その日を境に、紫苑の体調が悪くなっているという兆しが現れ始めた。相変わらず軽口は叩くが、顔色が前より蒼
白くなり筋肉も少し落ちた。臥せる、などということには全く縁遠かった紫苑が、日の何刻かを床で過ごすこともあ
った。この頃になって、樹や隼斗は九代目当主の命の炎が尽きかけていることに気づき始め、まだ一族の死に立ち会
ったことのない輝夜も、父のただならぬ様子に漠然とした不安を抱き始めているようだった。紫苑が寝るにも起きる
にもその横を離れようとせず、一日中父にくっついて過ごしている。環もなるべくなら紫苑の傍にいたかったが、今
の輝夜の心境は痛いほどわかったから、邪魔をしたくはなかった。
輝夜は、父の死で初めて――一族のさだめと向かい合うことになるのか。
環自身もそうであったから、不安げな顔で父様、父様とまつわりついている輝夜が不憫に思えた。
輝夜の初陣の前日。大気は身に纏わりつくように蒸し暑く、霞のような雨が音もなく降る夜のことだった。
「輝夜、いい加減にしろ!明日はお前の初陣なんだぞ。それをいつまでも父様、父様って…」
「初陣なんて行かない!父様の傍にいる!」
「情けないぞ、輝夜!それでも父さんの子か?!」
「じゃあ、兄様は私たちが出かけてる間に父様がいなくなっちゃってもいいの?!」
「いいわけないだろっ…!だけど父さんがそんなこと望むと思うのか?!甘ったれるな!」
輝夜の昂ぶった涙声と、樹の苛立ったような声が日下部家に響き渡る。何事かと、環に隼斗、それにイツ花が駆け
つけると、部屋の中で顔中を涙でぐしゃぐしゃにした輝夜と、頬を紅潮させた樹がどちらも一歩も譲らない、といっ
た勢いで喚きあっている。輝夜の片頬が赤くなっているのは、兄にひっぱたかれたためらしかった。
「落ち着けよ、樹」
「じゃあ、隼斗兄さんはこいつの我儘を許すのか?!父さんが死んで悲しい思いをするのは…輝夜一人じゃないん
だぞ!」
「――」
苛立たしげに声を荒げた樹の顔も、泣き出すのを堪えているかのように歪んでいた。兄妹の心情を察し、止めに入
った隼斗も言葉に詰まる。イツ花がどうしましょうと言った風におろおろして環を見、環がとにかく二人を止めよう
と口を開きかけた時――
「ぎゃーぎゃーうるっせえぞお前ら!」
不意に降ってきた大声にその場の全員が首をすくませ、部屋の中が水を打ったように静まり返る。紫苑が不機嫌そ
うな顔で腕組みをし、部屋の入り口に立っていた。
「ったく。騒がしいから起き上がってきてみりゃ、人が死ぬの死なないのって何を莫迦なこと言ってやがる」
「お、お父さん――」
「ちょっとばかり、体の調子崩しただけでこの騒ぎか。勝手に殺すな」
紫苑はそう言いながら、喧嘩していた兄妹の間にずかずかと割って入った。
「…輝夜。俺は、そんな甘ったれを子に持った覚えはない」
討伐に赴いていた時の紫苑と同じ、有無を言わさない厳しい口調だった。彼が家でこのような声を出したのは、恐
らく初めてだったろう。輝夜は今までにない険しい父の姿にびくりと身体を強張らせると、目に涙をためたまま唇を
噛んで俯いた。
「そういう思いをしてきたのは、お前一人だけじゃない。皆、親の死を越えてきた。――一族のさだめと正面から
向かい合って、戦い続けてきたんだ。でも今のお前は…自分のさだめに向かい合うことをしないで、ただ目の前のこ
とにしがみついて未練たらしく泣き言を言ってるだけだ」
輝夜は俯いて拳を握り締めたまま、しきりに瞬きを繰り返して泣き出すのを堪えている。生まれながらに持つ呪い
