翌朝は、雨が降った前日とはうってかわってよく晴れていた。陽炎をまとった夏の白い日差しが容赦なく照り付け、 むっとするような草いきれが立ち上っている。大気そのものを震わすように蝉の声が鳴り響いていた。環を討伐隊長 とする一行は、家の前でイツ花と紫苑に見送られて家を出立した。  「じゃあ、行ってくるわね。留守を頼みます」  「行ってきます、お父さん」  「ちゃんと寝てろよ、兄ぃ」  口々に挨拶の言葉を述べる面々に向って、紫苑は軽く胸を叩く仕草をして笑った。  「おう、任せとけ。お前らもあんまり無茶すんな。輝夜、環の言うことちゃんと聞いて、頑張ってこいよ」  父にそう言われて、輝夜は一瞬、口をへの字に曲げて泣きそうな顔になる。が、すぐに持ち前の輝くような笑みを 浮かべると、行ってきます父様、と元気よく挨拶した。輝夜の後ろに立っていた隼斗と樹が、ほっとしたように顔を 見合わせる。イツ花も顔には出さないが、ほっとしたようだった。そのためか、いつも出立前に言う台詞よりも気合 が入っているようであった。  「当主様のご期待に沿えられますよう。バァーントォ!いってらっしゃいませー!」  一行が家に背を向けて歩き出した時。輝夜が不意に向きを変え、まだ見送っていた父に向って大きく手を振った。  「父様―!嘘ついたら、針千本だからね!」  「誰がそんなもん飲むか。お前こそ、変な先走りしてつまらねえ怪我でもしたら、承知しねえからな」  父の返事に、輝夜はえへへ、と心底嬉しそうに笑うと、一気に踵を返して先頭の環を追い抜いた。  「早くぅ!追いてっちゃうぞ」  そうして、後に続く一行に振り返り、ぴょんぴょんと跳ねる。赤い縄のような髪が、その動きに合わせて揺れて兎 の耳のように揺れた。  「待ちなさい、輝夜。暑いんだからあんまり張り切るとばてちゃうわよ」  環が汗を拭きながらその後に続く。樹と隼斗が、やれやれと言いたげに息をついた。  「あれだけ大泣きしたってのに、随分元気になったもんだ。あいつに何言ったんだよ、環姉。針千本って何がだよ」  「すみません、輝夜のことで面倒をおかけして…まったく、昨日のあれは何だったんだよ」  今ひとつ釈然としない、といった様子の男二人に、環はふふ、と大きな瞳をくりくりさせて笑った。  「ちょっと、ね。女の子だけの内緒話よ」  「何だよ、それー」  和気藹々と歩く一行を、紫苑とイツ花は家の前で姿が見えなくなるまで見送った。紫苑が呆れたように口を開く。  「…呑気な奴らだな。遊びに行くんじゃねえんだぞ、大丈夫か」  「でも、輝夜様が元気になられてほっとしました。あんなに泣かれたのは初めてなんじゃないですか…」  「そうだな。あいつ甘えん坊だから。ただ、これしきのことで使いものにならないようなやつなら、当主は継がせ られねえさ」  そう言う紫苑の表情は、言っていることほどに厳しくはなく、むしろ自分の娘が必ず初陣の成果を上げて帰ってく るという確信に満ちていた。  「輝夜様はきっと…ご立派に初陣を飾ってお戻りになると思いますよ」  イツ花も、討伐隊が歩いていった道を眩しそうに見つめた。    環が輝夜の初陣の場所に選んだのは、相翼院だった。キサの庭で、輝夜の戦いぶりを見極めようと思ったからだ。 キサの庭の歓喜の舞は、雑魚よりは手ごたえのある相手だが、恐るべき強さというわけでもない。自分の初陣の折、 紫苑が「あのくらいが丁度いい」と言ったことが思い出された。  輝夜は、紫苑の見込んだとおり天賦の才を持っているようだった。戦いの場へ足を踏み入れることに対する気後れ は、昨夜のことで覚悟が決まったのか微塵もなかった。眼前の敵は容赦なく叩き潰す。初めは戦いの流れのようなも のがつかみきれていない様子だったが、環が指示を出しているのを見て、見よう見まねで作戦のようなものを進言す るようになってきた。そのうち慣れてくると周囲の状況を完璧に把握するようになり、樹や隼斗が怪我を負っている な、と思えば癒しの術を使うことを、この敵にはこの術が効きそうだ、と思えばそれを隊長である環に進言した。