その翌朝。イツ花の素っ頓狂な悲鳴が響き渡った時、隼人や樹、輝夜は己の耳を疑った。
「大変です、皆様来て下さい! 当主様が…当主様がお倒れにっ!」
家の中が一瞬にして騒然となった。狭穂も残月も将臣も、死ぬ前はずっと床に臥せったままだったのだ。起き上が
れるうちはまだ大丈夫だ、と。イツ花でさえももしかしたら来月までもつのではないか、と思っていた矢先だった。
しかし、環だけは驚かなかった。
昨夜、もう紫苑は長くないと感じていたから。覚悟は、していた。
一族が当主の部屋へ集まった時、紫苑は床についていた。普段起きてくる時刻になっても紫苑の姿がなかったので、
イツ花が様子を見に行って異変に気づいたのだという。起き上がろうとして、床の横で倒れていたそうだ。
「来た…か」
横たわる紫苑には、最早起き上がる力は残されていないようだった。発する声は吐息のように小さく、顔色はます
ます蒼白い。
「父…様…」
「お父さん…」
輝夜が呆然と部屋の入り口にへたり込む。それを支える樹の手も、小刻みに震えていた。
「ほら…そんなとこでへたりこんでたら、話ができねえだろ……」
紫苑が床の上で、蒼白な顔に苦笑を浮かべる。環と隼斗が手を添えて、兄妹を傍らまで連れて行った。
「ほんとに…いつだって、紫苑は唐突なんだから」
放心している輝夜に付き添っている環が、悲しげに笑う。紫苑はそんな環に、あの夜見せたような透明な笑みを浮
かべた。
「そりゃあ…俺だからな。いいだろ、臥せったままみんなに気遣わせるより…さ」
「紫苑らしいけど…いくら何でもちょっと急すぎるわよ」
環が目を瞬かせると、一筋、滑らかな頬を涙が伝い落ちた。紫苑は笑みを浮かべたまま環を見、ついで自分を取り
囲んでいる隼斗と子供たち、それにイツ花を順に見た。
「俺の命はもう尽きる…次の当主を…決めるぞ」
「やだ…!父様、まだ元気にしててよう…!」
輝夜がぼろぼろと大粒の涙を零しながらかぶりをふる。紫苑は、己の傍らで泣きじゃくる愛娘に優しげな眼差しを
送ると、同じ視線を環に向けた。
「環…お前が、次期当主だ。宜しく…頼む」
「環姉が…?」
隼斗と樹が驚いたように、輝夜の顔を袖で拭ってやっている環を見た。環は一歳三ヶ月。当主を継ぐには、やや遅
い年齢である。
「ああ…輝夜の泣き虫が取れるのは…まだ先のことだからな。環、こいつに当主として…何をすべきかを教えてや
ってくれ。…指輪を」
それは、事実上輝夜が次期当主であることを意味していた。環は、自分を信頼のこもった目で見つめる紫苑に涙の
筋を光らせたまま頷くと、上掛けの中から差し出された手をそっと取った。紫苑の開かれた掌から、今まで当たり前
のようにその手にはまっていたもの――当主の指輪が、ころりと環の掌に転がり落ちる。環は、仄かに体温が残って
いるそれを包み込むように両の手で握り締めると、自分の指にはめた。紫苑の薬指にあった指輪は、環の中指でも緩
かった。環は、指輪をはめた手を確かめるようにもう一度見、にっこり微笑んだ。
「もちろんよ。私にできることは…精一杯するつもり。任せて」
「ああ…頼むぞ。樹も隼斗も…環をちゃんと、補佐するんだぞ」
唇を噛みしめて樹が、そして隼斗が頷く。
「…輝夜」
父に名を呼ばれて、輝夜がのろのろと顔を上げた。
「あんまり泣いてると、安心して逝けねえだろ…きちんと笑って送ってくれよ…」
輝夜は、極端に口をへの字に曲げ、目をしきりに瞬かせる。そして、肩を抱いていてくれている環を見上げた。環
はその頬に残った涙をもう一度拭いてやり、優しく微笑みかける。輝夜は今にも壊れそうな、精一杯の笑みを浮かべ
て、うん、と呟いた。それで、紫苑も安心したようだった。
「ったく…ほんとは、今月体をしっかり治して…まだまだ長生きするつもりだったんだけどな……」
「父様……!」
瞼が閉じられる。輝夜が握るその手から、力が失われてゆく。眠るような呼吸を一度発したあと、紫苑が再び息を