のことは、父から聞いていたのだろう。だから、余計に父が弱っていく様子が不安だったのだろうが、紫苑はそれを
容赦なく突き放した。
「討伐隊に加わり、明日から討伐に行け。これは当主としての命令だ」
「……」
「返事は」
「…はい…」
「よし」
消え入りそうな声で輝夜が返事をすると、紫苑はそこで初めて破顔し、当主の顔から父親の顔に戻る。大きな手で、
輝夜の頭をぐりぐりと荒っぽく撫でてやると、編みこまれた髪が縄のようにぶらぶらと揺れた。
「討伐隊長は、また環にする。お前ら、環の言うことちゃんと聞けよ」
輝夜は、父に撫でられるまま頭を動かしながら、涙を一杯目にためて俯いていた。重苦しい沈黙が流れる中、紫苑
は努めて陽気な声を出した。
「ほら、散った散った。お前ら寝ぼけたままで討伐に行く気か。明日に備えてさっさと寝ろ」
そうして、まだ輝夜を気遣わしげにしている隼斗、沈痛な顔で黙りこくっている樹に早く行け、という仕草をした。
二人は言われるままに部屋を後にしたが、隼斗がふと振り返り、ぽつりと呟いた。
「…兄ぃ」
「ん?」
「いや。…何でもない」
既に元服を済ませているはずの隼斗は、まるで親に置いていかれる子供のような顔をしていた。紫苑は肩をすくめ、
何て面してんだ、とそれを笑い飛ばした。
「だから、ちょっと調子悪いだけだって言ってるだろ。俺は死なない。来月からまた容赦なくしごいてやるから覚
悟しとけよ、上の空で怪我なんかして帰ってきたら承知しねえからな。ほら、輝夜も」
隼斗は哀しげな笑みを浮かべ、うん、わかった、と言って部屋を後にした。最後まで父の衣の裾を握り締めたまま
離さなかった輝夜も、紫苑に促されて涙の粒を頬にたくさんぶらさげたまま、のろのろと出て行った。部屋には紫苑
と環、それにイツ花が残された。
「…ったく、どいつもこいつも手がかかるったら…」
紫苑がそうつぶやくと、ぐらりと身体が傾いた。慌てて環とイツ花がそれを支える。紫苑の呼吸は、荒かった。
「当主様、大丈夫ですか…あまり、無理なさらないで下さいね」
心配げに言うイツ花に、しょうがねえだろ、と紫苑は下唇を突き出した。
「だから、柄にもなく臥せたりするの嫌だったんだよなあ…俺がやるといかにもじゃねえか。イツ花、あいつらの
床の支度してやってくれ。環は、部屋まで俺連れてってくれるか」
イツ花はまだ心配そうに眉根を寄せていたが、わかりました、と言って慌しく部屋から出て行った。
「あぁもう…大声なんか出したから、疲れた」
床の上でそう悪態をつく紫苑に、環は上掛けをかけなおしてやりながら、いたずらっぽく笑いかけた。
「雷が落ちたみたいだったもの。やっぱり当主様の一喝は迫力が違うわ」
紫苑は苦笑して、まったくあいつら、と呟いたが、すぐに真顔になった。
「環…輝夜のこと、頼む。あいつあれで結構な甘えん坊だから…甘やかしたつもりはないんだけどなあ」
やれやれと息をつく紫苑に、環はそうじゃないわ、と答えた。
「輝夜は本当にあなたが大好きなのよ…だから今は討伐のことよりも、あなたのことが心配でたまらないだけ。私
が輝夜に話してみるわ。私の初陣の時もちょうど輝夜と同じだったから…今のあの子の気持ちはすごくわかるの。き
っと力になってあげられると思うから」
そうか、と紫苑も安心したように息をつく。環はそんな紫苑に微笑みかけると、立ち上がった。
「じゃあ、私ちょっと行ってくるわね」
「おう、頼む」
環は簾を上げて出て行こうとしたが、ふと足を止めた。
「ああ、そうそう」
「ん?」