そ の進言の内容は全て正鵠を射ており、環は舌を巻いた。  (さすが、紫苑が当主になれる、と判断した子だけあるわ)  環と輝夜が初陣で置かれた状況は全く同じだったが、輝夜は自分が何をすべきかを理解し、かつ周囲の状況を正確 に把握している。泣いてばかりいた自分を思い出し、環は気恥ずかしくなった。  この子は、間違いなく十一代目日下部紫苑となるだろう。  環は確信していた。    今月は、予定より少し早めに討伐を切り上げて帰途に付くことにした。その理由が分かっているから、皆何も言わ ない。むしろ、帰途を急いでいる節すらあった。  「姉様…」  帰り道、長い長い橋の上を歩きながら、輝夜が小走りで先頭の環に追いついた。上目遣いで環を見上げる。  「なぁに?」  「私、立派だったかな」  輝夜の表情は神妙だった。父に対して、立派に初陣を飾りますと言ってしまった以上、自分への評価がどのような ものなのか気になるのだろう。環はおどけたような笑みを浮かべ、大きく頷いた。  「勿論よ、立派過ぎるくらいだわ。自分の初陣の時を思い出したら、何だか恥ずかしくなっちゃった。大威張りで 家に帰りなさい」  ほんと、と輝夜は瞳を輝かせた。そのまま、やったぁと元気よく叫びながら駆けていく。  「ほらぁ、あんまり離れると鬼に囲まれちゃうわよ」  そう言う環の表情も柔らかい。  「ほんとにもう…心配かけるだけかけといて、あれだもんなぁ」  環の横に、頭をかきながら樹が並んだ。隼斗も、大筒を抱えなおして苦笑する。  「まぁ、元気が一番だろ。兄としては」  確かに泣かれるのは困るけどさ、と樹もつられるようにして苦笑した時、だいぶ遠くまで行ってしまった輝夜が、 何やってんのよぅと橋の上で飛び跳ねた。  「これで、紫苑も一安心ね」  環はくすりと笑って、輝夜の後を追った。    家が近くなると、さすがに輝夜も落ち着きがなくなってきた。父様どうしてるかな、元気かな、とせわしなく環や 樹、隼斗に尋ねてくる。樹や隼斗も、自分たちが帰ってくるまで紫苑が生きているとは言い切れなかったし、そのこ とで自身も十分に不安であったので、適当にあしらうわけにもいかずにあ、うん、などとどこか上の空の曖昧な返事 をしていた。  他の三人がそわそわしている中、環だけは平静だった。    ――俺は死なない。  彼がそう言えば、幽世からの迎えを追い返してでも生きていそうだったから、きっと元気に迎えに出てきてくれる。 そう、信じていた。  家の門が見えてきたとき、我慢できずに輝夜が走り出した。あ、こらと樹が小さく声をあげたが、身ごなしの軽い 拳法家の輝夜はお構いなしに家へひた走った。  「ただいまぁ!父様、父様?!」  赤い疾風のように家へたどり着いた輝夜は、履物を脱ぐのももどかしく、イツ花顔負けの大きな声で帰宅を告げた。  すると。  「何だ、随分騒々しいお帰りだな」  出立前とあまり変わることのない姿の父が、微笑しながら輝夜の前に現れた。  「他の連中はどうした?その様子だと、みんなを置いてきぼりにして走ってきたな。討伐中は歩調を合わせろ、っ て教えたろ」  そう言いながらも、紫苑の口調はあくまでも穏やかで、笑みを含んだ優しいものだった。  「父…様…」  輝夜の目からぼろぼろと涙が溢れてきた。ようやっと履物を脱ぎ捨てると、転がるようにして父の胸に飛び込んだ。 紫苑はそれをしっかりと受け止めてやる。  「父様、ただいま…っ!」  「おう、環の言うこときちんと聞いてたか」  その頃になって、環達一行も家に着いた。洗い物でもしていたのか、イツ花が手を拭き拭き討伐隊を出向えた。  「皆様、お帰りなさいませ!」  「お父さん…」  「何だ――元気そうじゃねえか」  玄関先で、胸にすがりついて泣きじゃくる輝夜の頭を撫でてやっている紫苑の姿を見て、樹と隼斗は気が抜けてし まったのだろう。樹は涙が出そうになるのを堪えようとして大きく鼻の下が伸びてしまい、隼斗はぽかんと口を半開 きにして呆けたような顔をしている。