け、僅かに俯いた。
「お前に――交神に…神との子を為しに行け、と。今までどうしても俺の口から言えなかった。全く情けない話さ。
幽世に逝ったら母さんにぶん殴られるだろうな」
紫苑は、はは、と小さく自嘲的な笑い声をあげると、透明な、だがひどく悲しげな眼差しで環を見つめた。
「お前のことがずっと好きだった。だけど…二年と生きられず、惚れた女を抱いてやることもできない身だ。そん
なことを言っても――お前を困らせるだけだと思った。だから…今まで言えなかった」
そう言って、紫苑は真顔になって環に向き直り、だらりと両腕の力を抜いた。
「俺は…一族の運命を左右する当主の立場にありながら、私情を持ち込んだ。当主失格だな。お前の気がすまなけ
れば、今この場で斬ってくれていい」
環は呆然と、眼前の当主の言葉を聞いていた。襟を握り締めていた両の拳が、徐々に力を失って下へ降りる。
暫く沈黙が流れた。夜風が一筋、部屋の入り口をかすめていった。
「…か…」
俯いた環の唇から、何かが紡ぎだされる。初めそれは、独り言のような吐息のような、気をつけていないと聞き漏
らしてしまいそうなほど小さな呟きだった。紫苑が瞬きして、口を開きかけた時――
部屋に注ぎ込んでいた月光に照らされて、更に蒼さを増した髪が宙に翻った。柔らかいものが紫苑の胸に飛び込ん
でくる。
「莫迦!紫苑の莫迦……!!」
その勢いで紫苑が持ち上げていた簾が降り、再び月光を遮った。仄暗い部屋の中、温かい涙で紫苑の懐を濡らしな
がら、環は絞り出すような声で何度も紫苑の莫迦、莫迦と言って泣いた。己の胸で泣きつづける環を前にして、紫苑
は当惑した。
「私の気持ちなんてお構いなしに…いつだって、いつだってそうやって…勝手に言いたいこと言って、勝手にどっ
かへ行っちゃうんだから…!」
「環…?」
涙でくしゃくしゃになった環が顔を上げる。その唇が、何かを伝えようと大きく喘いだ。嗚咽が邪魔をする。もっ
と、もっとしっかりと声を出さなければ。
「私だって…私だって、ずっと紫苑のことが好きだった…!」
涙に霞んだ視界の向こうで、紫苑が呆然と嘘だ、と呟くのが聞こえた。環は長い髪を振り乱してかぶりを振る。
「嘘じゃない…!いつからか分からないくらいずっと…ずっと好きだったの。だから…紫苑が交神するって言った
時、すごく苦しくて…胸が張り裂けそうだった。でも、紫苑は当主だから血を残さないといけないもの……私がこん
なこと言ったら、紫苑は困るんじゃないか…それに私だって…いつかは交神しないといけない、伝えないでおこうっ
て…。そうして、紫苑や生まれてくるあなたの子を、私なりに精一杯補佐してあげよう、って…思ってたの…」
「え、じゃあ――」
紫苑が当惑の色も露わにつぶやいた。
「狭穂姉が言ってたモノオモイの時期、って――」
環は俯いたままこくんと頷いた。
「紫苑に…どんな顔していいかわからなかったの…狭穂姉様が…紫苑のこと好きな気持ちはけして忌むべきものじ
ゃない、紫苑は交神しても何も変わらない、って…紫苑も、紫苑の子も…今までどおり好きになってくれないか、っ
て…そう言ってくれなかったら、私たぶん吹っ切れられなかった…」
「俺――」
紫苑が何か言いかけたので、環はのろのろと顔を上げた。涙で霞む目に、照れたような、困惑したような表情の紫
苑が映った。
「あの時――環が俺のことすげえ避けるからさ…てっきり、俺何か嫌われるようなことしちまったかな、って――」
環は瞼の腫れぼったくなった瞳をぱちくりとさせ、呆気に取られていたが、やがてその肩が震え始めた。
今度は、泣いていることによるものではない。紫苑は口をへの字に曲げ、抗議の意を表した。
「何だよ。割と本気で悩んでたんだぞ。笑うな」
「だって…」
環はくっくっと押し殺したように笑い、目尻の涙を拭った。
「二人して…似たようなことで悩んでたんだもの。何だか莫迦みたい…」