「輝夜の初陣…帰ってきたら、どうだったかきちんと報告に上がるから――待っててね」
紫苑に背を向けている環の声は、いつもと変わりないよう努めている様子だった。紫苑は深淵の色の瞳を瞬かせて
そのか細げな後姿を見、次いで当ったり前だろ、と言って笑った。
「楽しみにしてる。そっちこそ無理して怪我なんかするんじゃないぞ…隊長」
振り返った環は、僅かに目を伏せて微笑み、うん、と呟いた。そして、そっと部屋を出て行った。
「輝夜?」
紫苑の部屋から出た環は、その足で輝夜の部屋へ向った。簾が引き下げられた中から、小さな嗚咽が聞こえる。簾
をくぐると、灯りもつけずに輝夜が部屋の隅でうずくまって泣いていた。
「環姉様…」
「灯りぐらいつけなさい。でないとどんどん気持ちが暗くなっちゃうわよ」
まるでこの間の夜の自分と同じだな、と内心苦笑しながら、環は手際よく灯りをともしてやった。薄明かりに浮か
び上がった輝夜は顔中涙だらけ、瞼が見事に腫れあがって愛らしい顔が台無しになっている。輝夜は飛びつくように
環に向き直り、懇願した。
「環姉様、一生のお願い。討伐隊から私を外して。姉様は隊長なんでしょう?」
環の衣を握り締める輝夜の小さな手は、震えていた。環は静かにかぶりを振る。
「…それは、できない」
「どうして…!」
「確かに私は討伐隊長であり、討伐の間あなたたちを指揮する役目にあるわ。でも、討伐隊に誰が加わるかを決め
るのは当主であるあなたのお父様であって、私ではないの。当主があなたを討伐隊に加える、と言った以上、私にそ
れを覆すことはできないわ」
環の返事に、輝夜は思いつめた表情で俯き、ぽろぽろと大粒の涙を落とした。
「父様…なんともないって言うけど、ほんとは具合が悪いの…輝夜にもそのくらいわかるもの…。だから…だから、
傍にいたい…帰ってきたときに、父様がいなくなっちゃってるかもしれないって思ったら…っ」
環はそんな輝夜の髪を優しく撫でてやる。張り詰めたものが切れてしまったように、輝夜は環の胸にすがり付いて
声をあげて泣いた。
「やだ、そんなのやだぁ…」
輝夜が泣き疲れ、ひっく、ひっくとしゃくりあげるようになったころ、環は静かに、優しく語りかける。
「…ねえ、輝夜。もうあなたは、私たちの負うさだめについて…お父様から聞いたんでしょう?」
輝夜は俯いて肩を震わせたまま、こっくりと頷いた。
「鬼を討たねばならないこと…並みの人と比べると、ほんの僅かな間しか生きられず、神々の力を借りないと子を
残せないこと。それが、私達にかけられた呪い。朱点童子を討ち果たさない限り…逃れることはできない、私達のさ
だめ」
そこで環は言葉を切り、輝夜を優しげな眼差しで見やった。
「泣いたらね、負けなんだって」
「…え?」
環が唐突なことを言い出したので、輝夜はその意味がわからずに顔を上げ、ひどく瞼の晴れ上がってしまった目を
見開いた。
「私の父様もね、私が初陣に出る頃――命が尽きかけていて、床に臥していたの。私は、そんな父様の傍について
いられないのが悲しくて、自分がいない間に父様が遠くへ行ってしまうんじゃないか、って思うと不安でたまらなか
った。それに、鬼との血生臭い殺し合いにも慣れられなかったわ。だから初陣に出はしたけれど、討伐先ではずっと
泣いてばかりいたの。そしたらね、その時もう当主だったあなたのお父様が、私にこう言ったのよ。『泣いたら、負
けだ』って」
「父様が…?」
そうよ、と環は眉根を寄せる輝夜に笑いかける。
「朱点童子は、私たちが呪いのせいで泣いたり嘆いたりするのをどこからか見て喜んでるんだって。だから泣いた