その二人を見て、紫苑がはは、変な顔と言って笑った。  「何笑ってんだよ兄ぃ。ちぇっ、取り越し苦労もいいとこだ。心配して損した」  笑われた隼斗が、抱えていた大筒を下ろして悪態をつく。が、口調とは対照的にその顔は心底嬉しそうだった。よ うやっと泣き止んだ輝夜の顔を指で拭ってやって、紫苑は何言ってやがる、と片眉を上げた。  「だから言ったろ。ちょっと調子崩しただけだって。お前ら俺を誰だと思ってんだ」  そう言った時、自分を見つめている環と目が合った。環は微笑み、軽く頭を下げる。  「ただいま、戻りました」  「おう。全員大した怪我もないみたいだな、上出来だ。…お帰り」  紫苑も、その瞳を見つめ返して笑った。  「あらあら」  夕餉の後、紫苑の部屋に向かった環は、大きな瞳を更に丸くした。本来ならば紫苑が寝ているはずの床で、輝夜が 小さな寝息を立てている。環を見て、愛娘の傍らに座っていた紫苑が苦笑した。  「帰ってくるなり、しゃべり通しでさ。相翼院で何があったとか、その時こうしたとかずーっと。しまいには、し ゃべり疲れて寝ちまった」    「ふふ、家から遠出するのなんて初めてだったものね。お父様に会えて安心したんじゃないかしら。それじゃあ、 私がわざわざ話しに来なくてもよかったかな」  環がくすくす笑いながら紫苑の隣に座ると、紫苑はさあな、と苦笑して輝夜が包まっている上掛けをかけなおして やった。簾の向こうの庭では、いよいよ元気を増してきた秋の虫たちが声色を競っているようだった。重なり合う虫 たちの声を聞きながら、二人は暫くすやすやと眠る輝夜の寝顔を眺めていた。  「…輝夜の初陣、ね」  部屋のほのかな明かりを頬に受けながら、環が口を開いた。  「大したものだったわ。体術の技量は申し分ないし、周りが今どうなってるか、きちんと考えた上でこうしたらど うか、って進言してくるの。きっと立派な当主になれるわよ」  「そうか。じゃとりあえず合格、かな」  紫苑の言葉はそっけなかったが、表情はあくまでも優しげである。そうして、幅の広い肩を少しすくめてみせた。  「でもこんな様子じゃあ、立派になれるのはまだまだ先だな」  「あら。私の初陣、覚えてるでしょ?泣いてばっかりで紫苑に散々怒られて。私に比べたら、輝夜の初陣は立派過 ぎるぐらいよ」  おどけたように目を瞬かせる環に、紫苑はそういえばそうだ、と目を伏せて薄く笑った。  「何だか、遥か昔のことみてえだな。たった――一年ちょっと前の話だってのに」  「そうね…」  夏の終わりのやや涼しくなった夜風が、部屋の簾の隙間から入り込んで明かりを揺らしていく。それに合わせて、 二人の影が寄り添うように大きく揺れた。  「――でも」  「え?」  紫苑は頬杖をつき、輝夜の寝顔を眺めている。その横顔は頬杖をつく手の陰になって、環からはよく見えない。    「この一年…たった一年だけど、俺にとってはかけがえのない一年…だったな」  紫苑の小さな呟きに、環は驚いたようにその大きな瞳を見開き――俯いて唇を引き結ぶと、数度瞳を瞬かせる。  「や…あね、そんな締めくくるような言い方して。来月に…来月になったら、隼斗や樹をしごくんでしょ?」  「はは…そうだな」  小さく笑う紫苑は、相変わらず顔をこちらへ向けない。  環は小さく息をついた。心の中の想いを、呼吸を鎮めるかのように。そうして次に顔を上げたとき、沈痛な表情は 消えていた。代わりに柔らかな微笑みを紫苑に返す。  「…あのね」  「ん?」  「ちゃんと…出迎えてくれて、有難う。すごく…嬉しかった。ほんとに、嬉しかったの」  紺碧の瞳がきらめいたのは、夜風にゆらぐ部屋の明かりのせいだろうか。環は軽く額を紫苑の広い肩につける。  「…当ったり前だろ」  二人とも、それ以上何も言わなかった。  ただ輝夜の寝息と夜風が庭の草木をさやさやと揺らす音、秋の虫たちの鳴き声が聞こえるのみであった。    
 
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