することはなかった。
「お傍にお仕えできたことを、嬉しく思います…」
臨終を確認したイツ花が、ぽつりと呟いた。
「父様ぁ…っ…!」
輝夜が父の手を握り締め、それを胸にかき抱いて声をあげて泣いた。樹も隼斗も、声を押し殺しているものの、涙
がとめどなく頬を伝い落ちる。だが、彼らを気遣っていた環にもう涙はなかった。
環は輝夜の背中をさすってやりながら、泣く皆に静かに語りかける。
「みんな…紫苑は――彼はほんとに立派に、呪いと戦ったわ。だから、笑って…敬意を払って送り出してあげまし
ょう。ね?」
意外にも、一番最初に泣き止んだのは輝夜だった。
「うん…輝夜が泣き止まないと…父様お空に昇れないもんね…」
樹と隼斗も、鼻をすすり上げながら姿勢を正す。環が、凛とした声で挨拶の言葉を述べた。
「第九代日下部紫苑殿、長い間お疲れ様でした!」
それに続いて、樹と輝夜、隼斗、それにイツ花もお疲れ様でした、と述べた。
紫苑はまるで眠っているようだった。環はその死に顔を穏やかに見つめた。
「まったく…最後まで、素直じゃないんだから…」
初めて会った時のこと。初陣で叱られた時のこと。
父に先立たれて、泣いていた自分を慰めてくれた時のこと。相翼院で見せた、優しげな瞳。
あの夜に――力強く抱きしめてくれた時のこと。
様々な紫苑の表情が、環の脳裏に陽炎のように浮かび上がっては消える。
「有難う。…飛炎」
最後に環は、彼の本当の名を口にした。初秋のよく晴れた日の朝のことだった。
九代目日下部紫苑、幼名飛炎。この日、永眠。
享年一歳六ヶ月。
そして、環は十代目当主として、『紫苑』の名を襲名した。
「当主様…折り入って、お話がございます」
飛炎の葬儀を終えた後、イツ花が生真面目な顔で傍らへやってきたので、十代目紫苑となった環は、何事かと瞳を
瞬かせた。
「なあに?」
「今なら、まだ故人のお力を蘇らせることができます」
環は、細い眉根を寄せ、首を傾げた。イツ花の言っていることの意図がつかめなかったのだ。まさか、飛炎が生き
返るとでも?
「故人を氏神としてお祭りするのです」
「氏…神?」
聞いたことがある。死んだ者で、特に強い力を持つ者は氏神になれる、と。まだ話がよく飲み込めないでいる環に、
イツ花は続ける。
「氏神となられた御魂は、天界にある交神の間へ立ち入りが許されるんですよ。そして、天界で御子をお育てにな
ることも」
イツ花の言葉が何を意味しているか。それを悟り、環は瞳を見開いた。
「イツ…花?」
いかがなさいますか、とイツ花はいつになく生真面目な顔で当主の指示を待っている。環は逡巡した。瞳を伏せる
と、長い睫毛が頬に影を落とした。
氏神――
飛炎が氏神になれば――彼の子を授けてもらえる。並みの人と同じように。
愛する人の子を。
(だけれど…)
もし飛炎が氏神になったとして。自分が氏神になれなかったとしたら?
自分が、飛炎のような強い力を持っているとは思えない。とすると、氏神と氏神になれなかったものは、同じ場所
にはいられないのだろうか。死んだ後、彼とは会えないのだろうか?それは、飛炎の子が授かるということと秤にか
けても、環にとってはとても辛いことである。永遠に彼と離れ離れになるなんて――
――思い出せ。
ふと、彼の腕のぬくもりが環の中に鮮やかに蘇った。たった一度きり、飛炎と思いを交わした時のことが。
――俺は必ず、お前に会いに行く。
はるか前のことのようにも思えるのに、彼のその言葉はあまりにもはっきりと――ついたった今、環の耳元で囁か
れたかのように――聞こえた。
(そう…そうよね)
彼はけして嘘はつかない。
今月の初めに輝夜にそう言ったのは誰でもない、自分であったはずだ。環は目を上げた。
その瞳にもう迷いの色がないのを認めて、イツ花はにっこりと微笑んだ。
翌月。日下部家十代目当主の交神の儀が行われた。交神相手は日下部家から昇天したばかりの氏神――『太海王日
下部』。
生前の名を、飛炎といった。
|