ら負けだ。呪いもさだめも、そんなもん全部笑い飛ばしてやれ、って――」
まだ身体の線も細く、声変わりも満足でなかった紫苑の姿が、つい昨日のことのように鮮明に脳裏に蘇ってきて、
環は目を細めた。
「泣いたら、負け…」
輝夜はそう呟くと唇を噛みしめ、眉根を寄せてしきりに瞬きを繰り返している。その様子を見ながら、環は続けた。
「その時、こうも言ったわ。もし俺が朱点童子に辿り着く前に死んだとしても、それは負けじゃないんだ、って。
だからあなたのお父様はけして、自分のさだめを嘆いたりしなかった」
「環姉様は――」
「ん?」
輝夜は嗚咽のせいでつっかえつっかえしながら、懸命に言葉を紡ぎ出そうとしている。まだ小さなその背を、環は
そっと撫でてやった。
「環姉様は、どうして、討伐に行こうって思ったの?どうして、お家に、いなかったの?」
環は、それはねと言って穏やかな笑みを浮かべた。あの当時、泣いてばかりいて紫苑や狭穂や残月に散々心配をか
けていた自分。その自分が今、同じように泣く輝夜を気遣っている。不思議な心持だった。
「私もね、ほんとは討伐になんて行きたくなかった。ずっと父様の傍にいたかった。でも、それは私の我儘。みん
なに迷惑がかかるし、何よりそんなことしたら…父様が一番悲しむだろう、って分かってた。私は――父様がほんと
にほんとに大好きだったから、その父様が死んでしまうことは勿論悲しかったけれど…自分のせいで、父様に悲しい
思いをさせるのはもっと嫌だった。だから、腹をくくることにしたの。悲しいけど討伐に行こう、そして立派に初陣
を飾って、胸を張って父様のところに帰ろう、って」
輝夜はぷっくらとした唇を噛み、眉間に皺を寄せてしゃっくりのような呼吸をしながら沈黙した。環は黙ってその
様子を見守っていたが、暫くしてだいぶ落ち着いた口調で輝夜が口を開いた。
「父様も、悲しいのかな…。輝夜が…お傍にいるって言ったら。輝夜が泣いてたら、悲しいのかな」
「そうね…討伐に行け、って言ってたもの。きっと、嬉しくないんじゃないかな…。それに自分のことであなたが
泣いてしまって、あなたが朱点童子に負けちゃうところは…見たくないんじゃないかと思うわ」
環の言葉に、輝夜は俯いて再び沈黙した。そんな輝夜の顔を覗き込みながら、環は言った。
「でも、こうも言ってたわね。俺は死なない、って。あなたのお父様は、けして嘘はつかないわ。ましてや、大事
な娘であるあなたの初陣なのよ。あなたが元気に戻ってくるのを確かめないで、遠いところへ行っちゃうような人じ
ゃない。帰ってきたら、あなたや樹や隼斗を笑って出迎えてくれる。これはほんとよ」
輝夜は両の拳を膝の上で握り締める。そして、覗き込む環の紺碧の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「ほんと…?」
「そうよ。じゃあ、お父様にこう言っていらっしゃい。私は初陣を立派に飾って、父様にご報告しますからお家で
待っていてください、って。指きりげんまんして、嘘ついたら針千本」
環がにっこりと笑うと、輝夜は決然と立ち上がった。
「私…父様のとこに行ってくる」
「じゃあ、さっきはごめんなさい、って謝るのも忘れないこと。あと、お兄様や隼斗にもきちんと謝るのよ」
うん、と頷くと、輝夜は簾を上げて出て行った。それを見送って、環はそっと笑みを浮かべ、息をついた。
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