環は笑いながらそう言って、紫苑の広い胸に額をつける。と、その瞳からを再び涙が転がって、ぽつんと床へ落ち
ていった。
「残された時が――もうあと僅かになってから…気づいちゃうなん…て……」
細い肩が再び震える。紫苑は、白い頬に幾つも幾つも転がり落ちていく涙を、大きな手でそっと拭ってやった。
「ったく…お前、よくそんなに涙が出てくるよな。初めて会った時からいっつも泣いてばっかりじゃないか」
そう言いながら、環の乱れた長い髪を指で梳いてやる。己の髪を梳いてゆく紫苑の指の感触が、この時ばかりは酷
く悲しかった。
「だって紫苑が…私を置いて逝っちゃうんだもの……」
「しょうがねえな――」
紫苑がそうつぶやくのと、環がえっ、と小さく声をあげたのが、ほぼ同時だった。
次の瞬間、環の身体は紫苑のたくましい両腕にすっぽりと包み込まれてしまっていた。紫苑の鼓動と環の鼓動が、
互いの瞳に互いの姿が重なり合う。簾の隙間からほのかに差し込む月明かりでも、それとはっきりわかるほどに環は
真っ赤になって、泣き笑いのような顔をした。紫苑は、そんな環の桃色に染まった耳元に囁きかけた。
「俺はまだ生きてるし、こうしてお前の傍にいる。もし俺が死んで寂しくなったら――俺はこんなやつだったって
こと、思い出せ。だから…そんなに泣くな。ほんの数ヶ月、離れ離れになるだけだ。幽世でまた会える。いや、絶対
会いに行く。約束する」
「うん…」
環が微笑んでその胸に身を預けると、転がり出た涙が一粒紫苑の袖に滴った。
「まだ泣くか」
笑みを含んだ紫苑の声に、環はゆっくりと首を振った。
「ううん…嬉しいから…」
涙がもう一粒、頬を転がり落ちた。
「ねえ、紫苑…」
「――飛炎」
「え?」
環が紫苑の腕の中で顔を上げると、彼は照れくさそうに目を逸らした。
「今だけは、『紫苑』…当主であることを忘れたい。俺の本当の名で…飛炎、って呼んでくれないか」
環は頬を染めたまま頷き、その広い胸に額をつけて目を伏せると――呼び慣れないその名を口にした。
「飛炎…」
「…おう」
どことなく、まだ少し照れくさそうだった。
「朝まで、こうしていてくれる…?」
「……」
返事の代わりに、環を抱きしめる腕に少しだけ力がこもった。
太陽が東の空から昇ってくる前に、紫苑は環の部屋から出た。そろそろイツ花が起き出して、朝餉の支度に取りか
かる頃だ。その前に自室に戻る、と紫苑は言った。
「じゃあな」
まるで、どこかに出かけるかのような口ぶりで、紫苑は簾をくぐった。それを、環が呼び止める。
『紫苑』ではなく、彼の本当の名で。
「…飛炎」
「何だ」
簾越しに、朝焼けの空を背にしたその影が見えた。
「私――まだ、交神しない」
「…そう、か」
「来月は輝夜の初陣でしょう。初陣から一、二ヶ月目が一番伸びる時期だわ。私は『次期当主』として、私から当
主を引き継ぐことになる輝夜に、初陣から色々教えてあげなくちゃ。交神をまだ先送りにしても、多分――私の子の
指南には間に合うと思うの。お願い」
「おう。お前が一番いいと思うんなら、そうしたらいい」
簾の向こうの当主は、少し笑ったようだった。均整の取れた陰が、簾から離れていく。
「環」
「なあに?」
「…ありがとな」
「うん」
足音が徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。部屋に残された環は、自分で自分を抱きしめるように両手をま
わしてみる。
――思い出せ。
「うん…」
たくましい腕に抱きしめられた感触が、紫苑の温もりが、鮮明に身体に残っていた。環は頬を染め、薄く微笑んで
部屋の柱にもたれかかる。昇りはじめた朝日の真紅の光が簾の隙間を縫って差し込み、環の頬を更に赤く染め上げて
いった。
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